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四章 平成元年

麻子が出ていった日の夜、桐島はホテルにも自宅にも戻らず、新宿三丁目の路地を歩いていた。夏の夜の湿った空気を浴び、歌舞伎町の方から流れてくる音楽と、二丁目の方から漂ってくる人の声が雑音として耳は入ってくる。新宿は夜になると別の街になる。昼間とは違う顔の人間が別の言葉を話し、別の取引をする。桐島はこの街の二つの顔を刑事時代から知っていた。目的地は決まっている。決めるのに、迷いはなかった。麻子が出ていき沼田が殺された今、桐島が頼れる人間はもう一人しか残っていない。その看板は、雑居ビルの三階の目立たない場所にある。看板の文字は、白く、シンプルで装飾もネオンもない。一見すると何の店なのか分からない。が、知る人ぞ知る、新宿の裏側の店である。桐島はビルの古いエレベーターで三階に上がり、重い木の扉を押す。中からジャズが低く流れてくる。チェット・ベイカー。多分、〈マイ・ファニー・ヴァレンタイン〉。それが桐島がこの店に来るたびに最初に聞こえてくる音楽だった。店はカウンターが八席、奥にボックス席が一つだけ。照明は琥珀色。客は奥のボックスに男が一人、中年の上等なスーツを着た男が仕事の話を誰かと電話でしている。その空間の中、カウンターで店主が立っていた。

「あら」店主は桐島を見るなり薄く笑う。

「久しぶりじゃない、桐島ちゃん」

早乙女涼子。本名・早乙女亮。四十五歳。桐島と同じ警察学校の同期で組対課にいた頃の桐島の元相棒の一人でもあった。背は桐島より高く、細身、肩幅は広いが首から上は女として生きてきた年月の方が長い顔になっていた。化粧は薄く、香水の匂いも控えめ。普段着は黒のシンプルなブラウスに黒のスラックス。指には銀の指輪が二つ付いている。女として生きていることと、刑事だったことの、両方の輪郭がその立ち姿の中に矛盾なく収まっている。

「来るような気が、してたわよ」涼子はグラスを磨きながら、

「沼田さんの通夜、行ったんでしょ」

「耳が早いな」

「商売よ、商売。──こっちに、座んなさい」

桐島はカウンターの一番奥の席に座り、涼子は何も聞かずグラスにジントニックを作ると、桐島の前に置いた。桐島が店に来た時に飲むものを涼子は十年以上前から覚えていた。

「沼田さんね、事故じゃないわよ。──まあ、あんたも、そう思ってるんでしょ」

「ああ」

「警察は事故で処理してる。深酒で階段から落ちた、と。──でも、沼田さんはお酒、飲まないのよ。あの人、肝臓が悪かったから」

「知ってたか」

「知ってたわよ。沼田さんとは何度か仕事で関わったから」

「お前、この件、どこまで知ってる」

涼子はグラスを磨く手を止め、磨いていたグラスを棚に戻し煙草に火を点ける。煙が、涼子の口元から、立ち昇り、

「桐島ちゃん。──順番に、話すわ。けど、その前に、一つ聞いてもいい?」

「なんだ」

「あんた、麻子ちゃんの過去、もう、聞いた?」

「お前、知ってたのか」

「全部、ではないわよ。けど、半分くらいはね」

「麻子ちゃんが、あんたと結婚する直前に私のとこに来たことがあるの。平成元年の、夏」

「——夏」

「ええ。八月の頭。あの子こう言ったのよ。『早乙女さん。私、ある男と結婚することになりました。その人をこれから、ずっと、守らなきゃいけない。──早乙女さんにお願いがあります。もし、私に何かあったらその人を助けてください』って」

「『その人』が、桐島ちゃん、あんただった。──私、あの時はね、笑ったのよ。あの桐島が結婚するって?冗談でしょって。けど、麻子ちゃんの目は本気だった。それで、私、約束したの。何かあったら、桐島ちゃんを助ける、って」

涼子は灰皿へ灰を落とし、

「あれから、三年。麻子ちゃんは私のところへ何度か来た。何かを話すわけじゃない。ただ、グラスを傾けて、帰っていく。たまに、桐島ちゃんの様子を聞かれた。──その時、あの子の目は、いつも、何かに怯えていたわ」

