第35話:黄金の逆襲
――『白山神王正史・防衛記録(カガリ記)』より抜粋。
「大地から黄金の湯気が立ち昇る中、帰還されたレオン様とオルハ様の御姿は、まさに冷たい闇を祓う戦神そのものでした。光の水滴によって輪郭を暴かれた帝国の暗殺部隊は、もはや狩人ではなく、檻の中の獲物に過ぎなかったのです。そして戦いの後、蘇った源泉の蒸気で蒸し上げられた温かい料理を囲んだあの短い休息こそが、翌日に迫る最終決戦を前にした、私たちにとってかけがえのない『嵐の前の静寂』となりました」
この記録は、のちに編纂された『大陸大戦史・白山防空戦篇』において、ゼノン元帥の「第二の刃」であった特殊工作部隊『ファントム・イェーガー』がいかにして壊滅したか、そして神王軍がいかにして極限の士気を回復させたかを伝える史料として引用されている。不可視の奇襲が光の下へ引きずり出されたこの瞬間、白山の攻防戦は局地戦から全面戦争へと大きく舵を切ることとなった。
白山から北へ数十キロ離れた、ガルドニア魔導帝国・北方軍前線総司令部。
薄暗い作戦室の中央で、青白く発光する立体魔導地図を見下ろしていたゼノン・フォン・ガルドニア元帥の眉が、わずかにピクリと動いた。
今まで山頂へ向かって順調に侵食を続けていた四本の『地脈凍結杭』の青い光が、突如として激しく明滅し、逆に山頂の中心部から溢れ出した『黄金色の巨大な熱源反応』によって、一瞬のうちに地図上から塗り潰されたのである。
「な、なんだこれは!? 元帥閣下、白山中枢の地下千メートルにて、計測不能なほどの莫大な熱エネルギーが爆発的に発生しました! 外周に打ち込んだ四基の地脈凍結杭が、逆流してきた高熱の地脈圧に耐えきれず、内部からすべて融解・破損していきます!」
計測盤の前で血相を変える参謀の悲鳴にも似た報告を聞きながら、ゼノンは手にしていた銀の懐中時計を静かに閉じた。
氷のように冷ややかなその双眸には、狼狽ではなく、むしろ未知の現象を前にした学者のような鋭い観察の色が宿っている。
(……地下千メートルの岩盤と、臨界凍結した三機の『フロスト・ワーム』の自爆を、わずか十数分で突破しただけでなく、死にかけた山の地脈そのものを以前以上の出力で再起動させた、か)
ゼノンは白手袋の指先を自らの顎に当て、冷徹な頭脳を高速で回転させた。
通常の魔導師や武人であれば、どれほど個人の戦闘力が傑出していようとも、大自然の摂理である地脈の流れや絶対零度の質量攻撃を覆すことは不可能だ。だが、白山の主はそれをやってのけた。
(つまり、あの山に潜む存在は、単なる『高レベルな武装集団』ではない。局所的な気象や地脈のエネルギー構造そのものに干渉し、書き換えることができる『戦略級・歩く聖遺物』と見るべきだな。……しかも、私が仕掛けた地下への誘引が『地上の屋敷を狙うための陽動』であることに気づき、最短時間で地上へ引き返した。野蛮なだけの怪物ではなく、戦場の駆け引きと急所を熟知した極めて狡猾な指揮官が向こうにもいるということか)
常人であれば恐怖に凍りつくような事実を前にしても、ゼノンの心拍数は一切乱れない。
彼にとって戦場とは巨大なチェス盤であり、計画の綻びは次の決定的な一手を導き出すためのデータに過ぎなかった。
「うろたえるな。第一段階の地脈凍結は、あくまで敵の主力を地下へ引きずり下ろすための『撒き餌』だ。すでに地上の屋敷には『ファントム・イェーガー』が浸透し、動力炉への爆雷設置を完了している頃合いよ。仮に怪物が今この瞬間に地上へ戻ったとしても、起爆のコンマ数秒には間に合わん」
ゼノンが静かに言い放った、まさにその同じ瞬間――。
白山の山頂、無明院の大納屋の前では、壁面と中央動力炉に張り付いた『高出力・魔導時限爆雷』の赤い紋様が、臨界起爆の最終段階へと達していた。
