10.泣かせないでくださいまし旦那さま♡
「私のような男が夫ではない方が、君が幸せになれることは分かっている。だが私は──ベサニー。ここでもう一度だけ甘えてもいいだろうか──」
ベサニーは握りしめた両手にさらに力を入れた。
──旦那さまはもうすべてお決めになられているのだわ。
──嫌ですわ。嫌よ。けれど……分かっておりますのよ。それが本来の形ですもの。
──収まるところに正しく収まることで、ようやくテオさまは幸せになりますのね。
せめて今日を楽しい一日にすると決めていたのに。
それも成し遂げられなかったベサニーは唇を噛む。
そうして自分を戒めると、ベサニーは笑った。
視界が曇って、前はよく見えなかったけれど。
それでもベサニーは精一杯の笑顔を見せた。
それをテオドールがどう捉えたのか。
そして今、夫がどんな顔をしているか。
ベサニーは知らない。
「君は本当に──私には余りある幸運だな」
ぼそりと零したテオドールが、急に椅子から立ち上がった。
──あぁ、行ってしまわれますわ。
ベサニーは夫に手を伸ばしたかった。
腕を掴まえて、抱き着いて、離れていかないでと、泣いて懇願したかった。
それでもべサニーは座ったまま笑顔を見せる。
──仕方がありませんのよ。テオさまは、あの国の王子さまでしたもの。
──これまでの辛い日々が報われようとされているのですわ。わたくしも今だけは妻として祝福しなければ。
──けれど酷い御人ね。最後にお辛い話を聞かせてくださるなんて。もうわたくし、怒ることも出来なくなりましたわ。
──悔しいから笑顔で送り出して見せますわよ。
──お願いですわ、旦那さま。いつまでもこの笑顔を覚えていてくださいましね。
「え?」
ベサニーの曇る視界の中で急に夫が小さくなって、ベサニーは慌てた。
「だ、旦那さま。ここには絨毯もございませんことよ?そのように座っては、足を痛めてしまいますわ」
ベサニーは、テオドールが自分の真横の床板に座ったように見えていた。
それは毎夜夫が寝室でそうするように──。
テラスの床板は固く、夫が座るにはとても適さない場所である。
それに外で過ごすには快適な季節とはいえ、木の板は冷たいのではない。
焦ったベサニーは椅子から腰を浮かし掛けていた。
その両手が包まれて、驚いたベサニーの腰が落ちる。
「聞いて、ベサニー。私はこれから本当に無価値となる。過去に王子であっただけの男、それが私だ」
──過去に……?夫であったことも忘れてということかしら?
──本当に酷い御人だわ。それでも……。
ベサニーは包まれた両手を振りほどけない。
「ベサニー。そんな私と──」
微笑みが崩れないように、ベサニーは握る両手だけでなく、顔にも力を入れた。
そんなベサニーの気も知らないで、目の前でテオドールは語る。
「これからも共に生きてくれるだろうか?今は根拠も見せられず、口にすることしか出来ない情けない男だが。君にとって価値ある夫であれるよう努力を重ねる。必ずや君が満足する夫であるようにこの身を尽くそう。だからどうか──お願いだ、ベサニー。夫婦として、これからも私と共にあってくれないか──」
繰り返された瞬きと共にベサニーの両の瞳から雫がぽろぽろと零れた。
「だ、旦那さま?聞き間違いでございませんでしたら、わたくしとこれからも夫婦でありたいと仰いまして?」
「ベサニーは私が夫では嫌だろうか?」
「いいえ、そうではありませんの。皇女さまとのご結婚はどうなさいますの?」
「え?結婚?」
「帝国の第四皇女さまですわ。旦那さまはわたくしと離婚して、皇女さまとご結婚なさるものだと思っておりましたのに」
それまで固く結ばれていたベサニーの両手は、それを包んでいた大きな手により、優しく解かれた。
掴むところを失ってベサニーの手が心細さを感じる前に、テオドールの左右の手が両手を奪う。
水分が溢れたことで、ベサニーの視界に鮮明さが戻ってくれば、目のまえにはテオドールの笑顔だけがあった。
それがいつも夜も更けた頃に見られる、ベサニーがよく知る、可愛くて、愛おしくて、いつまでも不憫な、夫の笑顔であったから。
ベサニーは今度こそ笑った。それは同じく夜が更けた頃に、ベサニーが夫に見せてきた笑顔だ。
「ベサニーはそれで様子がおかしかったのか」
一人納得した夫は、笑顔のままに語り出す。
「今まで散々私はベサニーに甘えてきただろう?そのうえいよいよ私が本当の意味で無価値になることが決まったから。未来に侯爵となる責務もあるベサニーに、私のせいで将来を思い悩ませて、過剰に心労を掛けてしまっているのだと思っていた」
夫がにこにこと笑っている理由が、まだベサニーには分からない。
それでもベサニーは、目のまえの夫がただただ愛おしくて堪らなかった。
どうやら夫婦であり続けられるようだ。
その事実だけで、ベサニーの身体は安らぎと幸福感に満ちていたから。
「今まで君にはこれ以上の余計な負担を掛けたくなくて。帝国絡みの話だけは話題にしないようにと避けてきた。甘えて来たくせに、肝心なところを伝えなかった私は、本当にどうしようもない夫だったな。それでもまだ、ベサニーに私と夫婦を続ける意思が少しでもあるならば……聞いてくれるか、ベサニー?今は亡きあの国と帝国に何があったか──」
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