第9話:【間話】シノの掃除
――真の『掃除』とは、主人の目に触れる前に、あらゆる汚物を世界から完全に消し去ることである。
床に落ちた塵を拭い去るのは三流の仕事。
主君の平穏なる休日に群がる害虫を、その不快な羽音が届く前に叩き落とし、血の一滴、悲鳴の一片たりとも残さずに処理してこそ、バシリカ本家が誇る一流の侍女というもの。
ゆえに忘れるな。我らの尊き主君が歩む道は、常に塵一つなく、血の匂い一つしない、絶対の安寧で敷き詰められていなければならないのだ。
(バシリカ本家・筆頭侍女の心得録『お掃除の章』第一節より)
聖都サン・ソレイユの活気あふれる市場。
その喧騒を見下ろす大通りの屋根の上に、風景に完全に溶け込む黒い影が一つ、音もなくしゃがみ込んでいた。
「ふふっ。当主様、とても良い笑顔です」
バシリカ本家筆頭メイドにして、レオンの絶対的な影であるシノ・シノノメは、双眼鏡越しに主君の姿を捉え、オカンのような温かい笑みを浮かべていた。
視線の先では、変装【のつもり】のレオンが、見知らぬ銀髪の少女――お忍び中の聖女マリーと、屋台の味噌ダレ串焼きを仲良く頬張っている。
レオンが無造作にマリーの口元の汚れを拭き取ってやるのを見て、シノは「ほう」と感心したように頷いた。
(買い出しのついでに、ちゃっかり現地妻(候補)を調達されるとは。さすがは当主様、英雄色を好むと申しますか。……ふむ、悪くない骨格です。あれだけ見事な食べっぷりなら、健康な跡継ぎを産んでくれるでしょう)
完全に「姑の品定め」モードに入りつつも、シノの心中は穏やかだった。
ここ最近のレオンは、分家、覇王軍、そして天陽教の聖堂騎士団という三大勢力との「過酷な知略戦 (※ただの事故とすれ違い)」の連続だったのだ。
今日くらいは、あのように肩の力を抜いて、年相応の青年のように休日を楽しんでいただきたい。それが忠実なるメイドの切なる願いであった。
――しかし。
そのささやかな願いを打ち砕くように、市場の裏路地から、不快極まりない『気配』が数ほど滲み出してきた。
「……」
シノのオカン顔が一瞬にして消え失せ、絶対零度の暗殺者のそれへと変貌する。
気配の主は、十数名。いずれも洗練された足運びで、布の下に鋭利な刃物を隠し持ち、一直線にレオンの背後へと近づきつつあった。天陽教が極秘裏に放った、聖都の暗殺部隊である。
(……チッ。どこの羽虫か知りませんが、よりにもよって当主様の休日に湧くとは。万死に値しますね)
シノにとって、彼らが「教祖の放った精鋭」であるかどうかなんて些末な問題だった。
重要なのは、あの不快な連中がこのまま近づけば、当主様の素晴らしい休日に『血の匂い』と『殺気』という最悪の汚物が漂ってしまうということだ。
(当主様があえて無防備に串焼きを頬張っておられるのは、「この程度のゴミ掃除は任せるぞ」という私への信頼の証。……ええ、お任せくださいませ。当主様の歩む道は、常に塵一つなく磨き上げてみせます)
シノは音もなく屋根から滑り降りると、純白のエプロンのポケットから、二つの『掃除道具』を取り出した。
一つは、洗濯物を干す際に用いる特製の鋼糸。
もう一つは、服のほつれを直すための、致死毒をたっぷり塗り込んだ極太の縫い針。
「さて……」
シノは一切の殺気を消し去り、ただ「床に落ちたゴミを拾う」のと同じような無感情さで、路地裏の闇へと溶け込んでいった。
「――お掃除の時間です」
路地裏の暗がりへ足を踏み入れた教団の暗殺者たちは、自分たちがいつの間にか『狩られる側』に回っていることにすら気付いていなかった。
先頭を進んでいた男の首に、極細の鋼糸がスッと巻き付く。
シノが指先を僅かに動かした瞬間、男は悲鳴を上げる間もなく喉を締め上げられ、音もなく暗がりの木箱の裏へと引きずり込まれた。
「……ん? 今、後ろで音が……」
