三章 沼田の告白
平成四年、六月の終わり。梅雨が明けた新宿の路地から見上げる空は何日かぶりに薄い青を取り戻している。雑居ビルの三階の窓を開ける。と、湿った空気の中にわずかだが乾いたものが混じっているように感じた。夏がすぐ側まで来ようとしているのか、そんな事を思いながら桐島は窓辺で煙草に火を点け、煙を外に逃がす。沼田に会ってから三日が経とうとしている。あの日以降、桐島は事務所で動かなかった。いや、動けなかった。と、言った方が正しいかもしれない。沼田の言葉が頭の中で反芻されていた。降りろ。生きてる、とも、言えなくなる。お前は、もう、向こう側の人間だ。──三日間、それらの言葉を何度も繰り返し考えていた。考えても答えは出なかった。考える。と、いう作業の途中で必ず頭の奥が痺れる。痺れるたびに考えは中断された。誰かが考えるのをやめさせようとしているのか?そう思うこともあった。誰が、何のために。それも考え始めると痺れてくる。麻子はいつも通り出勤していた。三日間、特別なことは何も言わず、ファイルの整理、電話番、茶を出す。普段の業務を淡々とこなしていた。ただ、桐島が向井和子と田島の妻に「もう少し時間が欲しい」と電話で伝えるのを机の向こうから黙って聞いていた。聞いていた。と、いうよりも──聞こえないふりをしていた、と言うべきかもしれない。桐島は麻子に何も聞かなかった。聞いても答えは引き延ばされる。それは、もう分かっていたから。その朝、事務所の電話が鳴る。麻子が受話器を取り、「桐島探偵事務所」と名乗りしばらく黙って聞いている。麻子の表情がゆっくりと強張っていく。何かが、聞こえているのか。良くないものが。
「……はい。……ええ、おりますが。──少々、お待ちください」
麻子は受話器を伏せながら桐島の方を向く。
「沼田さんの娘さんから」
「沼田の——何の用だ」
「沼田さんが、亡くなった、と」
桐島はしばらく動けなかった。窓から差し込む朝の光が机の上の灰皿を照らし煙草の灰がわずかに崩れ机に落ちる。桐島は受話器を取ると女性の声が聞こえてくる。三十代くらいの女性か、声が震えている。
「私、沼田の娘で加奈と申します。突然のお電話で申し訳ありません」
「いや。沼田さんが亡くなった、と」
「はい。昨夜、家のマンションの階段で。事故、ということになっています」
事故。桐島は、その言葉を頭の中で繰り返す。
「父の遺品を整理していて桐島さんに渡してほしいと預けられたものが出てきました。三年ほど前に預けられたものです」
「三年前」
「はい。父は『もし自分に何かあったら、これを桐島さんに渡してくれ』と申しまして。──あの時は冗談かと思っていました。でも、」
女の声は、そこで途切れる。
「いつ、お伺いすればいい」
「通夜が今夜です。場所は──」
加奈は葬儀場の名を告げる。中野の小さな寺。桐島はメモを取り礼を伝え受話器を置く。麻子が机の向こうから桐島を見ていた。
「事故じゃない、と思う?」
「分からん。だが引っかかる」
「沼田さん、桐島さんに会った直後に」
「ああ」
麻子は何も言わなかった。ただ、湯呑みを片付ける手がいつもよりわずかに遅かった。
——————
通夜は午後六時から始まる。中野の駅から歩いて十分ほどの古い寺であった。山門の脇に小さな墓地があり、その奥に本堂と、葬儀用の別棟がある。桐島は香典を持ち別棟の入り口で記帳をする。記帳簿に並ぶ名前は少なかった。沼田に親しい人間は多くなかったのか、あるいは──来られなかった人間が多かったのかもしれない。別棟の中は線香の煙で薄く靄がかかっており、祭壇の前に沼田の遺影が置かれていた。十年は前のものだろうか。今より少し若く髪も白くなりきっていない沼田の顔。だが、目だけは桐島が三日前に見たあの目と同じだ。何かを、抱えている目。桐島は焼香をし、合掌しながら、心の中で沼田に問いかける。あんたは、何を、知っていた。──返事は、ない。当然だ。焼香を終えて振り返る。と、喪服の女が立っている。三十代後半、沼田に似た目をしていた。
