第8話:聖都の聖女
――天陽の光射す我が聖都は、地上における最も純潔なる神の庭である。
この街の門を潜ることができるのは、神の威光に平伏す者のみ。邪悪なる魔術の徒や、薄汚れた血を持つ者が立ち入ることなど、決して許されない。
ましてや、我が教団の至宝であり、神の奇跡を代行する無垢なる『聖女』マリエットの御前に、不浄なる者が近づくことなど天地が引っくり返ろうとあり得ないのだ。
我らが為すべきことはただ一つ。あの霊峰に潜む不浄なる暗殺者から『神王の遺骸(血)』を奪還し、この聖都の威信を世界に示すことである。
(天陽教教祖・極秘手記『聖都浄化計画』より)
「いやー、平和だ。平和って素晴らしいな!」
南朝の国教・天陽教の総本山たる宗教都市『サン・ソレイユ』。
その活気あふれる巨大市場の中心で、分厚い旅の外套をすっぽりと被った男――レオン・バシリカは、心底リラックスした顔で伸びをした。
先日、己の命を狙う狂信者の軍勢(聖堂騎士団)を退けたばかりの敵の総本山。本来なら絶対に近づくべきではない死地である。
しかし、大砲の爆発で備蓄の小麦粉をすべて失ってしまったレオンにとっては、「一番近くて、一番物資が揃っているデカい街」がここしかなかったのだ。
(『灯台下暗し』ってやつだ。まさか、先週自分たちの軍隊をボコボコにした『邪教の暗殺者』が、ウキウキで買い出しに来てるなんて誰も思わないだろ!)
変装(といってもフードを深く被っただけ)も完璧だと信じ切っているレオンは、立ち並ぶ露店の活気に目を輝かせていた。
「おっ、あそこの屋台、めちゃくちゃいい匂いがするな」
香ばしく焦げる醤油と味噌の匂いに釣られ、レオンが一つの屋台に近づいた時だった。
屋台の前で、一人の少女がひどく困った顔をして立ち尽くしているのに気がついた。
透き通るような銀髪を地味な布で隠し、目立たない平服を着ているが、その立ち振る舞いには隠しきれない気品がある。
彼女は屋台の店主に「ほら、買うのか買わないのかどっちなんだい!」と急かされ、オロオロと震えていた。
「あ、あの……『お金』というものは、どれを渡せばよいのでしょうか……? この、金色に光っている硬貨を一枚で足りますか……?」
「馬鹿野郎! 串焼き一本に金貨なんか出されたら、お釣りが払えねえよ!」
(……なんだあの子、世間知らずのお嬢様の家出か?)
完全なお忍び状態の天陽教最高位『聖女』マリエット――いや、今は『マリー』であることに気づく由もないレオンは、放っておけず横からヒョイと銅貨を数枚差し出した。
「おやっさん、俺の分と合わせてこの子の分も頼むわ。ほらよ、これで足りるだろ?」
「おお、兄ちゃん助かるぜ! ほらよ、焼き立ての特製味噌ダレ串焼きだ!」
ジュージューと音を立て、甘辛い味噌の焦げる暴力的なまでに食欲をそそる匂い。
レオンは串焼きを二本受け取ると、ポカンとしている少女――マリーに一本を手渡した。
「ほら、食いな。初めてのお使いか? 金貨なんて見せびらかしてたら、スリに狙われるぞ」
「あ、ありがとうございます……私はマリーと申します。あの、これは……?」
「串焼きだよ。冷めないうちに食ってみろって」
マリーは恐る恐る、その熱々の肉の塊に口をつけた。
普段、総本山の奥深くで『不浄なき精進料理』――味付けの極めて薄い野菜や、清めの儀式を経た無味乾燥なパンしか口にしていない彼女の舌に。
ガツンッ!! と。
濃厚な脂の甘みと、甘辛い味噌ダレの強烈な塩気、そして炭火の焦げた香ばしさが、雷のような衝撃となって直撃した。
「――――っ!?」
「お、どうした? 嫌いだったか?」
「お、美味しい……! なんですかこれ!? お肉が柔らかくて、それにこのドロドロした濃い味のソースが……っ、しょっぱくて甘くて、すごく美味しいです!!」
瞳をキラキラと輝かせ、マリーは神聖な祈りすら忘れて、まるで野生の小動物のように夢中で串焼きを頬張り始めた。
そのあまりに無防備な食べっぷりに、レオンは思わず苦笑する。
「ははっ、落ち着いて食えよ。ほら、口の横に味噌がついてるぞ」
レオンは懐から使い古した手ぬぐいを取り出すと、マリーの頬にこびりついた味噌ダレを、まるで近所の子供の世話でもするように無造作にキュッと拭き取った。
「あ……」
常に孤高の存在として崇められ、他人に直接肌を触れられることなど生涯で一度もなかったマリー。
自分を『ただの年下のドジな女の子』として扱い、雑に、けれど優しく世話を焼いてくれるこの不思議な青年の手の温もりに、彼女の心臓はトクン、と大きく跳ねた。
「あの……! もう一本、食べてもいいですか!?」
