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二章 連鎖

葛飾、立石。京成線の高架下を桐島は歩いていた。梅雨の朝の空気は重く湿り、古い商店街のシャッターを半分降ろしたままの店々が両側に並んでいる。かつて賑わった街。と、いうより──忘れられかけている街。そう言うのが正しい。バブルの波はこういう場所には最初から来なかった。来なかったからこそ、引いていく時の音もしない。ただ、静かに、古びていく。

桐島は煙草に火を点す。メモ用紙に浮かんだ、〇三―三七六二の番号。麻子が当たりをつけた〈さくら不動産〉。地図によれば立石駅から徒歩五分の雑居ビルの二階。駅前のロータリーから住宅街の方へと足を進めながら桐島は思う。昭和の匂いが——する。いや─正確には昭和の終わりの匂い。と、言うべきか。平成という新しい元号はこういう場所にはまだ馴染んでいない。元号は変わっても街はすぐには変わらない。人も、同じ。ふと、思った。元号が変わった、あの日。平成元年、一月。昭和天皇が崩御し新しい元号が発表された日。自分は、何を、していただろうか。覚えていない。覚えていないことが、また一つ、増えた。

雑居ビルはすぐに見つかる。二階に確かに〈さくら不動産〉の看板が出ている。白く安っぽいプラスチックの看板。文字は少し剥げている。桐島は外階段を上がり、二階の踊り場のガラスの扉の向こうに目をやる。人影は、見えなかった。扉を押すと鍵は開いている。中は八畳ほどの狭い事務所。灰色のスチール机が二つ、その奥に応接セット、壁には葛飾区の地図と賃貸物件の写真が並んだコルクボード。誰もいない。桐島はしばらく入り口に立っていた。空気が停滞している。最近、人が出入りしていない、というよりも──最初から、ここでは誰も働いていない。そんな匂いがした。

「ごめんください」

声をかける。返事はない。桐島は机に近づく。机の上には書類の束があり上の一枚は白紙。その下も白紙。その下も──白紙。——ダミー。そう思った。壁のコルクボードに貼られた賃貸物件の写真もよく見るとどれも色褪せている。数年前のもの、いや、もっと前かもしれない。不動産屋を装っているだけの、何か。桐島が机の引き出しを開けようとしたその時、奥のドアが開いく。現れたのは男だった。六十代後半、痩せた体、グレーのジャンパー、白髪を短く刈り込んでいる。目だけが妙に若かった。

