第4話:刺客の兄弟子
―暗殺魔術の神髄は『凪』にある。
心臓の鼓動を鎮め、血の巡りを忘れ、己という存在を世界から限りなくゼロに近づけよ。
故に、我らにとって最大の敵とは、無尽蔵の魔力を持つ者でも、圧倒的な武力を誇る者でもない。
己の精神の奥底に踏み込み、無理矢理に感情の『波』を立てる者である。
もし戦場において、お前の心を乱す存在と対峙したならば、それは即ち絶対の「死」を意味すると心得よ。
(バシリカ本家・一子相伝の暗殺魔術指南書『無明の書』第一節より)
分家の先遣隊三百を壊滅(という名の罠による一方的な処理)させてから数日。
霊峰『白山』第三層、無明院の本堂には、レオンの情けないため息が響き渡っていた。
「あー……マジで疲れた。幻覚キノコの再植樹に、底なし沼の泥の配合し直し……。なんで俺が自分の庭を荒らした連中の尻拭いをしてやらなきゃならないんだよ」
縁側で大の字に寝転がりながら、レオンは恨めしそうに青空を睨みつけた。
その傍らで、シノが静かに新しい薬草茶を湯呑みに注ぐ。本堂の奥では、ルナ王女とセリアが疲れからか深い眠りについているため、声のトーンは自然と低くなっていた。
「お疲れ様です、当主様。ですが、それもこれも当主様の放った『大軍を連れてこい』というお言葉が招いた結果かと存じますが」
「うっ……それは言うな」
図星を突かれて顔をしかめつつ、レオンは身を起こして茶をすする。シノの前でだけ見せる、完全に気が抜けた『素』の姿だった。
ふう、と息を吐き出し、レオンは自分の両の手のひらを見つめた。
「だいたいさ、ウチの一子相伝の『暗殺魔術』って、絶対に欠陥品だろ。ちょっとでもビビッて心拍数が上がったり、焦って呼吸が乱れたりすると、影の刃が形を保てずに霧散しちまうんだぞ? いつでもどこでも『絶対零度の凪』を保てとか、無理ゲーにも程がある」
レオンが敵の前で常に見せている、あの底知れぬ絶対者としての振る舞い。
それは彼が強者だからでも、カッコをつけているからでもない。内心のビビりや「面倒くさい」という感情を完全に押し殺し、精神を『無』に強制着地させなければ、自衛のための魔術すら発動できないという切実すぎる理由からだった。
「だから俺は、自分が動かずに、心拍数を上げずに敵を処理できる『エグい罠』に頼るしかないんだよ。……ほんと、嫌になるぜ」
愚痴をこぼしながら、レオンが再び畳の上に寝転がろうとした、その時だった。
――スッ、と。
本堂の入り口の襖が、一切の衣擦れも、足音も、風切り音すら伴わずに開いた。
「え?」
レオンの動きが止まる。
第一層『迷いの樹海』に張り巡らせたはずの、再構築したばかりの最高レベルの結界罠。それが一切の反応を示さないまま、何者かが、この第三層の奥深くまで『既に到達していた』のだ。
「――相変わらず、隙だらけだな。レオン」
地を這うような、低く、感情の抜け落ちた声。
その声を聞いた瞬間。レオンの心臓が、早鐘のようにドクンッ!!と跳ね上がった。
襖の隙間に立っていたのは、長身の男だった。
漆黒の装束に身を包み、暗い色をした三白眼の双眸が、無機質な光を湛えてレオンを見下ろしている。武器を構えているわけでも、殺気を放っているわけでもない。ただそこに『在る』だけで、周囲の空気が重圧でひび割れそうなほどの存在感を放っていた。
「オ、オルハ……兄弟子……」
レオンの口から、乾いた声が漏れる。
オルハ。かつてバシリカ本家において、幼き日のレオンに『暗殺魔術』の基礎を徹底的に叩き込んだ兄弟子であり――レオンにとって、この世で最も恐ろしいトラウマの権化。
分家の刺客として彼がここにいる。その事実を脳が理解するより早く、レオンの身体は幼少期の凄惨なシゴキの記憶をフラッシュバックさせ、ガチガチと震え始めていた。
「当主様! 後ろへ――ッ!」
異変を察知したシノがクナイを抜き放ち、レオンを庇うように飛び出そうとする。
だが、それより速く。
オルハの姿が、かき消えるようにその場からブレた。
「遅い」
次の瞬間、オルハは既にレオンの懐――ゼロ距離にまで到達していた。
一切の予備動作のない、純粋にして圧倒的な暴力の気配。
(魔術を……影の刃を……!!)
