第6話:第三の影
――迷える者たちよ、目を覚ましなさい。
影に潜む暗黒の魔術も、理を気取る鋼の砲弾も、大いなる神の御前では等しく無力である。
真なる力とは、揺るぎなき『信仰』によってのみもたらされる。
神の奇跡はあらゆる物理法則を凌駕し、聖なる加護はいかなる刃をも跳ね返す。我らが信ずるは絶対の防御にして、大いなる光の裁きである。
我らの悲願は一つ。偽りの血を引く亡命王女を断罪し、辺境の地より『神王の遺骸』を奪還すること。光の御名の下に、あの冒涜的な霊峰を浄化せよ。
(南朝・聖堂騎士団誓約書『光の教典』第三章より)
イグニス覇王軍の先遣隊を退け、地形ごと更地にされた霊峰に痛々しい朝陽が昇る頃。
第三層、無明院の縁側には、真っ白に燃え尽きた一人の男の姿があった。
「……終わった。俺の冬は、完全に終わった……」
覇王軍を退けた代償として、冬を越すための命綱であった小麦粉の備蓄をすべて失ったレオンである。
虚ろな目で遠くの山並みを見つめる彼の腹の底から、ギュルルルルルルゥゥゥ……という、とても神王の御使いとは思えない盛大な音が響き渡った。
「腹、減った……」
大砲の爆音から逃げ回り、全速力で小麦粉の袋をぶん投げたのだ。無理もない。
だが、食料庫の中身は先ほどの粉塵爆発で文字通り灰燼に帰している。今年の冬は木の根でも齧って飢えを凌ぐしかないのかと、レオンが絶望の底に沈みかけていた、その時だった。
「お疲れ様です、当主様。温かいお茶が入りましたよ」
障子がスッと開き、涼しい顔をしたシノが縁側に現れた。
彼女が手にしているお盆の上からは、ふわりと香ばしい醤油の匂いが漂ってくる。見れば、見事な焼き色のついたぷっくりと膨らんだお餅と、彩り豊かな自家製の大根の漬物が、当たり前のように綺麗に盛り付けられていた。
「おお……」
空腹の限界を迎えていたレオンは、無意識のうちに熱々のお餅に手を伸ばし、パクリと頬張った。
外はカリッと香ばしく、中はどこまでも柔らかく伸びる絶妙な焼き加減。それに合わせて、自家製の漬物を齧る。パリッ、という小気味良い音と共に、大根の甘みと程よい塩気が口いっぱいに広がり、疲労しきった身体に染み渡っていく。
「……んんっ、美味い。大根の漬かり具合が最高だ。やっぱりお前の作る飯は世界一だな……」
「恐れ入ります」
熱い茶をすすり、ほっと一息ついたところで。
レオンはピタリと動きを止め、まじまじと手元のお盆を見つめ直した。
「……って、あれ!? なんでこんな立派な保存食があるんだ!? 昨日、備蓄庫の食料は全部爆発の火種にして吹き飛んだはずじゃ……!」
目を丸くするレオンに対し、シノは空になった湯呑みに新しい茶を注ぎながら、極めて平坦な声で答えた。
「当主様がいつ野盗や大軍を相手に『備蓄をぶん投げる』か分かりませんので。念のため、第四層の隠し田んぼで収穫しておいたもち米と、秋に採れた山菜類は、被害の及ばない別の蔵へと分散して越冬準備を済ませておりました」
「えっ」
「バシリカ本家の隠密として、これくらいのリスクヘッジは当然の務めかと」
あまりにも有能すぎる。
自分の浅はかなヤケクソ行動すらも完璧に予測し、先回りして冬の備えを完了させていた有能すぎるメイド兼隠密を前に、レオンは持っていた箸を震わせた。
「シノォォォォォォッ!! お前が……お前が本当の神王だよォォォォ!!」
「……おやめください、当主様。近所迷惑です」
涙と鼻水を流しながら平伏し、シノの足首にしがみついて拝み倒す辺境の暗殺者。
その、あまりにも情けない主従のやり取りを、少し離れた本堂の物陰から熱い眼差しで見つめている人物がいた。ルナ王女である。
(なるほど……! レオン様は、シノの完璧な備えを完全に信頼しきっていたからこそ、あのような躊躇いのない『備蓄を犠牲にする奇策』が打てたのですね……!)