異変に気付いて振り返ろうとした二人目の暗殺者の喉仏に、致死毒の塗られた太い縫い針が深々と突き刺さる。カハッ、と血の泡を吹いて崩れ落ちる男の体を、シノは床に落ちる寸前でふわりと抱き止め、静かに地面へ寝かせた。
(……ええ。絨毯にこびりついたワインのシミ抜きに比べれば、造作もないお仕事です)
シノは埃一つ立てない完璧な足運びで、次々と暗殺者たちを『処理』していく。
しかし、彼女が三人目の男の顎を鮮やかに蹴り飛ばした、その時だった。
「遅いですよ、泥棒猫。当主様のお命を狙う羽虫の処理は、本家筆頭メイドである私の仕事です。手出しは無用と申し上げたはずですが」
シノの冷ややかな視線の先。
そこには、路地裏の木箱の上に陣取り、気怠げな三白眼で短剣を弄んでいる女――バシリカ本家裏稼業のエージェント、オルハ・スリッターがいた。
(まったく。どこから嗅ぎつけてきたのか知りませんが、またこの血生臭い野良犬が当主様の周囲をうろついて……。彼女の強すぎる血の匂いでは、せっかくの当主様の休日のお食事が台無しになってしまいます)
内心で盛大な舌打ちをしながらも、シノの表情は完璧なメイドの鉄面皮を崩さない。
「ちっ、相変わらず頭の固いメイドだねぇ。アタシが手伝ってやってるんだ、感謝しな。あんた一人じゃ、あの尊きお方の休日に『血の匂い』が届いちまうかもしれないだろう?」
不敵に笑うオルハに対し、シノは無言で三本の毒針を指の間に挟み、シュッ! と腕を振るった。
毒針はオルハの顔面スレスレを通過し――彼女の背後から襲いかかろうとしていた別の暗殺者の眉間、喉、心臓に正確に突き刺さった。
「おっと。危ないねぇメイドさん、今アタシの顔を狙っただろ?」
「あら、奇遇ですね。私も今、あなたが私の足元に仕掛けた極細のワイヤー罠を解除したところです。当主様の護衛に、野良犬の助けは不要です」
(ふん。あの毒針で、ついでにその生意気な三白眼のまつ毛を数本刈り取ってやるつもりだったのですが。やはり反射神経だけは小賢しいですね)
シノは冷たい笑みを浮かべながら、手首のスナップで鋼糸を巻き直した。
対するオルハも、両手に持った短剣をチャキリと鳴らす。
「ふふっ、言うねぇ。どっちがより多く、より静かにこのゴミ共を片付けられるか、勝負するか?」
「望むところです。敗者は今後、当主様の半径五十メートル以内への接近を禁じますよ」
その瞬間。路地裏に残されていた教団の精鋭暗殺部隊の顔が、一斉に恐怖で引き攣った。
「「ヒィィィィッ……!!」」
彼らは自分たちが、もはや『標的』とすら見なされていないことを悟った。
目の前にいるのは、圧倒的な実力を持つ二匹の化け物。自分たちはただの「主君への忠誠心を示すためのスコア」、あるいは「メイドと野良猫のじゃれ合いの道具」でしかないのだ。
「一つ!」
「アタシが先だ、二つ!」
シノの鋼糸が暗殺者の足首を絡め取り、そのままオルハの蹴りの軌道上へと放り投げる。オルハが弾き飛ばした暗殺者の得物を、シノが空中で掴み取り、別の暗殺者の急所へ叩き込む。
もはやそれは戦闘というよりも、異常な速度で行われる『流れ作業(お掃除)』であった。
表の大通りでは、当のレオンが「路地裏からリズミカルな音がするな。大道芸の練習かな?」と呑気に蒸し饅頭を頬張っているなど露知らず。
二人の過保護な影は、血で血を洗う恐怖のスコアアタックをハイスピードで繰り広げていくのだった。
「――十七。これで最後ですね」
「アタシも十七。……チッ、引き分けってところか」
路地裏に積み上がった『元・精鋭暗殺部隊だったゴミの山』を前に、シノとオルハは同時に息を吐いた。
互いに一歩も譲らぬ完璧な処理速度。決着がつかなかったことにオルハは忌々しげに舌打ちをし、双剣を鞘に収めた。
「まあいい。当主様に『血の匂い』が届く前に片付いたんだ、今日のところはこれで引いてやるよ。……せいぜいしっかり護衛しな、メイドさん」
「言われるまでもありません。野良犬はさっさと暗がりへお帰りなさい」