「桐島さんですね。電話を差し上げた加奈です」
「このたびは──」
「ありがとうございます。父の遺品、別室に置いてあります。よろしければ」
桐島は頷き、女について別室に入る。三畳ほどの和室で座卓の上に茶封筒が一つ置かれていた。封筒は厚みがあり表に何も書かれていなかった。ただ、糊で固く封をされている。
「これが父が三年前に私に預けたものです」
「中身は」
「見ていません。父から開けるなと言われました」
桐島は封筒を手に取ると重みがあり紙の束が入っている。
「加奈さん。失礼を承知でお聞きします。お父様は、最近、変わったご様子は」
「変わった、というほどではないのですが。三日前に桐島さんが父に会いに行かれた。と、聞いていました」
「ご存じだった」
「父がその日の夜、私の家に電話してきたんです。普段はめったに電話してこない人なのに。『悪かったなお前にも迷惑をかけた』と」
「迷惑、とは」
「分かりません。聞き返したのですが父はそれ以上言いませんでした。ただ、最後に、こう言ったんです。──『俺は、たぶん、もうすぐ、あちら側に呼ばれる。だから、桐島に、あれを渡してくれ』と」桐島の手が、封筒の上で止まる。あちら側。沼田は、そう、言った。三日前、桐島には「向こう側」と言った。あちら側。向こう側。同じものを指している。
「それが、最後の電話でした。翌日、父は階段から落ちて」
「警察は、事故と」
「はい。深酒をしていた形跡があった、と。──ですが、父は酒は強い方ではなくあまり飲まない人でした」
桐島は加奈へ視線を向ける。加奈の目に疑念があった。が、その疑念を声に出して言うことが、彼女にはできなかった。声に出してしまえば認めなければならない。父の死が事故ではなかったことを。
「加奈さん。これは、私が責任を持って預かります」
「お願いします」
「もう一つ。お父様は、生前、平成元年の四月、というのが、何かを意味する、とおっしゃっていたことは」
「いいえ。そういうことは、特に」
「そうですか」
「ただ──父は、平成元年の春に仕事を一度、辞めようとしていました。理由は教えてくれませんでした。私と母が何度も説得をして思いとどまってくれました。あの時の父は──怖がっていました」
「怖がっていた」
「ええ。何かを。父のような人があんなに怖がるのは見たことがなかった」
桐島は通夜の場を出ると、外はすでに暗かった。寺の境内には小さな提灯がいくつか灯っている。桐島は門の近くで煙草に火を点ける。封筒の重みが内ポケットを引っ張っていた。中身を今すぐ確かめたかった。が、ここでは確かめない方がいい。と、直感が告げている。事務所も、自宅も、安全とは言えない。今夜、どこか別の場所で開けよう。と。桐島は寺を出て駅とは反対の方向に歩いた。中野の住宅街を抜け高円寺の方へ三十分ほど歩くと古い喫茶店が見えてくる。〈純喫茶・椿〉。何度か入ったことのある店でマスターは桐島を覚えていた。客は桐島の他に奥の席に老人が一人いるだけ。桐島は窓際の席に座りコーヒーを頼み封筒を取り出し糊で封じられた口を慎重に開けた。中から出てきたのは紙の束。古いコピー用紙。インクが少し褪せており、三年前に書かれたものらしかった。一枚目は沼田の手書きの便箋。
〈桐島へ。お前がこれを読んでいるということは、俺はもう、こちら側にはいない。たぶん、殺されたか、消されたか、そのどちらかだ。お前に渡したかった理由はお前にしかこれを使えないからだ。お前は知らない方が幸せな人間だ。だが、お前は、結局、また、ここに戻ってきた。三日前、俺の事務所に来たお前を見て、俺は分かった。お前は、もう、降りられない。だから、これを渡す。俺が三十年かけて集めたあいつらの記録だ。
名前。場所。手口。そして──「契約」の方法。
全部、ここに書いてある。ただし、一つだけ忘れるな。お前自身も「契約」した一人だ。平成元年、四月。お前は消えた。今ここにいるお前が誰なのか──それをお前自身が確かめる時が来た。すまん。俺にはここまでしかできなかった。沼田〉