「組織か」

「あんた、それも、知ってるのね」

「半分は」

「そう。じゃあ、私の知ってる残りの半分を、話すわ。──ジン、もう一杯、いる?」

「ああ」

涼子は新しいジントニックを作りながら、話し始める。

「私が組対課にいた頃ね、ある事件を担当したの。昭和六十二年、神田の失踪事件。借金抱えた中年男が、突然消えた。家族は警察に届けたけど事件性が認められなくて捜査は打ち切られた。──でもね、その後、似たような失踪が何件も起きてた。みんな、同じパターン。借金。中年男。失踪後、家族は新しい生活に移る。──私は、これは、組織的な何かだ、って思った。だから、独自に調べた」

涼子はジントニックを桐島の前に置き、

「で、組織の存在に、辿り着いた。〈蒸発代理人〉。──けど、そこで、上から、捜査を打ち切られた。理由は教えてもらえなかった。組対課の部長が私を呼びつけて、こう言ったわ。『お前、もう、この件には触るな』って」

「上が、組織と繋がってた、と」

「そういうことになるわね。けど、私はね、それで、警察に嫌気がさしたの。──いえ、嘘ね。本当は警察に自分が居場所がなかった、っていう方が大きい。男として、刑事として、頑張ってきたけど、ずっと、自分じゃない自分を演じてた。それが、限界だった。組織のことで上から圧力かかったのがちょうどいい言い訳になっただけ」

「それで、辞めた」

「ええ。辞めて、しばらくはぶらぶらしてた。それから、女として生きることに、決めた。新宿でこの店を開いた。──情報屋の仕事は、まあ、副業ね。元刑事のネットワークと夜の街のネットワークの両方が使えるから、それなりに、稼げる——で、桐島ちゃん。あんたの話よ。──あんた、平成元年の四月、おかしかった」

「俺が」

「そう。葛西さんが殉職した直後ね。あんた、私のとこに、一度だけ、来たのよ。──覚えてないでしょ」

「覚えてない」

「だろうね。あの夜のあんた、目が、死んでた。──いや、死んでた、っていうのとも、違うわね。あれは、何かを、決めた目、だったわ——あんた、私にこう言ったの。『早乙女。俺、消えるかもしれない』って。私、何のことか分からなくて、聞き返した。あんたはそれに関して答えなかった。ただ、店を出ていった。──それから、三日間、あんたとは連絡が取れなかった」

「三日間」

「そう。三日経って、あんたは、また、店に来た。けど、最初に来た時のあんたとは、何かが、違ってた」

「違ってた、というのは」

「うまく言えない。けどね、最初に来た時のあんたは、葛西さんの死で、自分を責めていた。深く、責めてた。──三日後に来たあんたは責めてなかった。葛西さんのことを話そうとしてもどこか他人事みたいだった。私、その時は立ち直ったのね、って思った。けど、後から振り返るとあれは立ち直ったんじゃなくて──葛西さんとの記憶が薄くなっていたような感じだった」

「お前、それ、誰かに話したか」

「話してない。話せる相手がいなかった。──沼田さんには後で話したけどね」

「沼田に」

「ええ。沼田さんは私が組対課を辞めた後、独自に組織を調べてた。私のとこに何度か相談に来てた。あんたのことも、沼田さんに話したわ。沼田さんはそのことをずっと引っかかってたみたい。──あんたが、組織の処置を受けたんじゃないか、って疑ってた」

「疑ってたなら、なぜ、俺に言わなかった」

「言えなかったのよ。──証拠がなかったから。それに、もし、組織が本当にあんたに処置をしてたとしたら沼田さんが下手にあんたに教えれば、組織が、あんたをもう一度処置するか、消すかするかもしれない。沼田さんはそれを恐れてた」

「沼田さん、最近、変だったの。三日前、あんたに会ったって私のとこに電話があった。『早乙女。桐島が、また、こっちに戻ってきた。──あいつ、もう、降りられない。俺が預かってたものを渡そうと思う』って」

