第34話:吹雪の潜入者
――『ガルドニア魔導帝国・北方軍特殊工作部隊『ファントム・イェーガー』作戦要綱』より抜粋。
「我々の任務は戦闘ではない、一方的な『解体』である。地脈の凍結によって生じた濃霧と結界出力の低下に乗じ、光学迷彩外衣を纏って無明院の中枢へと浸透する。主たる怪物が地下に釘付けにされている今、地上に残された者どもに我々の姿を捉える術はない。音もなく忍び寄り、動力炉と格納庫を灰燼に帰せ」
この記録は、のちに編纂された『大陸大戦史・白山防空戦篇』において、帝国北方軍が誇る最精鋭の隠密部隊がいかに冷徹な計算のもとで投入されたかを物語る史料として引用されている。視覚情報と魔力反応の双方を周囲の風景へと同化させる彼らの潜入戦術は、主君不在の無明院にとって、かつてない静かなる悪夢の幕開けであった。
熱を失った無明院の庭には、鉛色の曇天から降り落ちた光すら届かない、深く澱んだ白の世界が広がっていた。
大地から絶え間なく湧き出でる青白い氷霧が、畝を成す黒土を覆い隠し、丹精込めて育てられた冬野菜の葉先を硝子細工のように硬く凍りつかせていく。つい一時間前まで常春の陽気に満ちていた温室ドームは、今や音が死に絶えた巨大な氷室と化していた。
敷地の一番奥、固く閉ざされた大納屋の扉の前に立つトモエは、大剣の柄を握る自らの指先が、革手袋の内側でじわりと汗ばみ、そして急速に冷えていくのを感じていた。
吐き出す白い息が、目の前の濃霧に溶けて消える。
静かすぎた。外の吹雪が結界壁を叩くくぐもった振動さえ、この濃い霧の底では遠い別世界の出来事のように頼りない。
(……地上を頼む、か)
地下の源泉へと向かう直前、あのいつもは飄々(ひょうひょう)としている青年が見せた、氷の刃のように鋭く落ち着いた眼差しが脳裏に蘇る。
かつてのトモエにとって、戦場とはただ己の武勇を誇示し、血と栄光を奪い合うだけの荒野であった。だが、この白山に来てから知った「守るべき日常」の重みはどうだ。湯気の立つ温かい食卓、湯船に浸かって緩む仲間の笑顔、そして背後の大納屋で今も必死に作業を続けているクルミたちの息遣い。
それらすべてが今、自分たちの双肩にかかっている。その事実が、トモエの背筋に心地よいほどの緊張と、決して退けぬという烈火のごとき覚悟を宿らせていた。
「……トモエ様。風向きが変わりました」
数歩前で霧の奥を見据えていたカガリが、唇をほとんど動かさずに囁いた。
その声に呼応するように、反対側の死角を警戒していたシノとルナが、音もなく重心を低く落とす。
異変は、音ではなく「匂い」と「空気の歪み」として訪れた。
凍てつく氷霧の中に、ごくわずかな鉄錆と、魔導火薬特有の乾いた焦げ臭さが混じった瞬間――トモエの真正面、何もないはずの白い空間が、まるで熱砂の陽炎のようにゆらりと揺らいだのである。
「――散れッ!!」
トモエの裂帛の叫びと同時に、虚空から無数の黒い飛礫――消音魔導銃から放たれた徹甲弾と、光を反射しない黒塗りの短剣が、一切の風切り音を伴わずに大納屋の前へと殺到した。
トモエが咄嗟に振り上げた大剣の腹が、不可視の銃弾を弾き返し、暗い霧の中に鋭い火花の線を散らす。
だが、攻撃は正面だけではなかった。
周囲の青白い霧そのものが意志を持ったかのように渦を巻き、右から、左から、さらには頭上の死角から、完全に姿を消した帝国北方軍の特殊工作部隊『ファントム・イェーガー』の刃が、無防備な喉元や腱だけを正確に狙って滑り込んできたのだ。
視覚情報はおろか、魔力の波長、足音、さらには殺気さえも光学迷彩外衣によって周囲の環境へと完全に同化させた、三十名の亡霊たち。
「くっ……! レオン殿、オルハ殿……!」
トモエは左手で懐の魔導通信機を起動させ、地下の主君へと急報を飛ばした。
しかし、切迫した言葉を叫んだ直後――霧の闇から伸びてきた見えない鋼線の鞭が、トモエの手元を正確に撃ち抜き、通信機を無惨な破片へと変えて宙に散らした。
乾いた破砕音が氷霧に吸い込まれ、地上と地下を繋ぐ唯一の糸が、ぷつりと断ち切られたのだった。
砕け散った通信機の破片が、凍りついた黒土の上に落ちる。
そのわずかな落下音が消え去るよりも早く、青白い霧の全方位から第二波の凶刃が襲いかかった。