桐島は便箋を握ったまましばらく動かなかった。窓の外を夜のバスが走り抜け、マスターがコーヒーを運んでくる。桐島は礼を言ったが自分の声が遠くから聞こえるように感じる。——「契約」した一人。平成元年、四月。お前は、消えた。沼田の文字は力強く迷いがなかった。冗談ではない。沼田はこれを本気で書いている。桐島はコーヒーを一口、飲み、苦みが口の中に広がる。──そして奇妙な感覚が訪れる。沼田の文字を読みながら桐島は驚いていなかった。驚かなければいけないはずなのに心のどこかがそれを当然のように受け止めていた。——知っていた。頭ではなく体の奥のどこかがずっと前から知っていた。残りの紙の束をめくる。二枚目以降は沼田の調査メモであった。日付、場所、人物。
〈昭和六十一年・神田・松下登(45)失踪。借金二千万。三ヶ月前から「方法を見つけた」と発言〉
〈昭和六十二年・池袋・寺田直三(51)失踪。借金一千五百万。妻は再婚、十四歳年下〉
〈昭和六十三年・横浜・上岡和也(48)失踪。借金三千万。失踪後、妻が同じ年に再婚〉
ページをめくるたびに似た記録が続く。昭和五十年代後半から平成三年まで。沼田が記録していたのは桐島の事務所で見つけた三件どころではない。少なくとも三十件以上の失踪が似たパターンで起きていた。借金。中年男。妻は若い。失踪後、家族は再婚するか、引っ越すか、いずれにしても新しい生活に移っている。
そして──ある記録に、桐島の手が止まった。
〈平成元年・四月・神田・桐島悟(38)。元刑事。葛西刑事殉職事件後、退職。失踪。──ただし、戻ってきた。誰だ、これは〉
桐島は、その文字を何度も読み返す。平成元年・四月・神田・桐島悟。元刑事。葛西刑事殉職事件後、退職。失踪。──ただし、戻ってきた。
誰だ、これは。
誰だ、これは。
誰だ、これは。
ダレダ、コレハ。
桐島はコーヒーの湯気がゆっくり立ち昇るのを見ていた。湯気が天井に向かって消えていく。消えていく速度に、自分の中の何かが同期しているような気がした。戻ってきた。と、沼田は書いた。それは消えたはずの桐島が戻ってきた。と、いう意味だった。だが、沼田は書いた。誰だ、これは、と。戻ってきた桐島は本当に桐島なのか?沼田はそれを疑っていた。三年前からずっと疑っていた。だから桐島が三日前に事務所を訪ねてきたとき、沼田は桐島を「向こう側の人間」と呼んだ。桐島はコーヒーをもう一口、飲むと冷めかけていた。マスターが奥でラジオをつけると、古い歌謡曲が小さく流れ始める。平成元年、四月。その月のカレンダーが事務所の壁に画鋲で留められたままになっている。桐島自身が捨てられなかったカレンダー。なぜ、捨てられなかったのか。今、ようやくその理由の輪郭が見え始めていた。
あれは──墓標だった。桐島自身の、墓標。
最後のページに、沼田の追記があった。
〈追記。あいつらは「組織」とは名乗らない。だが、確かにそれはある。窓口は葛飾の不動産屋。代表者は多分、佐久間と名乗っている男ではなくその上にいる女だ。女の名前はまだ掴めていない。だがその女がお前の妻だった可能性がある。麻子と名乗っていた女だ。お前は、それを、覚えているか〉
桐島は便箋を座卓の上に置く。手が震えていた。いや手だけではなく、体の、奥の、もっと深いところが震えている。マスターがコーヒーのお代わりを聞きに来来たが、桐島は断った。声を出すのが辛かった。マスターは桐島の顔を見て何も言わずに引き返す。窓の外を人が通り過ぎていく。会社帰りらしいサラリーマン、買い物袋を提げた主婦、自転車に乗った中学生。普通の夜の普通の風景。彼らは知らないだろう。自分のすぐそばで一人の男の人生が根本から崩れていることを。
——————