ルナは両手を胸の前で組み、感動に打ち震えていた。
(一切の不安を見せずに食料を投げ打つその度胸。そして、主の意図を汲み取り、万全の裏工作を済ませておく腹心の有能さ。なんという強固な主従の絆……!)
ただ単にパニックになってヤケクソで食料を投げただけの男と、その主人の情けなさを熟知しているからこそ呆れ半分でバックアップを用意していただけの女。
その真実を知る由もない王女の中で、レオンへの盲信はまたしても、決して後戻りできない未知の領域へと足を踏み入れていくのであった。
「あー、食った食った。やっぱり冬は縁側で餅に限るな。もう一生ここでゴロゴロしていたいぜ……」
腹を満たし、すっかり平和ボケした顔で縁側に寝転がるレオン。
激戦の疲労も相まって、今なら三秒で深い眠りに落ちることができそうだった。
――しかし、無情にも。辺境の暗殺者に安息の時は訪れない。
パタパタパタ……。
一羽の小さな白い山鳥が、冬空から真っ直ぐに無明院の庭へと舞い降りてきた。鳥は迷うことなく縁側にとまり、チチッ、と短く鳴く。
それを見た瞬間、お盆を片付けようとしていたシノの纏う空気が、一変した。
温厚なメイドの顔から、一切の感情を排した冷徹な『隠密』の顔へ。
「……」
シノは無言のまま山鳥の脚に巻き付けられた極小の文筒を受け取り、中の紙片に素早く目を通した。
「ん? どうしたシノ、そんな怖い顔して。まさか醤油が切れたとか言わないよな?」
呑気に欠伸をしながら尋ねるレオンに対し、シノは紙片を握り潰し、極めて事務的で冷たい声で告げた。
「……当主様。分家、覇王軍に続き、いよいよ『最後の大国』が動いたようです」
「ブフォッ!?」
レオンは飲み込みかけていた茶を盛大に噴き出した。
「第一層の更地(覇王軍の砲撃跡)を抜け、第二層の入り口に新たな軍勢が展開したとの報告が入りました。白銀の装甲に身を包み、大仰な光の紋章を掲げた一団……。間違いありません」
「嘘だろ……。南朝の連中か!?」
ルナ王女の母国であり、彼女を異端として執拗に追跡している巨大宗教国家『南朝』。
その実働部隊である『聖堂騎士団』が、ついに霊峰の麓に姿を現したのだ。
「覇王軍のような大砲は持っていないようですが……厄介なことに、彼らは部隊全体に『神聖魔法』による強固な防御結界を展開しながら進軍しています。物理的な罠も、並の魔術も、あの『絶対防御の奇跡』の前には弾かれるでしょう」
「……マジかよ」
レオンは頭を抱えた。
分家の刺客のような手合いなら、騙し討ちやトラップで対処できる。覇王軍のような物理ゴリ押しの相手なら、地の利や粉塵爆発のような裏技でワンチャンスを作れる。
しかし、相手が「魔法的な絶対防御」をガチガチに固めて歩み寄ってくる狂信者の集団だとしたら?