「お客さん」男は桐島を見て、「物件の、ご相談ですか」

「いや」桐島は男を正面から、「人を、探してる」

男の表情は変わらない。驚かない。動揺もしない。ただ、ゆっくりと頷く。

「お名前は」

「俺の? それとも、探してる人の?」

「両方」

「桐島悟。探してるのは、向井貞夫」

男はしばらく桐島の顔を見つめ、それから、応接セットの方を指差す。

「お掛けください」

応接セットのソファは合皮で座るとぎし。と、音を立てる。男は向かいに座り煙草に火を点ける。古いフランスの煙草。日本ではなかなか売っていない。

「桐島さん、と仰いましたか」

「ああ」

「お仕事は」

「探偵だ」

 男は頷く。やはり驚かない。「私は、佐久間と申します」

「不動産屋の佐久間さん」

「そういうことに、なっています」男は煙を吐き、「向井貞夫さんの、ご家族の依頼ですか」

「奥さんだ」

「奥さんはご主人がここに連絡していたことを知っていらっしゃる?」

「いや。ご存じない」

「では、どうやって、ここを」

「メモ用紙の、筆圧の跡」

「……なるほど」佐久間は薄く笑う。その笑い方はどこか悲しげで、責めるような笑いではなかった。

「桐島さん」

「何だ」

「向井さんは、もう、戻らない人です」

「死んだ、と」

「いいえ」佐久間は首を振り、「死んでは、いません」

桐島の手が煙草を取り出すところで止まり、「死んでは、いない、というのは」

「言葉の通りです」

「それは、生きている、という意味か」

「生きています」

「どこに」

「それは、申し上げられません」

佐久間は灰皿に灰を落とす。「桐島さん。これは、お願いです」その声は低く、脅すような響きではなかった。が、ただ、疲れている。そんな声だった。

「奥さんに、こう、伝えてください。ご主人は、どこかで生きておられる。と」

「それで納得すると思うか」

「思います。あの方なら」

桐島は佐久間を見た。あの方なら──それは向井和子のことを知っている。と、いうことだ。会ったことがあるか、少なくとも、彼女がどういう人間か知っている。「あんた、向井和子に、会ったことが」

「ありません」

「だが、知っている」

「知っています」

佐久間はそれ以上、答えなかった。桐島は煙草に火を点け、深く吸い込んで、吐く。「佐久間さん」

「はい」

「ここは、何の場所だ」

「不動産屋です」

「冗談はやめろ」桐島は机の上の白紙の束を顎で示す。「物件の写真は色褪せてる。書類は白紙。あんた、不動産屋じゃない」

「では、何だと、お思いになります?」佐久間は桐島を試すように見つめる。桐島は答えなかった。答えられなかった、と言うべきか。頭の中に何かが浮かびかけていた。形にならない、何か。言葉になる、その手前の、何か。──なんとか、なる方法。その言葉が、また、頭の奥で反響する。

「桐島さん」佐久間は立ち上がり、「お引き取り、いただけますか」

「答えになってない」

「答えは、奥さんに、お伝えください。ご主人は、生きている。それで、十分のはずです」

「奥さんは、夫がどこにいるか、知りたいんだ」

「いいえ」佐久間は首を振り、「奥さんが知りたかったのは、ご主人が生きているかどうか、です。死んでいないかどうか。──それを知れば、十分なのです」

桐島は佐久間を見上げる。佐久間の目は若かった。六十代後半の男の目ではない。まるで、遠くを見ているような目。あるいは、もっと深いところを、見ているような。

「最後に、一つ」桐島は立ち上がりながら、「あんた、本名は」

「佐久間です」

「そうか」桐島は扉に向かい開けかけて振り返り、「あんた、俺を、知ってるな」

佐久間は煙草を灰皿で揉み消す。顔を上げない。ただ、小さく──「お気をつけて、お帰りください」とだけ、言った。



——————



立石の駅まで桐島は来た時よりもゆっくり歩いている。梅雨の空は相変わらず重い。佐久間。あの男の目。あの、悲しげな笑い方。なぜ、自分を知っていたのか。駅前の喫茶店に入りコーヒーを頼んで奥の席に座る。マスターは新聞を読んでいた。手帳を開いて書こうとした時、ペンが止まる。書くべきことが多すぎる。あるいは、書ける形には、まだなっていなかった。向井貞夫は、生きている。佐久間はそう、断言した。借金で追い詰められた中年男が消えた。が、死んではいない。なら、どこにいるのか。そして──佐久間は、何者か。コーヒーを一口、飲む。苦く、昔の喫茶店のコーヒーの味。平成元年。その頃もこういうコーヒーを飲んだ気がする。どこの店だったか、誰と、飲んでいたか。それは思い出せなかった。頭の奥が、また、薄く痺れる。



——————



事務所に戻ったのは午後。麻子は机に向かい、何かを書いている。ノート。桐島が入ってくると麻子はノートを閉じる。閉じる動作が、ほんの少し早すぎた。

「お帰り」

「ああ」

「どうだった」

「会えた」桐島はソファに座り、煙草に火を点け、「向井貞夫は、生きてるそうだ」

「……生きてる?」

「ああ。死んでない。と、佐久間って男が断言した」

「——佐久間」麻子はその名前を繰り返す。

その時の麻子の顔を桐島は見ていなかった。もし見ていたら、麻子の表情がほんの一瞬、固まったことに気づいたかもしれない。ほんの、一瞬。息をする間ほどの、停止。だが桐島は煙草を見ていた。