組織はある。沼田はそう書いた。佐久間はただの窓口でその上に女がいる。その女は麻子だった可能性がある。可能性。で、はなかった。たぶん、そうなのだろう。麻子が、〈さくら不動産〉を知っていた理由。麻子がファイルキャビネットの動きが手慣れていた理由。麻子が桐島の過去についていつも何かを呑み込んでいた理由。すべて、繋がる。そして、桐島自身。桐島は平成元年に消えた人間だった。沼田の記録に書かれているあの長いリストの一人だった。借金で消えたのではない。葛西の死で消えた。だが──戻ってきた。戻ってきた桐島が本当に桐島なのか、沼田は疑っていた。その疑いを、今、桐島自身が引き継いだ。桐島は、ふと、自分の手を見る。四十七歳の男の手。指は太く、節くれだっており、煙草で黄ばんだ親指。古い傷が左の親指の付け根にあった。刑事時代に、ある事件でついた傷。覚えていた。確かに、覚えていた。
だが──
その傷の記憶は本当に自分の記憶なのか。それとも、誰かに、そう、思い込まされた記憶なのか。区別がつかなかった。区別がつかない。と、いうこと自体が答えだった。桐島は紙の束を封筒に戻し内ポケットにしまった。会計を済ませ店を出ると、夜の高円寺の街は駅に近い方に行くほど賑わっていた。若者が居酒屋の前で笑っていた。屋台のような店から煙が上がり、桐島はその雑踏の中を歩いた。歩きながら考えた。これから、自分は何をすべきか。
——第一に麻子と話す。沼田が書いたことが本当かどうかを確かめる。麻子はたぶん認めるだろう。あるいは認めないかもしれない。どちらにしても桐島は麻子の答えを聞くしかなかった。第二に佐久間をもう一度訪ねる。沼田が言うように佐久間が窓口に過ぎないのなら、佐久間からは組織の上の人間に繋がる糸を引き出せるはずだ。第三に──自分自身を確かめる。平成元年の四月に何が起きたのか。葛西の死の後、自分はどこへ消え、何になり、どうやって戻ってきたのか。それを、思い出す。思い出すと、戻れない、と女の声は言った。あれは警告だったのか、それとも、誘いだったのか。桐島は駅の方に向かいながら煙草に火を点ける。煙が夜の空気の中にほどけていく。
——————
その夜、桐島はアパートに戻らなかった。新宿の安いビジネスホテルにチェックインする。沼田の遺品を持ったまま、自宅やアパートに戻るのは、危険だと判断したためだ。沼田を殺した人間が──事故ではなく殺されたのだとすれば──次に狙うのは桐島だった。ホテルの部屋は五階の角部屋。窓から新宿の夜景が見え歌舞伎町のネオンが遠くで瞬いている。桐島は窓辺の机に封筒を置きもう一度中身を読み直す。読み直すたびに新しい発見がある。沼田はそれぞれの失踪に関連する不動産屋、貸金業者、葬儀屋までも調べていた。彼らは互いに繋がっており、葛飾の佐久間の事務所だけが窓口ではなかった。都内に少なくとも五箇所、似たような「窓口」があった。そして、もう一つ。沼田のメモには、ある名前が、何度も登場していた。
〈中津〉
名字だけ。下の名前は記されていない。男なのか女なのかも書かれていない。が、いくつかの記述からその人物が組織の中で佐久間の上にいる存在らしいことが推測できた。〈中津、四月の見送りに立ち会う〉〈中津、新規契約者の最終確認〉〈中津、廃棄処分を指示〉
——廃棄処分。その言葉が引っかかった。廃棄処分される、対象は、何か。
桐島はベッドに横になる。が、眠れないのは分かっていた。だが、目を閉じる。閉じた瞼の裏に沼田の文字が浮かんでくる。
——誰だ、これは。
桐島悟と名乗っているこの男は誰なのか。桐島は自分の名前を声に出して呟いてみる。「桐島悟」。何度か繰り返す。「桐島悟」「桐島悟」「桐島悟」。繰り返すうちにその名前が自分のものでないように聞こえてきた。誰か他人の名前を自分が借りているような感覚。窓の外でサイレンが鳴った。救急車。あるいは、パトカー。新宿の夜はいつも何かが起きている。誰かが運ばれている。あるいは運ばれていない誰かが夜の底に沈んでいる。桐島は目を開け、天井のクロスを見つめる。クロスの目の細かい模様が揺れて見えた。揺れていたのは桐島自身の方だった。
——————
翌朝、桐島はホテルを出てまず公衆電話から事務所に電話を入れる。と、麻子の声が聞こえてくる。
「お疲れ様」
「俺だ。今日、事務所には行かない」
「うん」
「昨夜、沼田の通夜に行った」
「……うん」