「預かってたもの、というのは」

「沼田さんが組織について集めた記録のことよ」

「俺はそれを受け取った」

「だろうね。沼田さんが死ぬ二日前、最後に私に電話してきた。『早乙女、もし俺が消えたら桐島を頼む』ってね。」

「早乙女」

「ん」

「俺は、本物の桐島悟、なのか」

涼子は桐島を、しばらく、見ていた。それから微笑を浮かべる。が、笑い方はいつもの軽妙さとは違い、深く、静かだった。

「桐島ちゃん。あんたね、警察学校の時、私の隣の席だったのよ。覚えてる?」

「覚えてる」

「教官に新人挨拶でしごかれて、あんた、廊下に立たされ、私も立たされた。──あんた、立たされながら小声で、『早乙女、立ちっぱなしで足が痛いな。三十分経ったら、お前と俺で、足を交互に上げよう』って。私、笑い堪えるの必死だったわよ」

「覚えてない」

「そうでしょうね。けど、その後、本当にあんたは三十分後に片足を上げ始めた。教官が後ろを通るたびに慌てて両足下ろして。あの時のあんたの顔、私、今でも覚えてる」

涼子は煙草を吸い、

「桐島ちゃん。──私が知ってる桐島悟はあの時から変わってない。組織があんたの記憶の一部を消したのかもしれない。けど、あんたの本質は消えてない。あんたは、本物の、桐島悟よ」

桐島は涼子を見ていた。

「お前は、なぜ、それを断言できる」

「私が、あんたを見てきたから。──二十年以上、見てきたから。あのね、桐島ちゃん。記憶ってのはその人を作るものの一部でしかないのよ。記憶を消されても、人は、その人のままよ。あんたが今もあんたなのは記憶じゃなくてあんたの選び方が昔と同じだから」

「選び方」

「そう。あんたは昔から追い詰められた人を放っておけない人だった。だから、刑事になった。だから、葛西さんのことを自分のせいだと思った。だから今、向井和子さんと田島さんの奥さんの依頼を断れない。──全部、同じ桐島悟が選んでること」

「沼田は書いていた。──誰だ、これは、と」

「沼田さんの、ね——沼田さんは組織を恐れすぎてた。組織が、人間を、別人にできる、と本気で信じてた。──私は信じてない。組織にはそこまでの力はない。記憶をぼかすぐらいが限界よ」

「断言、できるのか」

「できないわよ、断言なんて。──ただね、私は、信じてる。あんたが、あんただってことを」

桐島は涼子をしばらく見つめ、それからジントニックを口に運ぶ。涼子の言葉が本当かどうかは分からなかった。が、涼子の言葉を聞いて自分の中で何かが、僅かに、解けたような気がした。固く、結ばれていた縄の結び目が一つ、緩んだような。奥のボックス席の客が電話を切り会計を頼んだ。涼子は慣れた動作で伝票を持っていく。男は現金で支払い出ていく。出ていく時、桐島の背中をちらりと見たが、何も言わなかった。

「あの客、知り合いか」

「ええ。経済産業省のお役人。組織犯罪対策の、外郭団体に出向中の方ね」

「お前の店、随分、広いネットワークを抱えてるな」

「商売だもの。で、桐島ちゃん。これから、どうするの」

桐島は、しばらく、考え、

「平成元年の四月の三日間を知りたい」

「あんたが、消えてた、三日間ね」

「ああ」

「組織が、あんたに、処置を施した期間。──桐島ちゃん。それを、知ってどうするの」

「知らないと、進めない」

「進める、ってどこに」

「——組織を、潰す」

涼子は桐島の顔を確認し、それから、薄く、笑った。

「やっぱり、あんた、桐島ちゃんね」

「なんでだ」

「昔のあんたがここにいたら同じこと言うわ——分かった。協力するわよ。──ただし、私のやり方で」

「お前のやり方」

「ええ。私は警察を辞めた女よ。けど、警察にいた頃の知り合いは、まだいる。それと、夜の街のネットワーク。両方、使えるわ。──まず、平成元年四月の葛西さんの殉職事件のファイル。これを、もう一度、調べる。当時の捜査記録に何かヒントがあるはず」