「不動産屋を装ってる場所だった。物件は色褪せた写真。書類は白紙。──不動産屋じゃない」

「じゃあ、何」

「分からん。だが、向井貞夫が消えたことに関係している」

「会えたのは佐久間って人だけ?」

「ああ。他に人はいなかった」

「他の人の痕跡は」

「なかった」

 桐島は煙を吐き、「麻子」

「うん」

「お前、〈さくら不動産〉、知ってる。と、言ったな」

「うん」

「どこで知った」

麻子はしばらく答えなかった。窓の外を見ている。雨が降り始め、梅雨の本降り。窓ガラスに水の筋が流れていく。

「……桐島さん」

「ん」

「私の話、本当に聞きたい?」

「聞きたい」

 麻子は息を吐き、「今は、まだ」

「まだ」

「言える時が来たら、言う」

「いつ、来る」

「分からない。でも──」麻子は桐島を見つめ、「来た時には、必ず言う。約束する」

桐島は麻子を見ていた。麻子の目に嘘はない。ただ、何かを抱えている。長い間、抱えていた。その重さが目の奥に沈んでいる。桐島は頷き、「分かった」

「ありがとう」

麻子はノートを机の引き出しにしまう。その、しまう動作も、やはり、早かった。


その日の夕方、桐島の事務所にもう一人、客が来た。四十代の女、化粧の濃い、派手な服装。手には紙袋。女は扉を開ける。と、桐島を見て言った。「あなたが、桐島さん?」

「そうだが」

「私、田島って言うんだけど」女はソファに勝手に座りながら、「友達から紹介されたの。失踪人を専門に探してくれる、って」

「ご紹介、ありがとうございます」

「夫が、消えたのよ」女は紙袋から写真を取り出してくる。写真の中の男は五十代、やや痩せ気味、眼鏡をかけている。会社の社員旅行らしき場で撮られたもの。「夫の名前は、田島茂夫。五十四歳。いなくなったのは──」女は少し言葉を選び、「──三ヶ月前」

「三ヶ月前」

「ええ。なんで、今頃になって、って思うでしょ」

「思います」「警察には」

「届けたわよ。最初の頃は」

「進展は」

「ない。あの人たち、本気で探してなんかくれない」

「お仕事は」

「夫の?保険会社よ。営業の課長」

「会社の状況は」

「会社は別に潰れてない。普通に勤めてた」

「借金は」

「あった」その目が──桐島は、見覚えのある目だと思う。向井和子の目に似ていた。悲しんでいる色と、別の何かが薄く混ざった目。

「金額は」

「五千万」

「ご存じだったんですか」

「先月、銀行から督促状が来てね。それで、知った」

「失踪の、後で」

「そう」女は煙草を自分の鞄から取り出し、桐島がライターで火を点ける。「もう一つ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「ご主人は、失踪される前、どんなご様子でした」

 女は煙を吐き、「……変だった。と、思う」

「変、というのは」

「落ち込んでるわけじゃないの。むしろ、なんていうか」女はしばらく考え、「ほっとしてた」

——ほっと、していた。また。

「ご主人は、何か、仰ってましたか」

「言ってた。一度ね」

「何を」

「『なんとかなる方法を、見つけたんだ』って」

桐島の煙草の煙が宙で止まった。止まったのは、空気の流れだったか、それとも、桐島の時間だったか。

「奥さん」

「はい」

「もう一度、仰ってください」

「『なんとかなる方法を、見つけたんだ』って、夫が、言ったの」

女の目に嘘はなかった。二人。二人の、消えた男。二人とも、ほっとした顔で笑い、「なんとかなる方法」を見つけたと言った。偶然では、ない。桐島の中で、何かが形を取り始めていた。形を取り始めて──そして、すぐに、また、消えた。頭の奥が痺れる。昨夜と同じ。いや、もっと、強く。