「沼田は、俺に、ある封筒を残していた」
電話の向こうで麻子が、息を、止めた。止めたまま、数秒、何も言わなかった。
「麻子」
「うん」
「中身は、もう、読んだ」
「……」
「沼田が書いたことは、本当か」
長い沈黙があった。麻子は答えなかった。答えようとして答えられないでいる。と、いう沈黙に感じる。
「麻子」
「桐島さん——事務所に戻ってきて」
「行けば、答えてくれるか」
「答える」
「全部、か」
「全部」
桐島はしばらく受話器を握っていた。罠かもしれない。と、思ってしまった。麻子が組織の人間なら桐島を呼び戻し、待ち構えているかもしれない。だが、麻子の声には罠の響きはなかった。あるのは、ただ、長い疲労だった。
「分かった。一時間で行く」
「待ってる」
桐島は受話器を置き、煙草に火を点け、新宿駅の方に歩き出す。途中、何度か、後ろを振り返るが、誰もつけていなかった。少なくとも桐島にはそう見えた。事務所に着いたのは午前十時過ぎ。雑居ビルの三階の扉を開けると、麻子はいつもの机に座っていた。が、いつもと違うのは机の上に小さな鞄が置かれていたことだった。旅行用の布製の鞄。
「出かけるのか」
「ええ。桐島さんと話したら、出ていくつもり」
「どこに」
「分からない。──分かったら、桐島さんも巻き込むから分からない方がいい」
桐島は、煙草に火を点け、
「座れ」
「うん」
麻子はソファに座り、桐島は麻子の向かいに座る。二人の間に座卓があった。座卓の上に麻子は古い茶封筒を置く。沼田が桐島に残した封筒と似たような形の封筒。
「これは私の話。──私が桐島さんにいつか話そうと思っていた話」
麻子は封筒を桐島の方に押す。
「読まなくていい。私が口で話す」
「分かった」
麻子は深く息を吸い吐いた。そして、話し始める。
「私の本当の名前は麻子じゃない。──秋吉香織。それが私の戸籍上の本当の名前」
桐島は煙草をゆっくり灰皿に置く。
「私は昭和五十九年から平成元年の春まである組織にいた。組織は自分たちのことを名乗らない。けれど、業界では〈蒸発代理人〉と呼ばれていた」
「蒸発代理人」
「ええ。借金や、罪や、家族から逃れたい人間に新しい人生を売る組織。新しい戸籍、新しい場所、新しい仕事。代金はその人がこれから稼ぐであろう生涯賃金の半分。組織はそれを分割で回収する。私は組織で契約者の世話をする女だった。新しい人生に移った人間が戸惑わないように最初の半年から一年サポートする役割。──桐島さんも私が担当した一人だった」
「俺が」
「ええ。平成元年、四月。葛西刑事の殉職の後、桐島さんは組織と契約しようとした。葛西を見殺しにした罪悪感に耐えきれなかったから。新しい人生を買おうとしていた」
「……俺は契約した、のか」
「契約しなかった。契約の寸前で私が止めた。──理由はいくつかある。けれど一番大きな理由は私があなたを好きになってしまったから」
桐島は麻子は視線を向ける。麻子の目に嘘はなかった。あるのは、長い、長い、疲労である。
「私は組織を裏切った。桐島さんを契約させなかった。代わりに私が桐島さんと結婚することで組織から桐島さんを買い取った。──組織は私が組織から離脱することと桐島さんを契約者リストから外すことを交換条件で受け入れた」
「離脱する、というのは」
「組織から、抜ける、ということ。普通は、許されない。でも私は組織にとってそれなりに重要な人間だった。私を抜けさせる代わりに組織は桐島さん一人を見逃した」
「お前が、重要な人間だった、というのは」
麻子はしばらく沈黙し、
「私は、組織の、創設者の娘だった——父は戦後、復員してからしばらく闇市で働いていた。借金で追い詰められた人間や戦争犯罪を抱えた人間を別の人生に移す手伝いをしていた。それが組織の始まり。父が亡くなって組織は別の人間が引き継いだ。けれど、私は、組織の中で特別な立場にいた。父の娘として」
「その、別の人間、というのは」
「中津、という女。今、組織を仕切っている人間」
中津。沼田のメモに、何度も出ていた名前。