罠にハメることもできず、奇策も通じない。レオンの「ハッタリ」が最も通用しづらい、純粋な「防御力の壁」が迫ってきているのだ。
「なんでどいつもこいつも、俺がちょっと休もうとした瞬間に押し寄せてきやがるんだよ……!」
餅を食ってゆっくり昼寝をするという、ささやかな辺境スローライフの夢すら打ち砕かれ、レオンの絶望の叫びが霊峰の空に虚しく響き渡った。
「なんでどいつもこいつも、俺がちょっと休もうとした瞬間に押し寄せてきやがるんだよ……! もうやだ、絶対働きたくない!」
畳の上をゴロゴロと転げ回り、駄々をこねる幼児のように嘆くレオン。
そこへ、バンッ!と勢いよく本堂の襖が開け放たれた。
「レオン様……!!」
悲痛な面持ちで立っていたのは、ルナ王女だった。
先ほどの小鳥の伝令と、レオンたちの会話を裏で聞いていたらしい。彼女の瞳には大粒の涙が浮かび、その細い肩は小刻みに震えていた。
「ついに……ついに南朝の追手が、この霊峰にまで迫ってきたのですね。神聖魔法の絶対防御陣……おそらく、私を異端の魔女として断罪するための『異端審問特務隊』です」
ルナはぎゅっと唇を噛み締め、その場に深く跪いた。
「これ以上、レオン様やシノに迷惑をかけるわけにはいきません。どうか、私を奴らに差し出してください! そうすれば、この無明院の平穏は守られ――」
「バカ言え!!」
レオンは勢いよく跳ね起き、ルナの悲壮な決意を即座に叩き斬った。
(今更お前を差し出したところで、『異端の王女を匿った罪』で俺まで火あぶりにされるに決まってんだろ! 大体、あんなガチガチの狂信者どもが『はいそうですか』で素直に帰るわけがない! ついでに邪教の山として焼討ちされるのがオチだ!!)
内心では恐怖と保身からの計算が猛スピードで駆け巡っていたが、レオンは焦りを顔に出さないよう必死に堪え、深いため息をつきながら頭をガシガシと掻いた。
「……あー、もういい。分かった分かった。そういう面倒くさいのはいいから、お前はそこで大人しく茶でも飲んで座ってろ。……シノ、罠の再構築だ。第一層と第二層が更地にされたなら、第三層の泥沼の配置からやり直すぞ」
「承知いたしました。では、足止めのための粘着呪毒のブレンドを調整しておきます」
シノが即座に隠密の顔で頷く。
二人にとっては「どうせ逃げられないから、ヤケクソで迎撃の準備をするしかない」という極めて後ろ向きな、文字通りの『泥沼』の防衛戦の始まりであった。
――しかし。
その極度の面倒くささから発せられたレオンの投げやりな言葉は、ルナ王女の脳内で『最高に都合の良い翻訳』をされて響き渡っていた。
(なんという……なんというお方なのでしょう……!)
ルナは両手で顔を覆い、感涙に咽んだ。
(世界最大規模の宗教国家・南朝の特務部隊が迫っているというのに、顔色一つ変えないばかりか、私を差し出すという提案を一蹴された。
『面倒くさいから座っていろ』……それは即ち、『お前が案じるような脅威など、ここには存在しない』という絶対的な自信の表れ! いかなる大軍、いかなる神の奇跡が立ち塞がろうとも、背中の私に指一本触れさせないという、不言実行の愛……!)
レオンの保身と面倒くささは、ルナの目には『いかなる権力にも屈しない、神王としての揺るぎなき覚悟』として映っていた。もはや彼女のレオンへの盲信は、本物の南朝の狂信者たちすらドン引きするレベルの『信仰』へと昇華しつつあった。
「……? なんであいつ、急に泣きながら祈り始めてるんだ? 怖いんだけど」
「放っておきましょう。いつもの発作です。それよりも当主様、聖堂騎士団の結界を破る策はあるのですか?」
「あるわけねえだろ! だから俺は寝たいんだよ!」
無敵の神王の御使いとして崇拝の眼差しを向けられる男と、迫り来る「絶対防御の狂信者」たちにどうやって泥をぶつけるか本気で頭を抱える男。
二つの強烈なすれ違いを孕んだまま、霊峰『白山』は、これまでで最も厄介で、最も理不尽な第三の侵略者を迎え撃とうとしていた。
――いかなる大国の軍勢が迫ろうとも、神王の御使いは決して動じない。
「座っていろ」。その短くも力強い一言に込められた、絶対の守護の誓い。
ああ、私はどれほど愚かだったのだろう。自らを犠牲にしてあの方を救おうなどと、自惚れにも程がある。レオン様の御前では、南朝が誇る無敵の聖堂騎士団すら、退屈しのぎの遊戯に過ぎないのだ。
私はただ彼を信じ、温かい茶を飲みながら、大いなる裁きが下るのを見届ければよいのである。
(亡命王女ルナの隠し日記『霊峰滞在記』・「絶対の守護」の項より)