「桐島さん?」女が桐島の顔を覗き込み、桐島は首を振り「失礼しました」

「大丈夫? 顔色、悪いわよ」

「大丈夫です」桐島は新しい煙草に火を点ける。「奥さん。少し、お時間、いただけますか」

「いいわよ」

桐島は麻子の方へ視線を向ける。と、麻子は自分の机で書類を整理していた。桐島の視線に気づいて、顔を上げると、麻子の顔は──青ざめていた。

「麻子。過去の依頼で、似たような話がなかったか、調べてくれ」

「似たような、というのは」

「失踪人。借金あり。失踪前に、ほっとした顔をしていた、という証言。──そして、『なんとかなる方法を、見つけた』という発言」

 麻子は頷く。頷いた。かかが、その動作が、いつもよりゆっくりであった。女は契約書にサインをして帰っていく。扉が閉まると、雨の音が急に強くなる。桐島は煙草に火を点け、

「麻子」

「うん」

「お前、田島茂夫って名前、聞いたことあるか」

「ううん」

「本当か」

「本当」

麻子は答えながら、ファイルキャビネットを開ける。過去の依頼のファイル。桐島は麻子の背中を見ていた。麻子の動きが、いつもと違う。迷いがない。どのファイルを、どこから引き出すか、最初から知っているような動き。いや。知っているのは当然だ。麻子は二年半、ここでファイルを管理している。どこに何があるか、知っているのは当たり前。当たり前、なのだが──桐島は煙草を深く吸い込む。

「桐島さん」麻子が振り返らずに、「過去三年で、似た案件、あった。──三件」

「三件」

「全部、未解決のままになってる」

 桐島は煙を吐きながら「ファイル、見せてくれ」

「うん」麻子は三つのファイルを桐島の机に運んでくる。桐島はファイルを開く。


一件目。平成元年、十一月。依頼者、女性、当時三十六歳。夫の失踪。夫の年齢、五十一歳。借金、四千万。失踪前、夫は「ほっとした顔」をしていた。


二件目。平成二年、四月。依頼者、女性、当時三十二歳。夫の失踪。夫の年齢、四十八歳。借金、六千万。


三件目。平成三年、八月。依頼者、女性、当時三十九歳。夫の失踪。夫の年齢、五十三歳。借金、三千五百万。

桐島はファイルを見比べた。全員、夫より十数歳若い妻。全員、借金あり。全員、夫が「ほっとした顔」をしていた、という証言。全員、未解決。

「……麻子」

「うん」

「お前、これ、知ってたか」

「ファイルがあることは、知ってた。けど──こんな共通点があるとは」麻子は言葉を切る。

 桐島は麻子を見る、「気づかなかった。と、」

「うん」麻子の声は小さい。——嘘、だな。桐島は思った。これだけ明確な共通点を二年半ファイルを管理してきた麻子が、気づかないわけがない。気づいていた。気づいていて、桐島には言わなかった。なぜ。その理由を、桐島は聞かなかった。聞けば麻子はまた答えを引き延ばすだろう。──言える時が、来たら、言う。その「時」が来るまで、待つしかない。桐島はファイルを閉じ、もう一本、煙草に火を点ける。



——————



その夜、事務所を出るとき雨はまだ降っていた。桐島は傘を持っていなかった為、濡れて帰ろう。と、思った。梅雨の雨は冷たくない。階段を降り、一階のスナックの前を通る。ドアの隙間から、カラオケの音が漏れていた。今夜は演歌ではなく若い男の歌。平成の流行歌。時代は変わっていく。変わっていく——はずだった。通りに出ると雨がシャツに染み込んでくる。歩きながら、桐島は考えた。三件のファイル。今回の向井貞夫と田島茂夫を加えて、五件。いずれも未解決の失踪、いずれも似たパターン。偶然では——ない。誰かが、これを、組織的に、やっている。誰が。佐久間。あの、立石の男。あの、悲しげな笑い方の男。あの男が関わっている。それは間違いない。だが、佐久間一人で五件もの失踪を操れるとは思えない。組織が、ある。組織があるとすれば規模はもっと大きい。桐島はふと、立ち止まる。歩道橋の上。昨夜と同じ場所。眼下の靖国通り車のヘッドライトが雨の中を流れていく。光がにじむ。光が伸びる。桐島は欄干に手を置く。冷たかった。