「桐島さん。──私が桐島さんに話したかった話はここまで。だけどまだ、続きがある」
麻子は、深く息を吸い、
「平成元年の春、私が組織を裏切って桐島さんを救ったとき。──組織は、それを簡単には許さなかった。代償を、要求した」
「代償」
「ええ。桐島さんを契約者リストから外す代わりに組織は桐島さんにある処置を施した」
「処置」
「記憶の、一部を、消した。葛西刑事の殉職事件のあった平成元年の四月のある期間の記憶を」
桐島は椅子の肘掛けを、強く、握る。
「組織にはそういう技術がある。麻酔と精神医学と催眠の組み合わせ。完全じゃないけれどある期間の記憶をぼかすことはできる。記憶を消したのは組織が桐島さんをもう追いかけないため。──桐島さんが組織のことを何も知らない人間として戻れるように」
「俺は──俺は、本物の桐島悟、なのか」
「本物よ。あなたは、本物の桐島悟。記憶の一部だけが消されている。それ以外は、全部、本物のあなた。──それだけは、信じて」
桐島は麻子を見ていた。麻子の目は揺るがなかった。だが、桐島の中で、別の声が、響いていた。沼田のメモの言葉だった。
——誰だ、これは。
沼田は、書いた。誰だ、これは、と。麻子は「本物よ」と言う。だが、沼田は、疑っていた。どちらが、正しいのか。
「麻子。沼田は俺のことを、誰だ、と書いていた。本物の桐島が戻ってきたんじゃない別の人間が桐島の名前で生きている。と、疑っていた」
麻子はしばらく黙った。それから目を伏せ、
「沼田さんは──そう疑う理由があった」
「なぜ」
「沼田さんは平成元年に組織と関わって降りた人。組織のある契約者の調査をしていて組織の存在に気づいた。組織は沼田さんを殺すこともできた。けれど沼田さんは知っていることを紙に残すと宣言して生き延びた。──ただし、降りる代わりに自分の家族を人質に取られた。家族は組織の監視下に置かれた」
「だから、沼田は、降りた」
「ええ。沼田さんは組織の存在をずっと記録していた。けれど、踏み込むことはできなかった。──そして桐島さんが組織の調査を始めた時、沼田さんは、桐島さんを止めようとした。それは桐島さんを守りたかったから」
「俺を守りたい、と」
「ええ。──沼田さんが桐島さんを『誰だ』と書いた理由は多分、そうではなくて、組織の処置の効果を過大評価していたから。沼田さんは組織が人を別人にしてしまうことができる。と、信じていた。けれど、実際はそこまでの技術は組織にはない。記憶をぼかすのが、限界。──桐島さんは本物の桐島さん」
桐島は煙草に火を点けようとした。が、ライターの蓋を開けた手が震えていた。麻子が桐島のライターを取り、火を点けた。古いジッポー。蓋に傷がついている。
「このライター——お前は、傷の形を、知っている」
「うん」
「いつから、知っている」
「平成元年の、春から。このライター私が桐島さんに買ったの。組織から離脱するときの、二人の、約束として。──桐島さんはそれを覚えていない。記憶が消されているから」
桐島はジッポーへ目をやる。長年、見慣れた傷。その傷は麻子と桐島の過去の印だった。だが、その過去を桐島は覚えていない。覚えていない過去の、印を、毎日、ポケットに入れて火を点けていた。
「麻子。──お前は、なぜ、今、これを話している」
「桐島さんが組織に近づいたから。沼田さんを殺された。次は桐島さんかもしれない。──そして、私も」
「だから、お前は出ていく」
「ええ。私が、桐島さんと一緒にいる方が桐島さんは危険になる。組織は私を取り戻したがっている。──私が桐島さんから離れれば組織は私を追う。桐島さんは放っておかれる」
「俺は、放っておかれない。沼田を殺された後だ。組織は俺も消そうとする」
「だから、桐島さんも降りて。これから、調査をやめて向井和子さんと田島さんの奥さんにご主人は生きている。と、だけ伝えて、それで終わらせて」
「降りられないことは、お前も、分かってるだろ」
「うん。──分かってる」
しばらく、沈黙があった。事務所の窓から車の音が薄く聞こえてくる。麻子は机の上の旅行鞄を引き寄せ、