トモエは渾身の力で大剣を横一文字に振るい、大気ごと霧を切り裂いた。しかし、刃が捉えたのは手応えのない冷気ばかり。彼女が大剣を振り抜いた際に生じるわずかな隙を狙い、虚空から放たれた呪縛の魔導ワイヤーが、トモエの足首と左肩に絡みついて肉に食い込んだ。
「ぐ、ぬぅっ……! 卑怯千万な亡霊どもめ、姿を見せぬか!」
大剣を地面に突き立てて片膝をつくトモエ。
その背後にある大納屋の分厚い扉の向こう側では、外のただならぬ気配を察したクルミとヴァイスたちが、凍える指先を必死に動かしながら、古代機兵のコアと哨戒艇の動力回路を繋ぐ最終作業に追われていた。
「……まだなの、ヴァイス!? 外でトモエたちが防いでくれてる間に、せめて主動力だけでも繋ぎきらないと……!」
「あ、あと数分でございますクルミ技師長! ですが、外にいるのはゼノン元帥直属の『ファントム・イェーガー』……帝国でも最も恐れられる暗殺工作の専門家たちです。一度標的を定めれば、決して正面からは打ち合わず、確実に獲物の腱と呼吸を削り取っていきます……!」
ヴァイスの震える声が示す通り、外での戦況は刻一刻と悪化していた。
敵は決して深追いをしない。霧の死角から消音銃と毒塗りの短剣を放っては、反撃の刃が届く前に再び白い闇へと溶け込んでいく。ルナの放つ牽制の魔導矢も、標的を捉える前に虚空で弾き落とされ、じわじわと防衛陣の輪が納屋の扉へと押し込められていく。
(……このままでは、ジリ貧です)
大納屋の右翼を守っていたカガリは、自身の頬をかすめた不可視の刃から一筋の赤い血が伝うのを感じながら、静かに息を吐き出した。
すぐ隣では、シノもまた二振りの小太刀を逆手に構え、霧の揺らぎを必死に追っている。
かつて、暗殺ギルドの底辺でただ「番号」で呼ばれ、使い捨ての駒として生きていた頃であれば、これほど圧倒的な格上の隠密部隊を前にした時、彼女たちの心はとうに折れていたはずだった。暗闇の中で誰にも知られず、冷たい土塊のように死んでいくことこそが、自分たちに定められた運命だと諦めていたからだ。
だが今は違う。
目を閉じれば、あの湯気の立つ広い台所で「ほら、冷めないうちに食えよ」と不器用に笑う主君の顔と、初めて与えられた自分の名前、そして温かい布団の感触が鮮明に蘇る。
あの光を、この温かい居場所を、顔も見えぬ侵略者の泥靴に踏みにじらせてたまるものか。
「……シノ。目を閉じなさい」
「……え、カガリ姉さん……?」
カガリは、あえて頼りにならない視覚を自ら遮断し、深い闇の中へと意識を沈めた。
昨夜、レオンが振る舞ってくれた『霜降り霊鳥』の焼き鳥と、今朝の『黄金親子丼』。あの神域の食事によって彼女たちの身体の奥底に蓄積されていた膨大な生命エネルギーが、極限の集中状態の中で、聴覚と皮膚感覚を人外の領域へと引き上げていく。
風が止む。
凍てつく氷霧の中を漂う無数の氷の結晶。それが何者かの「見えない外套」に触れて軌を変える、針の落ちるような微かな擦過音。
そして、冷え切った大気の中に混じる、敵が息を潜めた瞬間のわずかな『体温の揺らぎ』。
「――左斜め上、三歩先。そこにいますね」
カガリが目を見開いた瞬間、彼女の切れ長の瞳は、光学迷彩の向こう側にある暗殺者の輪郭を正確に捉えていた。
踏み込みと同時に放たれたカガリとシノの交差する黒刃が、何もないはずの虚空を深く切り裂く。
くぐもった呻き声とともに、鮮血が霧を赤く染め、光学迷彩が解除された帝国工作兵二名の身体が地面へと崩れ落ちた。
『なっ……!? 馬鹿な、ミラージュ・クロークの完全迷彩を、気配だけで見破っただと……!?』
霧の奥から、初めて敵の動揺した通信音声が漏れる。
しかし、一矢報いたカガリたちの背後――彼女たちが前方の敵に意識を集中させたその一瞬の隙を突き、工作部隊の隊長機を含む本命の別動隊が、音もなく屋敷の屋根伝いに大納屋の真上へと回り込んでいたのである。
カガリとシノが前方の二名を斬り伏せた、その直後だった。
頭上の大納屋の屋根から、重苦しい魔力の波長を帯びた数個の黒い円盤が、音もなく地面と壁面へと滑り落ちた。
それが何であるかを理解した瞬間、カガリの背筋が凍りつく。
屋根の縁に降り立った、ひときわ濃い陽炎の輪郭――『ファントム・イェーガー』の部隊長が、冷酷な手つきで起爆用の魔導刻印を起動させたのである。