「おっ、いい食いっぷりだな。よーし、今日は特別に俺が奢ってやる。市場の美味いもん、全部制覇するかマリー!」
「はいっ!」
お互いの素性――『天陽教の聖女』と『邪教の暗殺者』であることなど微塵も知らないまま、二人の平和で尊い食べ歩きデートが幕を開けた。
――しかし。その平和な光景のすぐ裏側。
彼らが和やかに笑い合っている屋台の真裏の路地裏では。
「……ッ、ガハッ……!?」
「静かに。当主様の休日の邪魔をするな、教団の狗ども」
レオンの潜入に気づき、教祖が極秘裏に放った聖都の精鋭暗殺部隊が。
ただならぬ殺気を纏った一人のメイド(シノ)によって、音もなく、そして確実に血祭りに上げられていた。
「おっ。裏通りから威勢のいい音がするな。肉でも叩いてんのかな?」
「ふふっ、活気があって素晴らしい街ですね!」
背後で人が物理的に叩き潰されている音すらも、能天気な観光のBGMとして処理していく二人であった。
「ほら、次はあそこの甘味屋に行ってみようぜ。ここの名物らしいぞ」
「はいっ! 私、あんなに丸くてフワフワした食べ物、初めて見ました!」
すっかり打ち解けたレオンとマリーは、聖都の大通りを平和に歩いていた。
教団の厳格な教えに縛られ、鳥籠の中で生きてきたマリーにとって、レオンが案内してくれる庶民の味と活気は、まるで魔法のようにキラキラと輝いて見えた。
二人が笑顔で蒸し立ての饅頭を頬張っている頃。
その一本裏の薄暗い路地裏では、教祖の命を受けた精鋭暗殺部隊が、これまでにない異常事態に直面し、ガタガタと震え上がっていた。
「な、なんだ貴様らは……っ! 我々は教祖様の命で、あの不浄なる男を――」
言い終わるより早く。
路地裏の壁を蹴って飛んできた黒い影が、男の顎を鮮やかに蹴り飛ばした。
「遅いですよ、泥棒猫。当主様のお命を狙う羽虫の処理は、本家筆頭メイドである私の仕事です。手出しは無用と申し上げたはずですが」
着地と同時にメイド服のスカートを優雅に翻したのは、シノである。
しかし、彼女の視線の先――先ほどまで暗殺者が立っていた場所にいつの間にか陣取り、三白眼を気怠げに細めているもう一人の女がいた。
バシリカ本家を陰から狂信的に支える裏のエージェント、オルハ・スリッターである。
「ちっ、相変わらず頭の固いメイドだねぇ。アタシが手伝ってやってるんだ、感謝しな。あんた一人じゃ、あの尊きお方の休日に『血の匂い』が届いちまうかもしれないだろう?」
オルハは手にした刃をクルクルと弄びながら、足元に転がった暗殺者をゴミでも見るような目で踏み躙った。
「失礼な。私の暗殺術は常に無音にして無臭です。……ほら、そこ。隙だらけですよ」
シュッ! とシノの指先から放たれた三本の毒針。
しかしそれは暗殺者ではなく、なぜかオルハの顔面スレスレを通過し、その背後に潜んでいた別の暗殺者の眉間、喉、心臓に正確に突き刺さった。
「おっと。危ないねぇメイドさん、今アタシの顔を狙っただろ?」
「あら、奇遇ですね。私も今、あなたが私の足元に仕掛けた極細のワイヤー罠を解除したところです。当主様の護衛に、野良犬の助けは不要です」
「ふふっ、言うねぇ。どっちがより多く、より静かにこのゴミ共を片付けられるか、勝負するか?」
「「ヒィィィィッ……!!」」
教祖直属の精鋭暗殺部隊は、恐怖のあまり涙を流して後ずさった。
標的の男には指一本触れられないどころか、この化け物染みた二人の女は、自分たちを『暗殺対象』とすら見ていない。ただの「主君への忠誠心を示すためのスコア」、あるいは「メイドと野良猫のじゃれ合いの道具」として扱っているのだ。
「ぎゃあっ!?」
「ごふっ……!!」
シノが投げた暗殺者をオルハが蹴り返し、オルハが弾いた刃をシノが別の暗殺者の急所に叩き込む。
もはや戦闘ですらなかった。それは「どちらがより華麗に、静かにゴミ掃除をできるか」という、二人の過保護な影による、血で血を洗うキャットファイト(物理)であった。
「……ん? なんだか裏通りから、ドスドスってリズミカルな音が聞こえないか?」
蒸し饅頭を頬張っていたレオンが、ふと路地裏の方へ耳を傾けた。
マリーもコテッと首を傾げ、目を輝かせる。
「本当ですね! 何かのお祭りでしょうか? きっと、大道芸人の方々がアクロバットな踊りを練習しているのですね!」
「なるほど、大道芸か! さすが総本山、活気があっていい街だなあ」
路地裏で屈強な暗殺者たちが次々とアクロバットに宙を舞い(物理的に放り投げられ)、壁に激突して気絶している音だとは夢にも思わず、二人はのんきにお茶をすするのだった。