「桐島さん。私はもう行かなくちゃいけない。私が出ていけば組織は桐島さんへの監視をゆるめる。その隙に──桐島さんは本当に降りるか、それとも、もっと深く踏み込むか、決めて」
「お前は、どこに行く」
「言わない。──言わない方が桐島さんが安全」
「俺は、お前を、追うかもしれない」
「追わないで。──お願い」
麻子は立ち上がり鞄を肩にかけた。桐島は立ち上がらなかった。きっと、立ち上がってしまったら、麻子を、止めてしまいそうだったから。止めて、抱きしめてしまいそうだった。それは麻子のためにならない。と、いうことが分かっていた。
「桐島さん。最後に、一つだけ聞いてもいい?」
「ああ」
「もし、私が組織の人間だと最初から知っていたら。──それでも、私と、結婚した?」
桐島は麻子を見る。答えに、迷った。迷ったことを麻子は見ていた。が、麻子はそれを責めなかった。
「──分からん。———だが、たぶん、した」
麻子は、薄く、笑い、
「ありがとう。──それで、十分」
扉が、閉まる。麻子の足音が、階段を降りていく音が、聞こえた。桐島はソファに座ったまま動かなかった。どれくらい、そうしていただろうか。桐島はようやく立ち上がる。麻子が置いていった、茶封筒を開けて見ると、中には写真が何枚も入っていた。桐島と麻子の結婚式の写真。新婚旅行の写真。誕生日の写真。──桐島が覚えていない写真ばかりだった。覚えていない自分が写真の中で笑っていた。麻子と肩を並べて、笑っていた。桐島は写真を座卓に並べる。並べていくうちにある写真に目が止まる。結婚式の写真。新郎と新婦が並んで立っている。新郎は桐島だった。だが、その隣で麻子の少し後ろに、もう一人、女が立っていた。和服の女。三十代後半くらい。痩せ整った顔立ち。目に、独特の冷たさがあった。その女の顔を桐島は知っている、気がした。いや、知っているのではなく──その女の声を、桐島は、知っていた。昨夜、電話で、聞いた声。
「思い出さないで、ください」
と、言った女の声。あの声の主だ。桐島は写真の裏を見ると、鉛筆で、小さく、書かれていた。
〈平成元年八月十二日。結婚式。立会人・中津さん〉
中津。組織を、仕切る女。その女は──桐島と麻子の結婚式に立ち会っていた。桐島は写真を見つめていた。窓の外で雲が動き、雲の影が新宿の路地をゆっくりと横切っていった。中津は結婚式に立ち会った。それは組織が桐島と麻子の結婚を見届けた。と、いう意味。
——組織は二人を解放したのではなかった。
二人がいつでも戻ってこれるように──いや、組織がいつでも二人を回収できるように、見ていた。麻子はそれを知っていただろうか。——たぶん、知っていた。知っていて桐島には言わなかった。なぜ、言わなかったのか。言えば桐島がすべてを思い出してしまうから。思い出せば、桐島は、戻れなくなるから。女の声はそう言った。「思い出すと、あなたは、もう、戻れません」と。桐島は写真を机にしまう。立ち上がり煙草に火を点け窓辺に立ち、新宿の街を見下ろした。麻子は、行ってしまった。沼田は死んだ。残ったのは桐島と──組織だけ。その夕方、桐島が事務所を出ようとしたとき、ふと、壁の隅を、見る。平成元年のカレンダーが画鋲で留められていたはずの場所。カレンダーがなかった。画鋲だけが、壁に、残っていた。誰かが、入っていた。桐島が麻子と話していた、その間にか、麻子が出ていった後にか。──いずれにしても、誰かが、事務所に入り、平成元年のカレンダーだけを、持ち去っていた。桐島はしばらく画鋲を見ていた。何かを奪われた。と、いうよりも、何かを、警告された、という気がした。
——お前の、墓標を、預かった。
組織は、そう、言っているように、思えた。桐島は扉を閉め、鍵をかける。階段を降り、通りに出る。と、夏の夕方の新宿の空気は湿っていた。その湿気の中に、わずかに、何か違うものが混じっている様に感じる。それが何か桐島にはまだ、分からない。ただ、夜が、来ようとしている。いつもの夜とは違う夜が。