レオンは必死に足元の影を操ろうとするが、心臓は恐怖で暴れ狂い、呼吸は乱れ切っていた。暗殺魔術の絶対条件である『凪』の精神状態など、そこには微塵も存在しなかった。
足元で揺らいだ影は、刃の形を成す前にあっけなく霧散する。
「……やはり、未熟」
オルハの容赦のない蹴りが、防ぎに入ったレオンの胴体を紙屑のように跳ね飛ばした。
本堂の太い柱に叩きつけられ、レオンはゴハッと大量の血を吐き出して畳の上へ崩れ落ちる。
絶対の安全地帯だったはずの平穏な日常が、たった一人の身内によって、無惨にも破壊された瞬間だった。
「ガハッ……、あ……」
叩きつけられた柱の根元で、レオンは肺から空気を吐き出し、うずくまった。
肋骨が数本折れたかもしれない。激痛で視界が点滅し、喉の奥から強烈な鉄の味が込み上げてくる。
「当主様!!」
シノが悲痛な叫びを上げ、二本目のクナイを手にオルハの背後から躍りかかった。彼女もまた、バシリカ本家に仕える優秀な隠密だ。その動きは常人には捉えられないほど速く、無駄がない。
だが、三白眼の兄弟子は振り返りすらしない。
「……邪魔だ」
背後に目がついているかのような正確さで、オルハは手首を軽く裏返した。ただそれだけの動作でシノの刺突を逸らし、そのまま彼女の鳩尾に無造作な掌底を叩き込む。
「ぐ、ふ……ッ」
シノは声にならない呻きを漏らし、畳の上を転がって気を失った。致命傷を避ける絶妙な手加減が施されてはいるが、これで完全にレオンを守る盾は消滅した。
「ヒッ……!」
レオンは後ずさりしようとするが、恐怖で足に力が入らない。
ゆっくりと、足音一つ立てずにオルハが歩み寄ってくる。その暗い三白眼に見下ろされた瞬間、レオンの脳内に固く蓋をしていた幼少期のトラウマが、濁流のように溢れ出した。
――滝壺に蹴り落とされ、息ができずに溺れかけた記憶。
――『暗殺魔術』が発動するまで、木刀で夜通し殴られ続けた激痛。
――どれだけ泣いて命乞いをしても、一切表情を変えずに暴力を振るい続けた、この男の冷酷な目。
(殺される殺される殺される!!)
心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、耳の奥で自らの血流の音が轟音となって響く。
(落ち着け、落ち着け俺! 息を吐け、心拍数を落とせ! 『凪』を作らなきゃ、魔術が……!)
必死に呼吸を整えようとするが、目の前に立つ『最凶のトラウマ』を前にして、精神が平穏を保てるはずがない。
レオンは震える指先で虚空を弾き、無理やり『暗殺魔術』を起動しようとした。足元の影がゆらりと立ち上がり、刃の形を成そうとする。
しかし。
「……影が揺れている」
オルハの低く冷徹な声が、本堂に響いた。
刃になろうとした影は、レオンの極限の恐怖と焦りに当てられ、形を維持できずにただの黒いモヤとなって虚しく霧散していく。
「相変わらず、臆病者だな」
短く吐き捨てたオルハが、一切の容赦なくレオンの胸倉を掴み上げ、その顔面に鋼鉄のような拳を叩き込んだ。
「ごばッ……!」
視界が弾け、レオンの身体が本堂の床を無様に転がる。
全身の骨が軋み、意識が白濁していく。
(なんで……なんで分家の連中なんかより、身内が一番手加減ねえんだよ……!)