——二十年以上前。自分は誰かから「なんとかなる方法」という言葉を聞いた。いや──もしかしたら「聞いた」だけではないのかもしれない。その「方法」を自分は──知っているのかもしれない。知っていたから、向井貞夫の失踪が自殺ではないと、直感した。知っていたから、佐久間の言葉に、心が揺れた。知っていたから──桐島は首を振る。考えるのをやめた。考え続けると、頭の奥がまた痺れる。その痺れは何かを思い出すことを拒んでいる。拒んでいるのは、誰、なのか。自分自身か。それとも、他の、誰か。桐島は雨の中を歩き出す。



——————



アパートに戻ると、ずぶ濡れだった。桐島は上着を脱ぎ、流しの脇に放つ。タオルで髪を拭き、冷蔵庫を開ける。昨日と同じ。もやしと、缶ビール。ビールを取り出し、飲もうとした瞬間──電話が、鳴る。

「もしもし——もしもし」息遣いが聞こえてくる。誰かが息をしている。切らずに、聞いている。桐島はしばらく待った。が、相手も待っていた。雨の音だけが受話器の向こうから漏れて聞こえてくる。雨の音と、息遣い。奇妙な時間。最初に口を開いたのは、桐島の方だった。「佐久間さん」その名前を口にする。受話器の向こうで、息が止まる気配があった。止まって──そして、ゆっくりと再開した。返事は、ない。「あんた、知ってるんだろう。俺が、誰なのか」返事はない。「答えてくれ。俺は、誰だ」雨の音だけが続き、数十秒の沈黙。そして、電話は切れた。ツー、ツー、という音だけが残った。桐島は受話器を置き、しばらく、その場から動けなかった。壁の時計を見る。と、夜の十時を過ぎていた。ビールを飲む。冷たい。布団を敷き、横になり、目を閉じる。眠れない。目を開け、天井のシミを見る。平成元年の、四月。その時、自分はどこにいたのか。誰と、話していたのか。何を、していたのか。思い出そうとする。頭の奥が痺れる。いつもの、痺れ。だが今夜は、いつもより、ほんの少しだけ──その痺れの向こうに、何かが見えそうな気がした。ほんの少しだけ。手を伸ばせば、届きそうな気がした。手を伸ばしてみる。届かない。届く前に、痺れが強くなる。桐島は目を閉じ、眠ろうとした。眠ろうとして、なぜか、麻子の顔が浮かんでくる。今日の夕方、ファイルキャビネットの前で振り返らずに答えていた、麻子の背中。その動きがいつもと違っていたこと。それから、青ざめた顔。なぜ、青ざめたのか。桐島は考えなかった。考えるのは、明日にしよう、と思った。明日になれば、何か分かるかもしれない。あるいは、明日になっても、何も分からないかもしれない。どちらでも、同じだった。雨が強くなっていた。屋根を叩く音。それだけが、世界の、すべてだった。



——————



翌日、桐島は事務所にいつもより早く着く。雨は上がっていた。梅雨の合間の晴れ間、空は薄い水色、まだ湿り気を含んでいる。事務所のドアを開ける。と、麻子はすでに来ており、机に向かい、何かを書いている。ノートだった。昨日と同じノート。桐島が入ってくると、麻子はいつも通り、ノートを閉じる。