「警察の記録、見られるのか」

「正規ルートでは見られないわよ。けど、見せてくれる人は、いる。──坂本さん、覚えてる?」

坂本。桐島の刑事時代の元同僚。葛西と桐島と三人で組対課の同じ班にいた男。今は警視庁の本部で書類仕事をしている、と聞いていた。

「ああ。覚えてる」

「坂本さんは私が辞めた後もたまに店に来てくれてる。──あの人、平成元年の四月、あんたが消えてた三日間に一人で葛西さんの事件を追いかけてたのよ」

「坂本が」

「ええ。あんたが消えた後、坂本さんは葛西さんの死に何かおかしいものを感じてた。だから、独自に調べてた。──たぶん、あの人なら、当時のことを覚えてる」

「会えるか」

「私が、繋ぐわ。明日にでも」

涼子は新しい煙草に火を点ける。

「ただし、桐島ちゃん。一つ、約束して」

「なんだ」

「無茶をしないこと。沼田さんは慎重な人だった。それでも、殺された。あんたが今、組織に踏み込めば組織は、本気で、あんたを潰しに来る。麻子ちゃんが、せっかく、あんたを救ったのに──ここで、あんたが死んだら麻子ちゃんが浮かばれない」

「分かってる」

「分かってる、って、あんた。──昔から、それ、口だけで言うのよね」

「悪かったな」

涼子は笑う。今度は、いつもの、軽い笑いだった。

「いいわよ。──でも、本当に気をつけて。私はね、桐島ちゃん。あんたをこれ以上、失いたくないの」

涼子の目に過剰な感情はない。あるのは、長い、長い、付き合いだけ。三十年近い、付き合いの中で、互いに、何度か、命を救い合ったことのある相手の目だった。

「ああ。分かってる」




——————




その夜桐島は涼子のバーの裏にある小さな部屋に泊まった。涼子が客を泊めるために用意している、簡素な部屋。布団、小さな机、洗面台だけがある質素な間取りで窓はない。桐島は布団に横になり、天井を見つめている。涼子が店を閉めたのか、店の音はもう聞こえなかった。涼子の言葉が頭の中で、繰り返される。


あんたが今もあんたなのは記憶じゃなくてあんたの選び方が昔と同じだから。


その言葉に桐島は僅かな安らぎを覚え、麻子の「本物よ」という言葉とは違う響きであった。麻子の言葉は桐島を、安心させようとする言葉。涼子の言葉は、桐島に考える材料を渡す言葉であった。

選び方。桐島は自分の選び方を考えた。葛西を見殺しにした、選び方。その後、消えようとした、選び方。戻ってきて、失踪人専門の探偵を始めた、選び方。麻子を雇い直した、選び方。今、組織を潰そうとしている、選び方。それらの選び方は、確かに、一本の線で、繋がっていた。誰かを救えなかった人間が、誰かを救おうとし続ける、という線。

その線の上を、桐島は、歩いてきた。記憶が消されていても歩く方向は変わらなかった。


それは──確かに本物の自分という気がした。




——————



翌朝、桐島は涼子の店で朝の珈琲を飲み、涼子は化粧をしていない顔で新聞を読んでいた。化粧をしていないと涼子の顔は男にも女にも見える不思議な顔だった。

「坂本さんと、夕方、会えるって」涼子が新聞から顔を上げ言い、「店、開ける前の時間。ここに来てくれる」

「分かった」

「それまで、何するの」

「向井和子と田島の妻にもう一度、会う」

「依頼者ね。何か、聞きたいことが」

「あの二人の妻の様子が最初からおかしかった。──知っていたんだ、たぶん。夫が、消えることを」

「組織の契約を夫婦で結んでた、ってこと?」

「分からん。だが、あの二人の目には夫の失踪を悲しむ色と、別の何かが混ざっていた。──別の何かが、何だったのか、確かめたい」

「気をつけてね。あの依頼者たちが組織と繋がってる可能性も、ある」

「分かってる」

「桐島ちゃん。一つ、ヒントね」

「なんだ」

「組織はね、契約者を集める時、家族にも『同意』を取ることがあるのよ」

「同意」

「ええ。借金で追い詰められた夫が、消えたい、と言う。妻も、もう、これ以上、夫を見ていられない。だから、夫が消えることに暗黙の同意をする。──組織は、そういう夫婦を、好む。妻が、後で警察に駆け込んだりしないから」