周囲の大気が高密度の魔力収束によってきつく軋み、屋根の上の工作部隊長が勝利を確信して口元を歪める。
だが、部隊長が瞬きをした次の刹那、裏山の坂道に立っていたはずのレオンの姿が、黄金色の湯気の中から忽然と掻き消えていた。
風を切る音すら置き去りにした、純粋なる身体能力の極致。
大納屋の扉の前に膝をついていたトモエの頬を、温かい突風が撫でた時には、レオンの黒剣の切っ先はすでに、壁面に吸着していた魔導爆雷の中心――起爆紋様の核である数ミリの魔力結晶だけを、まるで熟練の彫刻家がノミを入れるかのような精緻さで抉り出し、高い宙へと弾き飛ばしていたのである。
一拍遅れて、上空数十メートルの虚空で爆雷が起爆した。
本来であれば大納屋を木っ端微塵に吹き飛ばしていたはずの灼熱の爆風と衝撃波が、地上へ向かって降り注ぐ。しかし、レオンが傷ついた左拳を天へとかざした瞬間、彼の掌から溢れ出た黄金色の『真血の覇気』が、見えない巨大な傘となって屋敷の上空を覆い尽くし、破壊の奔流を穏やかな春風へと変えて霧散させた。
『……ば、化け物め……! 臨界に達した対城郭爆雷の核を、起爆の瞬間に切り離して空へ投げただと……!?』
屋根の上の部隊長が、信じがたい光景に呼吸を忘れる。
そして地上では、黄金の湯気によって輪郭を完全に暴かれた二十八名の『ファントム・イェーガー』たちへ、呪縛から解き放たれた無明院の守護者たちの刃が迫っていた。
「――レオンくんが戻るまで持ちこたえたみんなに、よくも冷たい思いをさせてくれましたね。さあ、カガリちゃん、シノちゃん。お掃除の時間ですわよ」
普段の柔和な微笑みの奥に、底知れぬ暗殺者の凄みを宿したオルハの声が響く。
光の水滴が舞う美しい朝靄の中、狩る者と狩られる者の立場が完全に逆転した、静かなる蹂躙の幕が上がったのだった。
黄金色の湯気が立ちこめる無明院の庭は、もはや戦場ではなく、一方的な『狩場』へと変貌していた。
神聖な魔力を含んだ細かい水滴が、光学迷彩外衣の表面にびっしりと付着し、光を乱反射して暗殺者たちの輪郭を克明に浮かび上がらせる。不可視の優位を失った『ファントム・イェーガー』の隊員たちが、慌てて実体剣や消音魔導銃を構え直そうとした時には、すでに彼らの懐には漆黒の影が滑り込んでいた。
「――私たちの大切な庭を、これ以上汚さないでくださいね」
オルハの静かな声が耳元を掠めた瞬間、前衛にいた四名の工作兵の武器が、目にもとまらぬダガーの連撃によって同時に宙へと跳ね飛ばされた。
殺すための刃ではない。相手の鎧の継ぎ目と神経の節だけを正確に突き、意識だけを瞬時に刈り取る、暗殺ギルド最高幹部による神業のごとき無力化であった。
さらにその左右からは、氷の呪縛から解き放たれたカガリとシノ、そしてトモエとルナが、鬱憤を晴らすかのように黄金の霧の中を疾駆する。
「先ほどまでは、よくも霧の中から好き勝手に射掛けてくれたな! 我が剣の重み、その骨身に味わうがよい!」
トモエが振り抜いた大剣の峰が、逃げ遅れた工作兵たちの胴を薙ぎ払い、衝撃だけで数名をまとめて気絶させる。カガリとシノもまた、光の中に浮かぶ敵の影を縫うように駆け抜け、音もなく背後から首筋へと手刀を叩き込んでいった。
わずか数十秒。
大納屋の屋根の上からその光景を見下ろしていた工作部隊長は、ヘルメットの奥で激しく瞳孔を揺らし、全身が粟立つような恐怖に支配されていた。
(……な、なんだこの屋敷の連中は……!? 誰一人として、ただの従者や農민の動きではない! 我々『ファントム・イェーガー』は、帝国の数ある特殊部隊の中でも選りすぐりの精鋭のはずだぞ……! それを、まるで赤子の手をひねるかのように、誰一人殺すことさえせず無傷で制圧していくだと……!?)
