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一章 失踪人

平成四年、六月。梅雨の、合間。湿った曇天が、新宿の路地を覆っている。雑居ビルの三階、その一番奥。桐島悟は缶コーヒーの最後の一口をゆるく飲み下す。灰皿の中で吸い殻が山を作っており、机に伏せられた週刊誌の表紙には皇太子殿下ご成婚の文字。

──時代は変わろうとしている。誰もがそう信じていた。あるいは。


———信じたがっていた。


「桐島さん、また灰皿いっぱいですよ」

元妻の麻子が振り返らず背中で言う。それが彼女の癖だ。離婚から三年。事務員として雇い直してから二年半。文句の言い方すら業務連絡に似てくる。それが、関係の続き方というものだった。

「悪い」

「悪いと思ってないでしょ」

「思ってる」

「思ってる人は、減らすの」

桐島は答えず新しい煙草に火を点し、麻子は息を吐く。小さく。聞こえないほどに。その時、扉が叩かれる。二回ほど。間を空けて、もう一回。遠慮がちな、けれど、意を決したような──そんな叩き方。桐島は煙草を灰皿に置き、「どうぞ」と声を投げる。と、扉がゆっくりと開く。入ってきたのは、四十代後半の女性。

地味なグレーのスーツ。薄い化粧。後ろで結われた髪。手にしたハンドバッグの持ち手を両手で握りしめている。そういう仕草の女性を桐島はもう何度も見ている。失踪人の家族が最初に事務所のドアを叩く時の典型的な姿。迷い。恥じらい。そして何かを諦めたあとの──静けさ。

「あの、こちら、桐島探偵事務所さん、で」

「ええ。私が、桐島です。どうぞ、お掛けください」

女性は浅く頭を下げ、ソファに腰を下ろす。麻子はすぐに茶を出し、湯呑みを受け取った女性の手がわずかに、震えていた。

「依頼の内容をお聞かせください」

桐島が促す。と、女は小さく頷きハンドバッグから一枚の写真を取り出す。

「夫が消えたんです」

写真の中の男は五十代くらい。やや太り気味で温厚そうな顔立ち。会社の創立記念パーティらしき場で撮られたものなのか襟元にはバラの造花が刺さっている。

「ご主人のお名前は」

「向井貞夫と申します。五十二歳です」

「失踪されたのはいつですか」

「先週の火曜日。六月二日。朝、いつも通り会社に行くと言って家を出てそれきり——戻りません」

「警察には?」

「届けました。でも、成人男性の失踪は──事件性が認められない。と、なかなか動いてくれなくて」

桐島は、頷く。よくある話だ。

「ご主人のお仕事は」

「夫は商社に勤めていました。中堅の繊維関係の」

過去形。桐島は、それを聞き逃さなかった。

「勤めていた。と、いうのは」

女は、湯呑みに視線を落とし、

「先月、会社が倒産したんです」

桐島は煙草の煙をゆっくりと吐く。平成四年。

バブル崩壊からちょうど一年が経とうとしていた。中小の商社が次々と潰れていく時期。土地と株で膨れ上がった金が引き潮のように消えていく。残されたのは、借金と行き場をなくした男たち。

「——借金は、ありましたか」

女は驚いたように顔を上げ、それから、観念したように頷く。

「個人保証で八千万ほど」

「ご自宅は」

「先週、銀行の方が来ました。来月までに出ていかなければ、と」

桐島はそれ以上聞かなかった。絵が見えていた。何度も見た絵。借金。家庭。世間体。その三つに追い詰められた男が、ある日、消える。多くは多摩川か東京湾か富士の樹海で見つかる。見つからない場合はたいてい見つからないまま時間が流れていく。失踪人専門の探偵事務所にはこういう依頼が月に何件も来る。来て、そして、たいてい何も解決せずにファイルの隅で眠る。

「ご主人は何か仰っていましたか。失踪される前に」

「いえ、何も。ただ——」

「ただ?」

「数日前から書斎でずっと電話をしていました。誰と話しているのか聞いても、教えてくれませんでした」

「電話の様子は」

「とても静かでした。怒鳴ったりはしませんでした。むしろ──」

女性は、言葉を選んでいるように感じる。

「──ほっとしたような顔をしていました」

桐島は煙草を灰皿で揉み消す。ほっとした、顔。その表現が引っかかった。借金で追い詰められた男が失踪の数日前にほっとした顔で電話をしていた。それは、違和感でしかない。ほんのわずかな、違和感。だが桐島は二十年以上、刑事と探偵をやってきてこの種の違和感を無視してはいけないことを知っていた。知っているはずだった。