「向井和子と、田島の妻も」

「たぶんね。──そして、そういう夫婦の妻はね、桐島ちゃん、夫を探そうとは、本当はしないのよ」

向井和子は、最初、「死んでいてもいいんです。ただ、どこにいるのか、知りたいんです」と言った。

あの言葉の、本当の意味は──夫が、本当に、新しい人生に旅立てたかどうか、確かめたい。その意味だったのかもしれない。

だとすれば、佐久間の言葉──「ご主人は、生きておられる」──を、和子に伝えた時、和子は、ほっと、するはずだった。安心して、調査の打ち切りを頼むはずだった。が、和子はそうしなかった。桐島が「生きている」と伝える前に依頼を続行していた。なぜ。桐島には、まだ、その答えが、見えなかった。

午前中、桐島は向井和子に電話を入れる。和子は家におり、桐島はもう一度、伺っていいか、問うた。和子は、躊躇した。躊躇したことが、答えである。桐島は世田谷へ向かった。


向井家の前に立つと、表札の脇の銀行の差し押さえを示す紙が剥がされていた。剥がされたばかりらしく、糊の跡が、新しい。桐島はインターホンを押す。と、和子が出迎える。前回会った時と、少し、雰囲気が違う。表情が、いくぶん、明るく、以前は悲しみに沈んでいた目の色が、今日は、何か、解放されたような色がそこにはあった。

「桐島さん。お忙しいところ、どうも」

「奥さん。──少し、お聞きしたいことがあります」

「どうぞ、お上がりください」

和子は桐島を応接間に通す。前回と同じ部屋。だが、部屋の中の何かが変わっていた。前は机の上に置かれていた夫の写真が、ない。本棚の夫の蔵書らしい本がいくつか抜けていた。

「奥さん。──ご主人の物を片付けておられるんですね」

和子はしばらく答えず、しばらく間が空いた後、頷き、

「ええ」

「失踪宣告も、まだ、出ていないのに」

「桐島さん。お聞きしたいのは、何ですか」

 桐島は、煙草を取り出しかけ、止め、

「奥さん。──ご主人が、消えることを、ご主人と、相談されていましたか」

和子の顔が、わずかに、固くなった。

「相談、というのは」

「ご主人が消える前に奥さんに何かを話していた。あるいは、ご主人と、奥さんが、二人で、ある決断をしていた。──そういう、ことです」

和子は答えなかった。長い、沈黙があった。その沈黙の中で、桐島は、答えを、聞いた。

「奥さん」

「……はい」

「ご主人は、組織と契約することを、奥さんに、話していた」

和子は目を伏せ、

「私の依頼の本当の理由は、──夫が、本当に、新しい人生に、旅立てたかどうか、確かめることでした」

和子の声は低く、

「八千万の借金を夫一人で抱えるのは、もう、無理でした。私たちは、追い詰められていました。夫は、自殺を、何度か、口にしました。──ある時、夫が、誰かに教えてもらった、と言いました。借金を抱えた人間に、新しい人生を売る、組織がある、と。私たちは、何日も、話し合いました。最後に夫はその組織に、頼ることを決めました。私は、止めませんでした」

「奥さんの、暗黙の同意」

「ええ。──夫が消えれば、私は、保険金を待つことができます。家のローンも、消えます。新しい生活を始められます。──夫も、私も、それを選びました」

「だが、奥さんは私に依頼をした」

「夫が本当に組織の言葉通り、新しい人生に旅立ったのか、確かめたかったんです。──組織が嘘をつく可能性もありますから。夫を別の場所で殺している可能性も。──私が、確かめなければ、いけませんでした」

「だから、私を、雇った」

「ええ——桐島さんを騙すような形になって申し訳ありません。──でも、桐島さんが佐久間さんという方に夫が生きている。と、確認してくださった時、私は初めて安心しました。本当に、ありがとうございました」