「おはよう」

「ああ」

 桐島はソファに座り、煙草に火を点ける。「麻子」

「うん」

「同業者で沼田って男、知ってるか」

 麻子の手が止まった。止まって、また動き出す。いつものペースで「沼田さん。失踪人専門の、古い探偵」

「ああ。あの人なら、過去の似たような事件を、知っているかもしれない」

「会いに行くの?」

「行く」

「いつ」

「これから」

「桐島さん」

「ん」

「気をつけてね」

「気をつけるって、何を」

麻子はしばらく答えなかった。それから、桐島の方を見つめ、「沼田さんは──たぶん、桐島さんに、何かを言う」

「何を」

「分からない。でも、聞いた後で、桐島さんは、迷うと思う」

「迷う?」

「うん。続けるか、降りるか」

桐島は麻子を見つめ、「お前、なんで、それが分かる」

「勘」麻子は薄く笑う。「勘で、人生は決まらないって、桐島さんは言ってたけどね」

 桐島は煙草の煙を吐き、「言ってたな」

「うん。でも──」麻子はノートに視線を落とし、「勘で、決まることもある」



——————



沼田探偵事務所は神田の古い雑居ビルの四階にある。桐島の事務所よりもっと古いビル。階段の手すりは塗装が剥げ、踏むたびに軋んだ。四階までエレベーターはない。桐島は階段を上った。四階の廊下〈沼田探偵事務所〉という剥げかけた看板。扉は半分、開いていた。桐島は扉を軽くノックし「桐島だ」

中からしわがれた声が返ってくる。「入れ」

事務所は桐島の事務所よりもっと狭かった。六畳ほど。机と椅子とファイルキャビネット。窓は一つで、隣のビルの壁しか見えない。沼田は机の向こうに座っている。六十代後半、白髪頭、痩せた体、古いグレーのカーディガン、煙草を咥えている。桐島は──沼田の顔を見た瞬間、息を呑んだ。佐久間。昨日、立石で会った男。あの男と沼田は──顔が違った。顔は違うのだが、雰囲気が似ていた。目の深さが似ている。いや、深さではなく──奥に沈んでいる、何か。その「何か」が、似ていた。

「桐島か」沼田は煙草を灰皿に置き、「久しぶりだな。何年ぶりだ」

「五年は、経つかな」

「もっと、経つだろう」沼田は桐島をしばらく見ていた。その目は、懐かしむ目と、別の何かが混ざっている。「で。何の用だ」

桐島はソファに座り、「ある、失踪事件を、追っている」

「ほう」

「依頼が、立て続けに、二件来た。共通点が、ある」

「言ってみろ」

桐島は説明をする。向井貞夫、田島茂夫、借金、ほっとした顔、なんとかなる方法、立石の佐久間という男、そして過去三年で似た案件が三件。沼田は黙って聞いている。時々、煙草を吸う。話が終わっても、しばらく何も言わい。沼田の灰皿の中で煙草が燃え尽きていく。燃え尽きてから、ようやく──「桐島」沼田が口を開き、「降りろ」

桐島は沼田を見ながら「降りろ、というのは」

「言葉の通りだ。その案件から、手を引け」

「理由は」

「言えん」

「言ってもらわないと、納得できない」

「納得しなくていい。ただ、降りろ」

沼田は新しい煙草に火を点ける。その手が、わずかに震えていた。

「沼田さん」

「ああ」

「あんたも、過去に、同じ案件を、追ったのか」

「……追った」

「で、どうした」

「降りた」

「なぜ」

沼田は煙を吐き、「俺は、まだ、生きていたかったからだ」

桐島は息を呑んだ。「殺される、と」

「いや」沼田は首を振り、「殺されるのとは、違う。だが──生きてる、とも、言えなくなる」

「どういう意味だ」

「説明できん。降りた俺には、もう、説明する資格がない」

「資格」

「ああ。資格だ」沼田は桐島を見た。「桐島。お前は──」言いかけて、沼田は口を閉じる。しばらく迷っていた。それから、決心したように、口を開く。「お前は、もう、向こう側の人間だ」