「奥さん」

「はい」

「ご主人を、探してほしいんですね」

「……はい」

女性は湯呑みを両手で包みこむようにしながら頷く。

「死んでいてもいいんです。ただ、どこにいるのか、知りたいんです」

その言葉がしばらく事務所の空気の中に残る。桐島は何も言わず、机の引き出しから契約書を取り出し麻子が新しい煙草を一本桐島の前に置いた。女性が帰ったあと麻子はソファに座り湯呑みを片付けながら、

「死んでると、思う?」

「分からん」

「——でも、いつもなら『死んでる』って言うじゃない」桐島は窓の外を見ていた。雑居ビルの隙間から灰色の空が覗いている。

「——ほっとしたような顔、っていうのが引っかかる」

「どういうこと?」

「分からん。だが、引っかかる」

麻子は何も言わなかった。机の上にある桐島のライターを手に取り、軽く弄ぶ。それは古いジッポー。蓋にはうっすらと傷が浮かぶ。その傷の形を──麻子は、知っていた。

「桐島さん」

「ん?」

「またそっちに行きそうな顔してるよ」

桐島は麻子の方を見なかった。ただ、新しい煙草に火を点す。その日桐島の事務所のカレンダーは平成四年六月のページが開かれていた。壁の隅には──なぜか平成元年のカレンダーが捨てられずに画鋲で留められたまま。四月のページで止まっている。


——————


翌日。桐島は向井貞夫の勤めていた商社の元同僚を訪ねる。会社は神田にあった。あった。と、いうのは──もう存在しないからだ。ビルの三階のフロアは空っぽ。貼り紙だけが残っていた。


〈株式会社向陽通商 倒産のお知らせ〉


それだけ。ほんの数行の終わりの言葉。桐島は近所の喫茶店で向井の同僚だったという男から話を聞いた。藤田と名乗った男は四十代前半ですでに次の職を探している最中だと。

「向井さんね、最後の方は、ほとんど会社に来てなかったよ」

「いつ頃から」

「四月の終わり、くらいかな。でも、不思議なんだよ」

「何が」

「あの人追い込まれてる感じがなかったんだ。普通さ倒産前ってみんなピリピリしてるじゃない。怒鳴ったり泣いたり。でも向井さんなんか─達観してたっていうか」

「達観」

「うん。一度立ち話で聞いたんだ。これからどうするんですかって。そしたら笑ってさ」

「何て」

「『なんとかなる方法を、見つけたんだ』って」

桐島は煙草に火をつける手を一瞬、止め、

「方法、ですか」

「そう。でも、それ以上は、教えてくれなかった。冗談かと思ったけど──目は、冗談じゃなかった」

桐島は喫茶店を出る。神田の駅まで歩く。梅雨の湿った風が、シャツの背中に貼りついた。


——なんとか、なる方法。


借金八千万を抱えた中年男が見つけた方法。それはおそらく、首を吊ることでも、入水することでも、ない。桐島にはそう思えた。なぜそう思うのか。その理由が自分でも分からない。だが、その「方法」を自分は知っているような気がする。駅の公衆電話から麻子に連絡を入れた。

「もしもし」

「俺だ。今日は、直帰する」

「何か、掴んだ?」

「いや。掴んでない。だが」

「だが?」

桐島は受話器を握り直し、

「向井貞夫は、たぶん、自殺じゃない」

電話の向こうで麻子が短く息を吸う音がした。

「じゃあ、何」

桐島は答えなかった。受話器を置いたあともしばらくその場から動けなかった。なぜなら。二十年以上前に自分が同じ言葉を誰かから聞いたような──そんな気がしたからだ。なんとか、なる方法。その言葉が頭の奥で小さく反響していた。


——————


その夜。桐島は西新宿の安アパートに戻った。二階建ての木造。家賃、三万八千円。事務所から歩いて十五分。離婚した男が独りで住むには広すぎず狭すぎない部屋。台所の蛇口は捻ると唸るような音をたてた。風呂はない。近所の銭湯に通っている。冷蔵庫を開ける。と、そこには三日前のもやしと缶ビールが二本。桐島は缶ビールを取り出し流しの前に立ったまま飲む。壁の時計が十時を打つ。桐島は缶ビールを置き鞄から手帳を取り出す。今日聞いたことをいつもの癖でメモにする。藤田の証言。向井の表情。なんとかなる方法。書きながら──ふと、ペンが、止まる。