冷たい汗が部隊長の背筋を伝い落ちる。
ここにいるメイドや剣士の一人ひとりが、帝国の中央近衛師団長に匹敵するほどの異常な身体能力と魔力練度を有している。そして何より恐ろしいのは、大納屋の前で静かに黒剣を提げている、あの切れ長の『三白眼』をした青年だ。
部隊長が即座に撤退を決断し、屋根の縁を蹴って吹雪の外壁へと跳ぼうとした、まさにその瞬間であった。
目の前の黄金の湯気がふわりと揺らぎ、いつの間にか屋根の上に音もなく降り立っていたレオンの黒剣の平が、部隊長の鎖骨へと吸い込まれるように密着していた。
「――おい、どこへ行く気だ。人がせっかくお湯を沸かし直してやったんだ、少しは温まっていけよ」
低く落ち着いた声とともに、黒剣から伝わったわずかな衝撃が部隊長の全身の神経を駆け抜け、彼は呻き声すら上げられずに屋根の上へと崩れ落ちた。
だが、部隊長の意識が闇に落ちる直前――彼の胸元の装甲内部に組み込まれていた『生体連動・最終通信結晶』が、術者の敗北を検知して自動的に砕け散り、これまでに観測された無明院の異常な魔力波形と「第二段階・完全失敗」の暗号信号を、目に見えぬ魔導通信波として北方の空へと放ったのである。
「……チッ、胸のところで何か小さな魔道具が砕けたな。親玉に連絡が行っちまったか」
レオンは気絶した部隊長の襟首を掴んで地上へと降り立つと、そのまま黒剣を鞘へと収めた。
そして、すぐに険しい表情を解き、大納屋の前で荒い息をついているトモエやカガリたちへと駆け寄った。
「おいトモエ、カガリ、シノ、ルナ! それに納屋の中のクルミたちも、みんな怪我はねえか!?」
いつも通りの、飾り気のない温かい主君の声。
その言葉を聞いた瞬間、気丈に大剣を支えにして立っていたトモエの肩からスッと力が抜け、カガリとシノの切れ長の瞳から、張り詰めていた緊張の糸が切れたように透明な雫がこぼれ落ちた。
「……も、申し訳ございませぬ、レオン様……! 留守を預かりながら、納屋のすぐ前まで敵の侵入を許してしまいました……!」
「バカ言え、あんな透明で匂いも消したプロ相手に、誰一人欠けることなく俺たちが戻るまで持ちこたえてくれたじゃねえか。お前たちが踏ん張ってくれたおかげで、無明院も畑も全部無事だ。――本当によく守ってくれたな、ありがとう」
レオンが傷ついた左手を隠すようにしながら、右手でカガリとトモエの頭を順番にポンポンと優しく撫でる。
その大きな手のひらの温もりに、凍える霧の中で死を覚悟していた少女たちの胸の奥が、熱い湯に浸かったかのようにじんわりと満たされていった。
無明院の庭の一角、地脈の亀裂から噴き出す黄金色の蒸気を利用した即席の蒸し釜から、湯気が立ち昇っていた。
竹籠の中に並べられたのは、凍りついた畑から掘り起こしたばかりの白山大根や甘玉キャベツ、そして霜降り霊鳥の肉と特大卵。レオンの真血を含んだ高熱の源泉蒸気は、わずか数分で食材の芯まで熱を通し、甘い香りを漂わせていた。
「ほら、みんな手が冷え切ってるだろ。熱い『白山地獄蒸し』だ、冷めないうちに食って体力をつけとけよ」
レオンが湯気の立つ温野菜と蒸し鶏を皿に取り分け、仲間たちへと配っていく。
口に含めば、源泉のミネラルと凝縮された野菜の甘みがじんわりと広がり、凍えていた五臓六腑を内側から温めていく。カガリやトモエたちの浅い傷はみるみるうちに塞がり、消耗していた魔力も急速に回復していった。
だが、いつもなら歓声と笑顔が溢れるはずの食卓に、今日ばかりは重い沈黙が落ちていた。
誰もが無言で箸を動かしながら、ちらりとレオンの左手――白い布が巻かれ、うっすらと赤い血が滲んでいるその手のひらと、ドームのはるか北方に広がる鉛色の空へと視線を走らせていた。
「……レオンくん。痛みますか?」
オルハが静かに寄り添い、レオンの左手にそっと指先を添える。
「いや、かすり傷だ。それより……あいつらが最後に飛ばした通信が気になあ」
レオンは蒸し上げたばかりの温泉卵を割りながら、北の空を険しい『三白眼』で見据えた。
大納屋から出てきたクルミやヴァイスたちもまた、温かいキャベツを口に運びながら、拭いきれない焦燥感を顔に滲ませている。
「……おそらく、工作部隊長の生体通信機を通じて、私たちの戦力データと『第二段階の失敗』がゼノン元帥の本陣へ届いています。あの男は、一度自分の計算が狂ったと知れば、プライドや体裁などすべてかなぐり捨てて、確実に相手を圧殺する最終手段へと切り替えるはずです……」
ヴァイスの震える声が、温かい湯気の向こうで冷たく響いた。
――その言葉通り。
白山から北へ数十キロ離れた、帝国北方軍・前線総司令部の作戦室は、氷点下の雪原よりも冷え切った異様な静寂に包まれていた。
中央の立体魔導地図の上で、『ファントム・イェーガー』全三十名の生体反応を示す光点が、一斉に消失した直後である。
参謀や通信兵たちが恐怖に顔を引きつらせ、息を潜めて中央の玉座を見つめていた。
そこでは、ゼノン・フォン・ガルドニア元帥が、微動だにせず地図の空白を見つめていた。
彼の白手袋に包まれた指先が、肘掛けの角を、骨が軋むほど強く握りしめている。
(……消えた、だと? 私が手塩にかけて育て上げた、帝国最精鋭の不可視の刃が、動力炉一つ破壊することなく、わずか一分足らずで全滅したというのか……!)