冷たい視線を交わした後、オルハの姿は蜃気楼のように路地裏の闇へと溶けて消えた。
一人残されたシノは、ふう、と小さく息をつき、エプロンのポケットから『バシリカ本家特製・超強力消臭スプレー(柑橘系の香り・血痕溶解成分配合)』を取り出した。
シュッシュッ、と路地裏全体にスプレーを吹きかけ、不快な血の匂いを爽やかなレモンの香りへと上書きしていく。
さらにシノは、床に転がる暗殺者たちの体を、路地裏の空き木箱の中へ「テトリス」の如き完璧な空間把握能力で隙間なく折りたたんで収納し、蓋を釘で打ち付けた。
(ふふっ。我ながら、塵一つ残さない完璧なお掃除でした。これなら、当主様のお心に微塵の波風を立てることもありません)
エプロンの皺を優雅に伸ばし、シノは満足げに路地裏を後にした。
「いやー! マジで何事もなくて良い休日だった! やっぱり街は最高だな!」
夕暮れ時。聖都サン・ソレイユの巨大な正門を抜け、霊峰への帰路についたレオンが、夜空に向かってすがすがしい声を上げた。両手には、越冬用の小麦粉や野菜がたっぷりと抱えられている。
「暗殺者にも襲われないし、変な罠もないし、飯は美味いし! 今日はぐっすり眠れそうだぜ!」
(……ええ。当主様が健やかに眠れるよう、不浄な羽虫はすべて私が駆除いたしましたから)
シノは、レオンの背後の影からスッ……と、まるで最初からそこに居たかのように音もなく姿を現した。
返り血一滴、埃一つ浴びていない、純白のエプロンが夕闇に映える完璧なメイド服姿である。
「お疲れ様でした、当主様。道中、お荷物をお持ちいたします」
「うおっ!? ……なんだシノか、びっくりさせんなよ」
レオンは一瞬ビクッと肩を揺らしたが、すぐにホッとしたように笑った。
「お前もずっと護衛でついてきてたんだろ? 一日中、裏通りとかで退屈させて悪かったな」
「いえ。少々『お掃除』をしておりましたので、退屈など微塵も」
「そっか。まあ、何事もなくて良かったよ。ほら、これ。市場で美味い饅頭買ってきたから、あとで無明院に着いたら一緒に食おうぜ」
そう言ってレオンが差し出したのは、ほんのりと温かみが残る、潰れかけた小さな紙包みだった。
――ドクン。
その瞬間、シノの胸の奥で、強烈な感情が弾けた。
(ああ……!!)
ただの、数十ルピの安物の饅頭。
しかしシノにとって、それはどんな国宝よりも、どんな宝石よりも輝いて見えた。
絶対的な力を持つ (と信じている) 無敵の当主様が、わざわざ自分のために、このささやかな甘味を選んで、持ち帰ってきてくださったのだ。これほどの慈悲、これほどの寵愛が他にあるだろうか。
(私の命に代えても。この方の平穏と、この無邪気な笑顔は、絶対に守り抜いてみせます……!!)
シノの内心では、レオンへの狂信的なまでの忠誠心が、天を衝くほどの勢いで限界突破していた。
しかし、表面上はあくまで「完璧なメイド」の鉄面皮を崩さない。
「……! もったいないお言葉。ありがたく頂戴いたします」
シノは深々と、美しい所作で一礼した。
背後で何十人もの暗殺者を血祭りにあげてきた凶悪な影は、今やただの一人の献身的な侍女として、愛する主君の背中を誇らしげに見つめながら、夜の霊峰へと歩みを進めるのであった。
――〇月×日 天候・晴れ。
本日の業務記録。
お洗濯、市場への買い出しの随行、及び裏路地における害虫(十七匹)の駆除。
特注の柑橘系消臭スプレーの残量が少なくなってきたため、後日調合と補充が必要。
備考:当主様より、お土産としてお饅頭を賜る。
……我が命に代えても、この御恩に報い、あの尊き背中を永遠にお守りすると誓う。賜ったお饅頭は防腐の魔術をかけて家宝として永久保存することも考えたが、当主様の「一緒に食おう」というお言葉を最優先し、涙と共に五感を研ぎ澄ませて美味しくいただいた。
(バシリカ本家筆頭侍女シノの極秘業務日誌より)