——ほっとした、顔。


その言葉を自分は、いつ、どこで、聞いたのか。思い出そうとすると、頭の奥が薄く痺れる。桐島は手帳を閉じビールの残りを飲み干す。布団を敷いていると電話が鳴った。黒い、ダイヤル式の電話。受話器を取ると麻子の声が聞こえてくる。

「もしもし」

「ああ」

「ご飯、食べた?」

「もやしを食う気には、なれなかった」

「そう」

短い沈黙。

「桐島さん」

「ん」

「今日、依頼を受けるとき、迷ったでしょう」

桐島は答えなかった。

「いつもなら、奥さんの話を聞き終わる前に、契約書を出してる人なのに。今日は、ちょっとだけ——間があった」

「気のせいだろ」

「気のせいじゃ、ないよ」

麻子の声は責めているわけではなかった。確認しているような口調。

「あの依頼、断ってもいいんだよ」

「断る理由が、ない」

「理由なら、ある」

「何だ」

麻子はしばらく黙り、

「——勘」

桐島は小さく笑う。

「勘で仕事を断ったら、潰れるぞ、うちは」

「そうだね」「——お休みなさい」

麻子はそれだけ言って電話を切った。桐島は受話器を置き布団に横になっても、しばらく眠れなかった。天井のシミを見ていると平成元年のことが断片的に蘇ってくる。葛西の顔。雨の夜のあの倉庫。自分の手の震え。その後の空白。空白の中で誰かが自分に向かって、何か、言っている。言葉の内容は、思い出せない。ただ──その声が、女の声だったような気がする。と、いうことだけを覚えていた。

女の声。それが、誰の声なのか。それすら、もう、分からない。


——————


翌日。桐島は向井家を訪ねた。世田谷の住宅街にある築三十年ほどの一軒家。庭の植木は手入れされていた。表札の脇に銀行の差し押さえを示すらしき紙が、控えめに貼られている。向井和子は昨日の事務所での疲れが残った顔のまま桐島を迎えた。

「お忙しいところ、すみません。書斎を、見せていただけますか」

「もちろんです。どうぞ」

書斎は二階の北側にあった。六畳ほどの洋間。壁の三方が本棚で埋まっている。経済関係の専門書。業界誌。それから──なぜか、古い詩集が一冊。机の上には、革張りのデスクマットと黒電話。電話の脇に、メモ用紙の束。桐島はメモ用紙を手に取る。一番上の紙には何も書かれていない。だが、紙にうっすらと筆圧の跡が残っていた。前に何かを書いた紙のその下の紙。

「奥さん」

「はい」

「鉛筆、ありますか。柔らかいやつ」

和子は机の引き出しから2Bの鉛筆を出して渡す。桐島はメモ用紙を窓の方に向け光に透かす。それから鉛筆の腹で紙の表面を軽くこする。と、白い紙の上に黒く塗られた中から文字が浮かび上がる。


〇三―三七六二―…….


電話番号。最後の四桁は消えかかっていて読めない。だが、市外局番と最初の四桁ははっきり読めた。

「奥さん。この番号、心当たりは」

和子は、紙を覗き込み、首を振る。

「いいえ。見たことありません」

「ご主人の取引先ではない?」

「夫の取引先は、家にも名簿があります。三七六二の局番はなかったはずです」

桐島はメモ用紙を畳み内ポケットにしまう。

「もう一つ、お聞きしたいんですが」

「はい」

「ご主人は保険には」

「生命保険ですか。三千万のものに、入っています」

「失踪宣告が出るまで保険金は下りませんね」

「ええ。七年と聞いています」

和子は湯呑みに視線を落とし、

「知っています。七年待てば夫は法的に死んだことになる。保険金が下りる。家のローンも団信で消える。──そう、説明されました」

「誰に」

「銀行の方に」

桐島は頷いた。それは──銀行員が言うにはいささか不適切な情報だ。借金で首が回らなくなった夫が消えたら七年後に保険金が下りますよ。それは暗に消えてくれてかまわない。と、言っているのと変わらない。和子はそれを夫から聞いていたかもしれない。あるいは夫自身がその「七年」を知っていたかもしれない。桐島は和子を見る。和子の目には夫の失踪を悲しんでいる色と別の何かが、薄く、混ざっていた。その別の何かが、何なのか。桐島はまだ、判断しなかった。