ゼノンの脳内で、これまで築き上げてきた完璧な戦術理論が、音を立てて崩れ落ちていく。
同時に、彼の胸の奥底から湧き上がってきたのは、恐怖ではない――自らの知略が二度までも正面から踏み躙られたことへの屈辱と、軍人としての『絶対的な崖っぷち』に立たされたことによる、狂気にも似た異常なまでの集中力であった。
この白山攻略は、皇帝陛下の勅命を受けた北方軍の威信そのものだ。すでに機甲部隊、高速哨戒艇、特殊工兵、そして『ファントム・イェーガー』を立て続けに失った今、もしここで撤退という選択肢を選べば、ゼノン自身の首が飛ぶどころか、北方軍の歴史に永遠に拭えぬ汚点が刻まれる。
もはや、後はない。退路は完全に断たれたのだ。
(……いいだろう、白山の怪物よ。貴様らがどれほど個人の武勇に優れ、地脈を操る奇跡を持とうとも、しょせんは一つの山の頂に籠もるだけの『点』の存在だ)
ゼノンの氷のような瞳の奥で、血管が赤く浮き上がり、瞳孔が極限まで見開かれた。
もはや捕獲や施設の無傷での接収など、どうでもいい。聖遺物も、神王の遺骸も、あの忌々しい温室ごと、白山という山そのものをこの世界の地図から消し去ればいいのだ。
「――全軍に通達せよ」
静まり返った作戦室に、ゼノンの低く、しかし一切の迷いを断ち切った声が響き渡った。
「これより『三重窒息作戦』を最終段階――いや、『白山完全焦土作戦』へと切り替える。待機中の『重装・魔導飛空艇団』全三十隻、ならびに地上包囲網の全砲兵師団に告ぐ。通常の降下作戦はすべて中止だ」
「げ、元帥閣下!? では、いかがなさるおつもりで……!?」
「空を埋め尽くす三千機の『無人自爆魔導機』を全機同時に投下し、連中の対空砲と結界の魔力を物理的に飽和・パンクさせる。そしてその直後――高度一万メートルの成層圏に展開させた旗艦『神殺しの箱舟』より、戦略級質量破壊兵器『氷獄の隕石』を最大出力で直撃させる!」
参謀たちが一斉に息を呑んだ。
それは、一つの都市、一つの霊峰を根元から蒸発させる、帝国が封印してきた事実上の最終殲滅兵器であった。
「一兵たりとも地上に降りるな。相手の土俵で戦うから計算が狂うのだ。――圧倒的な鉄と魔力の質量で、空の上から一方的に踏み潰す。直ちに全艦、抜錨せよ!!」
氷獄の智将が退路を断ち、極限の集中状態の中で下した、冷酷無比なる大量破壊の決断。
その号令とともに、北方の雪原を埋め尽くしていた三十隻の黒鉄の巨大空中要塞が、重苦しい魔導エンジンの咆哮を上げながら、夕暮れの鉛色の空へと一斉に浮上を開始した。
そして、無明院で束の間の温かい食事を終えようとしていたレオンたちの頭上――北の地平線の彼方が、まるで夜が早まったかのように、不気味な『黒鉄の雲』によって黒く塗り潰され始めていたのだった。
――『ガルドニア魔導帝国・北方軍最高司令部・全軍出撃命令書』より抜粋。
「地脈凍結および『ファントム・イェーガー』による潜入工作は、白山の怪物どもの前にすべて水泡に帰した。もはや小手先の奇策や戦力の逐次投入は無意味である。――これより北方軍は、旗艦『神殺しの箱舟』を含む重装・魔導飛空艇団全三十隻の全戦力を投入し、高度一万メートルからの飽和質量攻撃をもって、白山を地図上から物理的に消滅させる」
この命令書は、のちに編纂された『大陸大戦史・白山防空戦篇』において、帝国随一の智将・ゼノン元帥が「合理性の極致」として辿り着いた最も恐るべき決断として記録されている。神王軍の局地戦闘力が常識を逸脱していると見抜いたゼノンは、プライドを捨てて一切の接近戦を拒否し、圧倒的な物量と超高度戦略兵器による一方的な焦土作戦へと踏み切ったのである。温かい蒸気の料理を囲みながらも、北の空を覆い始めた不気味な黒雲を見上げた白山の面々は、ついに訪れた最大の試練を前に、静かに武器を握り直すこととなった。