夕暮れ時。聖都サン・ソレイユの巨大な正門前は、茜色に染まっていた。
両手いっぱいに小麦粉や越冬用の物資を抱え込んだレオンは、満足げなため息をついてから、隣を歩く少女へと振り返った。
「いやー、今日は本当に楽しかった。一人で買い出しするより何倍も美味かったよ。付き合ってくれてありがとな、マリー」
「っ、とんでもないです! 私の方こそ、あんなに美味しくて、楽しくて……まるで夢のような一日でした!」
マリーは頬を夕日と同じくらい真っ赤に染めながら、ぶんぶんと首を横に振った。
彼女の胸には、先ほど市場の端でレオンが「お揃いのお土産だ」と言って何気なく買ってくれた、安物の木彫りのペンダントがしっかりと握りしめられている。
「また市場に遊びに来いよ。次こそは、あそこの激辛串焼きに挑戦しようぜ」
「はいっ! 絶対に……絶対に、またお会いしましょうね、レオン様!」
ただの気さくで優しいお兄さん(そして自分の初恋を奪った人)に大きく手を振るマリー。
自分が最高位の『聖女』をたった数百ルピのジャンクフードで完全に堕としたことなど微塵も気づいていないレオンも、「おう、気を付けて帰れよー!」と能天気に手を振り返し、聖都の門を後にした。
――一方その頃。聖都の中心にそびえ立つ、巨大な大聖堂の最深部。
天陽教を束ねる教祖は、大理石の床に這いつくばって震える部下からの報告を聞き、ワナワナと全身を震わせていた。
「……全滅、だと? 聖都の影とも呼ばれる我が教団の精鋭暗殺部隊が、あの男一人に、ただの一矢も報いることなく全滅したというのか!?」
「は、はいっ……! お、恐ろしいことに、標的は一度も我々の方を振り返りませんでした! ただ笑顔で屋台の肉を頬張りながら……我々は気づけば、見えざる手によって次々と宙を舞い、骨を砕かれておりました……っ!」
「馬鹿な……!!」
教祖は玉座から立ち上がり、冷や汗を滝のように流した。
「あの男は……我々が暗殺者を放つことなど、完全に読み切っていたのだ。その上で、あえて無防備な平服で我々の庭(聖都)へ入り込み……あろうことか、我が教団の至宝である聖女様を隣に置き、我々を牽制しながら、談笑のついでに精鋭を屠り去ったというのか……!」
暗殺者たちを物理的に叩き潰していたのは、背後で点数を競い合っていたシノとオルハである。
しかし、教祖の目にはそれが『不可視の魔術』あるいは『神王の奇跡』にしか見えなかった。
「なんという傲慢、なんという底知れぬ男だ……! 我々の防衛網も、精鋭の殺意も、奴にとっては市場の余興に過ぎないというのか! ええい、これ以上あの悪魔を刺激してはならん! 聖堂騎士団を再編するまで、奴への手出しは一切無用だ!!」
聖都の最も神聖な奥地で、最高権力者の悲痛な絶叫が木霊した。
「いやー! マジで何事もなくて良い休日だった! やっぱり街は最高だな!」
霊峰への帰路。大荷物を背負いながら、レオンは夜空に向かってすがすがしい声を上げた。
「暗殺者にも襲われないし、変な罠もないし、飯は美味いし! 今日はぐっすり眠れそうだぜ!」
そんなレオンの真後ろの影から、スッ、と一人のメイドが姿を現した。
返り血一つ、埃一つ浴びていない完璧なメイド服姿のシノである。(ちなみにオルハは「メイドに負けた」と舌打ちをして、すでに闇の中へ消えている)
「お疲れ様でした、当主様。道中、お荷物をお持ちいたします」
「おお、悪いなシノ。……お前もずっと護衛でついてきてたんだろ? 退屈させて悪かったな。ほら、市場で美味い饅頭買ってきたから、あとで一緒に食おうぜ」
「……! もったいないお言葉。ありがたく頂戴いたします」
背後で何十人もの暗殺者を血祭りにあげてきた張本人は、主からの饅頭の差し入れに頬を緩め、深々と一礼した。
自分を「無敵の神王」だと恐れ戦く教祖と、自分に恋心を募らせる聖女を残してきたことなど露知らず。
辺境の暗殺者は、ホクホク顔で「ただの平和な休日」を終え、己の待つボロ寺(無明院)へと帰っていくのであった。
――我々は、彼という存在の底知れなさを完全に侮っていたのだ。
聖なる防壁も、音無き精鋭の刃も、神王たるあの男の前では児戯に等しい。
平服で悠然と我らの庭(聖都)を練り歩き、あろうことか我が教団の至宝たる聖女様を『人質』として隣に侍らせながら、ただの一瞥もくれずに我が精鋭たちを塵へと変えたのだ。
あの串焼きを頬張る無邪気な笑顔の裏に、どれほどの深淵(狂気)が隠されているというのか。我々は今、決して触れてはならない世界の逆鱗に触れてしまったのかもしれない。
(天陽教教祖の極秘手記『聖都浄化計画』・震える文字の追記より)