——————


事務所に戻ったのは夕方。麻子はファイルキャビネットの整理をしていた。桐島は内ポケットからメモ用紙を出し机に置き、

「これ、調べてくれ」

麻子は手を止め、紙を覗き込む。

「電話番号?」

「最後の四桁が消えてる。だが、〇三―三七六二の局番なら、絞り込める」

「どこの局番?」

「葛飾だ。確か、立石か、青砥のあたり」

麻子は紙を持って自分の机に戻る。電話帳をめくる音がしばらく続いた。桐島はソファに座り煙草に火を点す。壁の隅の平成元年のカレンダー。四月のページで止まっている。なぜ、四月で止まっているのか。桐島自身覚えていなかった。捨てようとして、捨てられなかった。それだけは、覚えている。

「桐島さん」

麻子が電話帳から顔を上げ、

「葛飾の三七六二で始まる番号、登録されてる事業所、結構あるんだけど。どれかなあ」

「片っ端から、潰すしかないか」

「ううん。一つだけ、引っかかるのがある」

「何だ」

「この番号──たぶん、『さくら不動産』っていう会社」

「不動産屋?」

「うん。でもね」

麻子は電話帳のページを桐島の方に向けた。

「この会社、私──見覚えが、ある」

「依頼で?」

「ううん。違う」

麻子はしばらく言葉を探していた。

「……昔、私が」

そこで麻子は言葉を切った。電話が鳴る。桐島は受話器を取る。

「桐島探偵事務所」

返事は、ない。息遣いだけが聞こえた。

「もしもし」

返事は、ない。数秒の、沈黙。電話は、切れた。

桐島は受話器を置き、麻子と目が合う。麻子はさっきまで言いかけていた言葉をもう続けようとはしなかった。

「桐島さん」

「何だ」

「明日、その不動産屋──行くの?」

「ああ」

「…..一人で?」

「一人だ」

麻子は頷く。ファイルキャビネットの方に戻り開いていた引き出しをゆっくりと閉めた。その動作の意味を──桐島は、まだ、知らない。


——————


その夜。桐島は事務所の鍵を閉め階段を降りた。雑居ビルの一階。スナックと潰れた喫茶店。スナックのドアの隙間からカラオケの音が漏れていた。古い、演歌。桐島は煙草に火を点し新宿三丁目の路地を歩く。梅雨の夜は湿気で街灯の明かりがにじんで見えた。

歩きながら桐島は考えていた。麻子がなぜ「さくら不動産」を知っているのか。依頼で関わった会社ならファイルにある。だが麻子は依頼ではない。と、言った。


——昔、私が。


その続きを麻子は呑み込んだ。桐島は麻子の過去をほとんど知らない。結婚していた七年間も知らないままだった。麻子は自分の話をしない女だった。子供のいない夫婦の夜の食卓はいつも、他人の話か、明日の仕事の話。けれど、二人とも不自由を感じていなかった。少なくとも──桐島はそう、思っていた。離婚を切り出したのは麻子の方だった。平成元年の秋。理由は麻子の方からはっきりとは語られなかった。


ただ———


「桐島さん。このままだと、あなたが、壊れる」と、麻子は言った。桐島はその時、何かを答えた気がする。が、それも覚えていない。覚えていないことが多すぎた。桐島は煙草の煙を夜の空気へ、吐く。四十七歳。普通の中年の頭がここまで穴だらけのものなのか。それとも——自分だけが特別に忘れっぽいのか。歩道橋の上で桐島は立ち止まる。眼下の靖国通りを車のヘッドライトが流れていく。二十年以上前に自分は誰かから「なんとかなる方法」という言葉を聞いた気がする。その誰かは、男だったか、女だったか。女だったような気がする。と、昨夜は思った。しかし、今、もう一度思い返すと———女の声だったような、男の声だったような、両方が、混ざっていた。桐島は煙草を欄干の縁で揉み消す。明日、葛飾に行こう。行けば何かが分かる。あるいは何も分からない。どちらでも同じことだった。桐島は歩き出す。歩道橋を降りアパートの方へ向かった。その夜も桐島はなかなか眠れなかった。布団の中で平成元年のカレンダーの四月のページを思い出していた。四月の何日かに自分は何をしていたのか。思い出そうとすると頭の奥が、薄く、痺れる。昨夜と同じ場所だった。


同じ場所。同じ痺れ。


まるで──そこから先は見てはいけない。と、誰かに言われているような。


——誰に?


答えは、ない。ただ、夜が、続いていた。

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