血反吐を吐きながら、レオンは絶望した。
自慢の罠はすり抜けられ、頼みの綱の魔術も発動できない。理不尽で圧倒的な暴力の前に、自分の平穏な日常はここで完全に終わるのだと。
暗殺魔術の絶対条件である『凪』を強制的に打ち砕かれた辺境の暗殺者は、ただの無力な青年として、抗う術を持たないまま死の淵へと追い詰められていた。
(ああ……終わった。俺の平穏なスローライフ、ここで完結か……)
薄れゆく意識の中、床に倒れ伏したレオンは自らの死を悟った。
全身の骨が悲鳴を上げ、指一本動かすことすらできない。見上げれば、無慈悲な死神そのもののようなオルハが、トドメとなる拳を無造作に振り上げているところだった。
逃げ場はない。罠もない。魔術も使えない。
(せめて、痛くないように殺してくれよ……)
レオンが諦めと共にぎゅっと目を閉じた、まさにその瞬間だった。
「立ち上がってください、レオン様!!」
本堂の奥から、悲痛でありながらも、絶対的な希望を宿した甲高い声が響き渡った。
騒ぎを聞きつけて起きてきたルナ王女が、セリアの制止を振り切って叫んでいたのだ。彼女の瞳には、一切の疑いもない強烈な信頼の光が宿っていた。
「あなたは神王の御使い……! 正統なる王の血を導く、無敵の守護者ではありませんか! こんな所で、このような輩に遅れをとるはずがありません!!」
その、あまりにも的外れで、現実離れした重すぎる期待の言葉を耳にした瞬間。
レオンの脳内を、かつてないほどの『強烈な呆れ』が駆け抜けた。
(…………は?)
恐怖で暴走していた心臓の鼓動が、一瞬だけピタリと止まった。
(バカかこいつ……。ボコボコにされて床這いつくばってる俺の、今のこの状況のどこが『無敵の守護者』に見えるんだよ。目、節穴か? つーかもう、俺がどれだけ否定しても勝手に期待して勝手に盛り上がって……マジで、どうにでもなれ……)
極限の呆れと、完全なる諦め。
それは皮肉にも、レオンから一切の感情(焦り、恐怖、生への執着)を奪い去り、思考を『無』へと強制着地させた。
直後。レオンの心拍数が急激に低下し、乱れきっていた呼吸が、文字通り『絶対零度の静寂』へと切り替わる。
暗殺魔術の絶対条件――完全なる『凪』の完成であった。
「……!」
拳を振り下ろそうとしていたオルハの三白眼が、わずかに見開かれた。
彼がレオンの頭蓋を砕くよりも、ほんの一瞬だけ速く。
完全に静寂を取り戻したレオンの足元から、これまでで最も鋭く、最も淀みのない漆黒の『影の刃』が弾け飛んだ。
ピタリ、と。
本堂の空気が凍りついた。
オルハの鋼鉄の拳は、レオンの鼻先わずか数ミリのところで完全に静止していた。
そして――レオンの放った極薄の影の刃が、オルハの頸動脈に寸分違わず押し当てられていた。
ほんの少しでもどちらかが動けば、互いの命が散る完全な相打ちの形。
張り詰めた死合いの均衡の中、レオンは虚ろな目でオルハを見上げていた。もはやそこに恐怖はなく、ただ圧倒的な『凪』だけが存在している。
数秒の沈黙の後。
影の刃を喉元に突きつけられたオルハは、ふ、と力を抜き、構えを解いた。
その無機質な三白眼の奥に――ほんの少しだけ、安堵したような、微かな笑みが浮かんだのをレオンは見逃さなかった。
「……少しは、マシになったな」
短くそれだけを言い残し、オルハは背を向ける。トドメを刺すこともなく、音もなく本堂の襖を開け、来た時と同じように霧の中へと消えていった。
嵐が、去った。
遠ざかる兄弟子の気配を完全に感じなくなった瞬間、レオンの極限の『凪』が解け、再び全身に激痛が走る。
「だから……最初から、手加減しろっての……」
レオンは恨めしそうにそう呟き、今度こそ完全に意識の糸を手放した。
彼を救ったのが、自分がついたハッタリを盲信した王女の「勘違い」であったことなど、気絶したレオンには知る由もなかった。
――私はこの目ではっきりと見た。
分家が放った恐るべき刺客の拳を前にしても、レオン様は決して怯むことなく、ただ静かに、慈愛に満ちた瞳で影の刃を突きつけてみせたのだ。
あの方ほどの御力があれば、無礼な刺客の首を刎ねるなど造作もなかったはず。しかし、レオン様は身内の愚行を静かに赦し、無言のまま退かせたのである。
その底知れぬ強さと、深く静かなる御心。やはりあの方こそが、この血塗られた乱世を鎮める神王の再来に他ならないと、私は確信した。
(亡命王女ルナの隠し日記『霊峰滞在記』より)