 桐島の煙草が止まり、「向こう側、というのは」

「分からんなら、それでいい」

「分からないから、聞いている」

「分からない方が、いい」

沼田は立ち上がり、「帰れ、桐島。これは、最後の親切だ」

「沼田さん」

「帰れ」

沼田の声は低く、怒りではなかった。ただ、怖がっていた。古い探偵が何かを怖がっていた。その「何か」を、桐島には教えたくない、と思っている。

 桐島は立ち上がり、「沼田さん」

「何だ」

「最後に、一つ、聞かせてくれ」

「言え」

「平成元年。四月。あんた、何を、していた」

沼田は桐島を見つめ、その目が揺れた。ほんの一瞬。だが、確かに、揺れた。「——忘れた」沼田は答えた。「俺も、忘れた」

桐島は頷き、そして、扉に向かい、扉を開け振り返る。と、「沼田さん」

「何だ」

「あんた、佐久間って男を、知ってるか」

沼田は──答えなかった。ただ、煙草の煙を深く吸い込んだ。吐かず、吐かないまま、桐島は扉を閉めた。

階段を降りながら桐島は考えていた。沼田は過去に同じ案件を追った。追って、降りた。降りた理由は「生きていたかったから」。だが、殺されるわけではない。ならば、何が起きるのか。生きてる、とも、言えなくなる。そういう、状態。そして、沼田は桐島を「向こう側の人間」と言った。向こう側。桐島は階段の踊り場で立ち止まる。向こう側、という言葉が、自分の中で奇妙に馴染んだ。初めて聞く言葉、なのに、ずっと前から知っていたような──そんな感覚。頭の奥が痺れる。また。桐島は煙草に火を点けようとして、ライターを落としてしまう。ジッポー。階段に当たって軽い音を立てた。桐島は屈んでライターを拾い、拾って、立ち上がろうとした瞬間──ライターの傷の形が目に入ってくる。いつもの傷。長年、見慣れた傷。だが今日は、なぜか、その傷の形が、文字に見えた。いや、文字、ではない。符号。何かの、符号。桐島はしばらくライターを見つめている。見つめているうちに──符号は、また、ただの傷に戻った。桐島は首を振った。幻だ。梅雨の湿気のせいだ。寝不足のせいだ。そう、思おうとした。できなかった。思おうとしても、頭の奥の痺れが強くなるだけだった。



——————



その夜、桐島は事務所に戻らず、まっすぐアパートに帰った。帰る途中、何度か後ろを振り返る。誰かにつけられている気がした。が、振り返るたびに誰もいない。誰もいない、ということが、かえって、不気味に感じてしまう。アパートに着いて扉を開ける。部屋はいつも通り。いつも通りすぎる、くらいに。桐島は布団に座り煙草に火を点ける。壁の時計、午後九時過ぎ。電話が鳴る。桐島は受話器を取り、「もしもし」返事はない。「もしもし」息遣い。切らない。桐島はしばらく待った。「佐久間さん、か」返事はない。「沼田さん、か」返事はない。息遣いだけが続き、そして──「桐島、さん」声がした。女の声だ。その声を桐島は──知っている気がした。知っている、けれど、誰の声か思い出せない。「あなた、誰だ」桐島は問うた。女の声は答えなかった。が、「思い出さないで、ください」とだけ、告げる。「思い出すと、あなたは、もう、戻れません」そして、電話は切れる。桐島は受話器を握ったまま、動けなかった。女の声。その声が──誰の、声なのか。思い出そうとする。頭の奥が痺れる。いつもの、痺れ。だが今夜は、痺れの中に、女の横顔が、ほんの一瞬、見えた。誰の横顔か。桐島はもうそれ以上、思い出そうとしなかった。受話器を置き煙草に火を点ける。深く吸い込む。部屋は静かだ。雨は降っていなく、ただ、夜が、続いていた。

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