『――見事な知覚だ、白山のメイドども。だが、貴様らの役目はここまでだ』
乾いた金属音とともに、大納屋の扉と、すぐ脇にある聖魔結晶の中央動力炉の基部に張り付いた黒い円盤――要塞破砕用の『高出力・魔導時限爆雷』の表面に、血のように赤い魔力紋様が浮かび上がった。
同時に、トモエやカガリたちの足元の地面に、あらかじめ撃ち込まれていた楔から青白い氷の呪縛陣が展開され、彼女たちの両足を凍りついた大地へと縫い止める。
「くっ……! 足が、動かぬ……!」
「あ、あれは対城郭用の魔導爆雷です……! 起爆すれば、この納屋も動力炉も、跡形もなく吹き飛んでしまいます……!」
扉の隙間から外の様子を窺っていたヴァイスが、絶望に染まった声を上げた。
爆雷の中心に灯った赤い光が、死の秒読みを刻むようにゆっくりと明滅を繰り返す。一拍ごとに、周囲の空気を震わせるほどの膨大な破壊エネルギーが円盤の内部へと収束していくのが肌で感じられた。
足を氷に封じられ、視界を奪う青白い霧の中で、ただ赤い破滅の光を見つめることしかできない。
トモエが奥歯を噛み締め、カガリが悔しさに唇から血を滲ませた、まさにその時であった。
異変は、頭上ではなく――彼女たちの『足の裏』から始まった。
凍りついて死んでいたはずの大地が、まるで巨大な心臓の鼓動を打つかのように、深く、力強く脈動したのである。
一拍遅れて、無明院の敷地を覆っていた氷の地表に無数の細かな亀裂が走り、その隙間から、目も眩むほどに美しい『黄金色の光と熱気』が噴き上がった。
「……え……? 地面が、温かい……!?」
ルナが驚きの声を漏らす間にも、地下千メートルの大源泉からレオンの真血によって蘇った神聖な温泉蒸気が、地脈の管を逆流して地表のあらゆる場所から間欠泉のように立ち昇った。
足元を縫い止めていた氷の呪縛陣が、下から突き上げる圧倒的な地熱によって一瞬で融解し、清らかな湯気となって宙へと霧散していく。
それだけではない。
これまで無明院を閉ざしていた青白い呪詛の氷霧が、大地から湧き上がる黄金色の熱風に押し流され、急激な温度差によって生じた『光の朝靄』が敷地全体を包み込んだのである。
『なっ……!? なんだこの黄金の湯気は!? ば、馬鹿な、ミラージュ・クロークの光学屈折が、神聖魔力を含んだ蒸気に乱反射して……!』
屋根の上の部隊長が、初めて狼狽に満ちた声を上げた。
光の粒子をたっぷりと含んだ黄金色の湯気が、空間に潜んでいた『ファントム・イェーガー』たちの外套にまとわりつき、不可視であったはずの二十八名の暗殺者たちの輪郭を、輝く光のシルエットとして白日の下に暴き出したのだ。
そして――裏山の源泉洞窟へと続く坂道の方角から、立ちこめる黄金の湯気を真っ二つに切り裂くような、苛烈で重厚な二つの足音が迫ってきた。
霧の向こうから姿を現したのは、ニコルを背負い、傷ついた左拳から赤い血を滴らせたレオンと、漆黒のメイド服に一切の乱れもなく並び立つオルハであった。
温かな黄金の蒸気を背に受けながら、レオンの切れ長の『三白眼』が、大納屋を取り囲む光の輪郭と、壁面に設置された赤い爆雷を冷たく射抜く。
「――おい、人の留守中にずいぶんと好き勝手やってくれたじゃねえか。俺の家族と家に手を出したからには、ただで帰れると思うなよ」
静かな、しかし山全体の空気を凍りつかせるほどの怒りを孕んだ神王の声が、黄金の霧が舞う戦場へと響き渡った。
――『白山神王正史・防衛記録(トモエ記)』より抜粋。
「深い氷霧の中で、姿なき刃に囲まれ、足元を凍りつかされたあの数分間は、我が人生において最も長く、冷たい時間であった。だが、守るべき家があるという事実だけが、我らの折れそうな膝を支えていたのだ。そして大地が黄金の熱を取り戻し、光の湯気の向こうからレオン殿とオルハ殿が姿を現した瞬間、我らは確信した――いかなる智将の策であろうと、この白山の絆を砕くことなどできぬのだと」
この記録は、のちに編纂された『大陸大戦史・白山防空戦篇』において、帝国最精鋭の隠密部隊『ファントム・イェーガー』が陥った最大の誤算として記述されている。光学迷彩という科学と魔導の粋を集めた不可視の衣も、地脈から噴き上がった神王の真血を含む黄金蒸気の前では無力化され、暗闇の狩人たちは逆に「光の中に浮かび上がる獲物」へと転落することとなったのである。