和子の言葉は本当だった。嘘はなかった。だが、和子の中には、まだ、何かが、隠されていた。

「奥さん。──組織のことをご主人に教えた人間は、誰ですか」

「———」

「答えてください」

「桐島さん。これ以上、追わない方がいいです。──夫から聞いています。組織は追ってくる人間を容赦しないと」

「奥さん」

「桐島さんも、危ないです」

「答えてください」

和子はしばらく迷っていた。それから、ようやく、口を開く。

「夫の取引先の一人です。──飯島、という男性。商社マン。夫より少し年上の方でした」

「飯島さん、ですか」

「ええ。──飯島さんも、何年か前に、消えました」

「飯島さんがご主人に教えた」

「はい。飯島さんは夫にこう言ったそうです。『俺はもう消える。お前も、もし、追い詰められたら頼れる場所を教えておく』と。そして、ある電話番号を夫に渡しました。──〇三―三七六二の、番号でした」組織は、自ら、宣伝はしない。だが、契約者たちの間で口伝で広まっていた。一度組織と契約した人間が追い詰められた後輩や同僚に組織のことを教える。──組織はそうやって、契約者を増やしていく。

飯島という男も消えた。たぶん、その「飯島」が消える前、また別の誰かに組織のことを教えていた。──連鎖。それが、麻子が言っていた、組織の生き残り方だった。


午後の太陽が世田谷の住宅街を強く照らしていた。桐島は煙草に火を点けながら駅に向かって歩く。田島の妻にも、おそらく、同じことだろう。組織と契約することを夫婦で相談していた。妻は桐島を雇うことで夫が本当に新しい人生に旅立ったかを、確認していた。そして、確認できれば、新しい生活を始める。


組織はそうやって回っていた為、誰も被害者を名乗らなく、誰も警察に駆け込まない。だから、組織は何十年も地下で活動できる。桐島は煙草の煙を夏の午後の空気に吐く。


———組織を潰す、ということは──組織と契約した何十人、何百人もの人間の新しい人生も潰す、ということだ。彼らは組織に感謝しているかもしれない。彼らの妻も夫が消えたことに内心では感謝しているかもしれない。桐島が組織を潰そうとしていることは、彼らにとっては、迷惑な、正義かもしれないのだ。

桐島は立ち止まり考える。この事件は、単純な、悪を裁く話ではない。善悪が揺らいでしまう。組織は悪なのか。組織は追い詰められた人間に新しい人生を売っていた。その値段は確かに法外だった。が、組織がいなければ、向井貞夫も、田島茂夫も、自殺していたかもしれない。


組織は、彼らを、救っていたのか。

それとも利用していたのか。

答えは、簡単には、出ない。


桐島は駅まで歩き新宿に戻り、涼子のバーに着いたのは午後五時だった。涼子は店の準備をしており、カウンターを磨き、グラスを並べていた。

「お帰り。どうだった」

「向井和子は認めた。組織のことを知っていた、と」

「やっぱりね」

「組織のことをご主人に教えたのは夫の取引先の飯島という男。飯島も何年か前に消えてる」

「連鎖、ね」

「ああ」

「——坂本さん、もうすぐ来る」



——————



午後六時、店の扉が開き、入ってきたのはグレーのスーツを着た五十代の男だった。中肉中背、髪は半分以上白くなっている。が、目だけは現役の刑事の目だった。坂本明。桐島と葛西と組対課の同じ班にいた桐島の元同僚。

「桐島か。──久しぶりだな」

「坂本さん」

坂本は桐島の隣に座り、涼子がウィスキーの水割りを出した。坂本が店に来た時のいつもの飲み物らしかった。

「涼子から話は聞いた。お前、組織を追ってるそうだな」

「はい」

「沼田さんが、殺された」

「知ってる」

「俺はな、桐島。平成元年の四月、お前が消えた三日間、俺は葛西の事件を追ってた。──お前と葛西と俺の三人が最後に組んでた事件だ。葛西が死にお前が消えた。──俺だけが、残った」

「坂本さん」

「覚えてないだろうが、俺はお前を探した。三日間、必死で、探した。──四日目にお前は戻ってきた。けれど、戻ってきたお前は葛西の事件のことを半分くらい忘れていた」

「半分」

「そうだ。事件の概要は覚えていた。葛西が殉職したことも覚えていた。──だが、その三日間にお前と俺と葛西が追っていた、ある人物のことを、お前はすっぽりと、忘れていた」

「ある、人物」

「ああ。──その人物の名前は宮田信也。当時、四十六歳。経済産業省のある官僚だった。──いや、官僚を装った、ある組織のメンバー、と言うべきだった。俺たちはな、桐島。葛西が殉職する前、宮田信也を追っていた。宮田がある汚職事件の鍵を握る人間だった。──だが、宮田は捕まる前に消えた。失踪した。それをお前と葛西と俺で追ってた」

「葛西は宮田を追っている時に殉職した」

「そうだ。倉庫で何者かに襲われた。──犯人は捕まらなかった。事件は未解決のまま、お前が消え、お前が戻ってきた時にはお前は宮田のことを忘れていた。事件の捜査は、その後、上から打ち切られた」

「上から」

「ああ」

「坂本さん。──宮田信也は何者だったんだ」

「組織の、人間さ。お前と葛西が追っていたのは、組織そのものだった。葛西は組織に殺された。──そして、お前は組織と何らかの取引をして消えた。三日後に戻ってきた。戻ってきたお前は宮田のことも組織のことも忘れていた」

「俺は組織と取引した」

「俺は、そう、推測している。──証拠は、ない。だが、お前が消える前と戻ってきた後では、別人のようだった。お前自身は気づいていなかったが」

桐島はグラスを握り、涼子は何も言わなかった。ただ、二人の話を聞いていた。

「桐島。お前、また、組織を追うのか」

「追う」

「葛西の敵討ちか」

「半分は」

「もう半分は、何だ」

「自分の、過去を、知るため」

「——分かった。俺も協力する。──ただし、これは警察の正規の捜査じゃない。だから、俺は表には出ない。情報は提供する。だが、表向きはお前が動く」

「ありがとうございます」

「礼を言うのは、まだ、早い。──桐島。お前、もう一つ、知っておくべきことがある。葛西が殉職した時の現場。お前と葛西と、俺が、現場にいた。──だが、もう一人、いた」

「もう一人」

「ああ。女だった。──若い、女だった。当時、二十代後半くらい」 

「誰なんです」

「分からない。だが、その女が葛西を殺した可能性が、ある」

「俺はその女を覚えていないのか」

「お前は、覚えていない、はずだ。だが、俺は覚えている。──その女の顔をほんの一瞬、見た」

「どんな女だった」

「痩せていて、整った顔立ちだった。──目に独特の冷たさがあった」

桐島の手からグラスが落ちる。カウンターの上でグラスが砕け、ジントニックが飛び散る。涼子が慌てて、布巾で拭き、桐島は動けなかった。

「桐島?」

「その女——俺は、その女を知っている、かもしれない」

「誰だ」

「中津、という女」

「中津」

「組織を仕切っている女。──その女は俺と麻子の結婚式に立ち会っていた」

「桐島。──組織はお前の過去からずっとお前と関わっていた、ということだ」

葛西を殺したのは、中津だった。中津は桐島の結婚式に立ち会っており、組織は桐島の人生のすべてに絡んでいた。刑事になる前は、知らない。が、刑事になってからの桐島の節目のすべてに、組織は、いた。偶然ではなかった。組織は、桐島を、ずっと、見ていた。

その夜、桐島は涼子の店の裏部屋で眠れなかった。

葛西を殺したのは、中津。桐島と麻子の結婚式に立ち会ったのも、中津。そして、麻子は中津の下にいた女だった。麻子は、それを、知っていただろうか。中津が葛西を殺したことを、知っていて桐島と結婚したのか。それとも、知らなかったのか。知っていたとしたら、麻子は葛西の死の上に桐島との結婚を築いたことになる。知らなかったとしたら、麻子は組織からその事実を隠されていたことになる。

どちらにしても──麻子は組織の中心に、いた。今、麻子はどこにいるのか。組織から、本当に、逃げているのか。それとも──組織のもとに戻っているのか。

桐島は目を閉じる。まだ、信じたかった。麻子の最後の目を。


「もし、私が組織の人間だと最初から知っていたら。──それでも、私と結婚した?」と、聞いた、あの目を。

あの目に嘘はなかった。桐島は信じたかった。が、信じる、ということは危険だった。信じることが過去の桐島を組織との取引に追い込んだのかもしれなかった。夜が深くなっていく。窓のない部屋で、桐島は、夜の深さを感じていた。

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