第32話:凍てつく地脈
――『ガルドニア魔導帝国・北方軍特殊工兵部隊・極秘作戦指令書』より抜粋。
「外周四箇所の『地脈凍結杭』による熱吸収と並行し、地底掘削魔導機『フロスト・ワーム』を白山の中枢源泉へと直行させる。目標は、山頂へ熱を送る主脈の完全凍結および物理的破壊である。――なお、この地脈凍結の本質は、単なるインフラの破壊ではない。白山の主たる怪物を『地下深層の源泉』へと誘い出し、地上の防衛陣と完全に分断して氷の棺に生き埋めにすることにある。地上の砲台も、地下千メートルの岩盤の下ではただの鉄屑に過ぎない」
この指令書は、のちに編纂された『大陸大戦史・白山防空戦篇』において、ゼノン元帥がいかに周到かつ冷酷に白山の戦力を分断しようとしていたかを示す史料として引用されている。正面からの戦闘を徹底して避け、無明院の生命線である地脈を人質に取って神王レオンを本拠地から引きずり出すというこの狡猾な罠は、平和であった白山をかつてない窮地へと追い詰めていくこととなった。
――ピシッ……ミシミシミシッ……!
無明院の裏庭を覆う『白山神域ドーム』の内部に、透明な結界壁が軋む不吉な音が響き渡った。
大地から滲み出したあの青白い霧は、わずか数十分のうちに人間の膝の高さまで達し、畑の黒土を白く硬い霜柱へと変え始めていた。
「……ダメね、聖魔結晶の出力を最大まで上げても、ドーム内の温度低下が止まらないわ!」
中央制御盤の前にしゃがみ込んでいたクルミが、唇を噛み締めながら悔しげに声を上げた。
彼女のゴーグルに映し出されている熱量グラフは、危険域を示す赤いラインを割り込み、なおも急角度で落下し続けている。
「クルミ技師長、外周の『地脈凍結杭』を直接破壊しに行くことはできないのですか!?」
「無理よ、ヴァイス! ゼノンの奴、白山の裾野の四方に、吹雪に紛れた重装狙撃部隊と魔導地雷原を幾重にも張り巡らせてるわ! 今から山を降りて四箇所すべての杭を抜こうとすれば、途中で吹雪と十字砲火に晒されて全滅するし、そもそもそんな時間をかけていたら――あと二時間足らずでこの山の中枢地脈が完全に死ぬわよ!」
クルミの悲痛な言葉に、居合わせたトモエやルナ、そして元・帝国兵たちの顔に焦燥の色が浮かぶ。
極寒の霊峰・白山において、地脈の熱と結界ドームを失うということは、すなわち無明院の住人すべてが氷点下三十度の猛吹雪に晒され、凍死することを意味していた。
(……おいおい、冗談じゃねえぞ。せっかく手に入れた俺の安全な引きこもり拠点が、このままじゃ巨大な冷凍庫になっちまう……!)
レオンの額にも、かつてない冷や汗が滲んでいた。
相手はこれまでのように、目の前にノコノコと現れてくれる猪突猛進の敵ではない。姿を見せず、はるか遠くの安全圏からこちらの生命線だけを的確に締め上げてくる、恐ろしく計算高い知略の持ち主だ。
「……レオンくん。この青白い霧、裏山の『源泉洞窟』の方角から一番濃く流れてきていますわ」
隣に立つオルハが、普段のおっとりとした微笑みを完全に消し去り、暗殺者時代の鋭利な『三白眼』で裏山の斜面を見据えた。
「外周の杭を抜く時間がないのなら、私たちが直接地下の『大源泉』まで潜って、地脈を塞いでいる氷の根源を断ち切るしかありませんね」
「う、うむ! ならば我も同行するぞ、レオン殿!」
大剣に手をかけたトモエが一歩前に出る。
だが、レオンは静かに首を横に振ってそれを制した。
「いや、トモエとルナ、それにカガリたちはここに残れ」
「なっ……なぜだ!? 地下に敵の罠があるかもしれぬのだぞ!」
「だからこそだ。いいか、ここまで綿密に俺たちの弱点を突いてくる敵の親玉が、『地脈を凍らせるだけ』で終わるはずがねえ。俺たちが地下の源泉に気を取られた隙に、地上の無明院へ別動隊を送り込んでくる可能性が高い」
元・暗殺ギルドの底辺として、数々の汚い陽動作戦や騙し討ちを生き延びてきたレオンの『生存本能(危機察知能力)』が、警鐘を鳴らしていた。
「クルミたちが納屋で進めてる作業と、この屋敷を守る人間が絶対に必要だ。地下の源泉へは、昔からこの山の抜け道を知り尽くしているニコルを案内役にして、俺とオルハ先輩の三人だけで最小限かつ最速で向かう」
いつもはお気楽なレオンが放った、冷静で有無を言わせぬ声音。
その真剣な眼差しに、トモエたちはゴクリと息を呑み、「……わかった。地上は我々が命に代えても守り抜こう!」と力強く頷いた。
「行きましょう、レオン様、オルハ様。源泉洞窟の入り口は、すでに氷の瘴気で塞がりかけています……!」
防寒具を身にまとったニコルの先導のもと、レオンとオルハは青白い霧が渦巻く裏山の岩肌――地の底へと続く暗い洞窟の入り口へと足を踏み入れたのだった。
裏山の中腹に口を開けた『源泉洞窟』へと足を踏み入れた瞬間、皮膚を刺すような異質な冷気が三人の全身を包み込んだ。
本来であれば、ここは地中から湧き上がる高熱の蒸気で常に満たされ、冬場でも汗ばむほどの熱気がこもっているはずの場所である。
だが今、洞窟の天井や岩壁は、内側から青白い光を放つ無数の『氷の結晶』によってビッシリと覆い尽くされ、まるで巨大な氷棲生物の食道に迷い込んだかのような不気味な光景へと変貌していた。
「……くっ、なんて冷たい空気なの……! レオン様、この壁の青い氷に近づいてはいけません! 触れているわけでもないのに、肌から直接、体温と魔力を吸い取られていくようです……!」
先頭を歩いていたニコルが、白い息を吐きながら肩を震わせた。
足元を這う青白い霧は地下へ降りるほどに濃度を増し、通常の松明や魔導ランプの光すら、霧に飲み込まれて数メートル先までしか届かない。
「……ただの氷じゃねえな。呼吸するたびに、肺の奥まで鉛みたいに重くなる。外から打ち込まれたっていう『地脈凍結杭』が、この山の熱だけじゃなく、生命力そのものを枯らす呪いみてえな波長を流し込んでやがるんだ」
レオンは厳しい表情で周囲を警戒しながら、隣を歩くオルハと、前を行くニコルの手首をそれぞれの手でギュッと掴んだ。
「ニコル、オルハ先輩。はぐれたら終わりだ、俺から離れるなよ」
「あっ……レオン様の手、すごく温かい……」
「ふふっ、本当ですね。まるでレオンくんの身体そのものが、小さな太陽みたいですわ」
レオンの手のひらから、無自覚のうちに『神王の真血』の熱量と浄化魔力が二人へと流れ込み、凍えかけていたニコルとオルハの指先に血色が戻る。さらにレオンが踏みしめた足元の青白い氷だけが「ジュワッ……」と音を立てて溶け、わずかな湯気を立ち昇らせた。
しかし、それほどの神聖エネルギーをもってしても、洞窟全体を侵食し続ける圧倒的な凍結の進行を止めることはできない。
地下五百メートル、八百メートルと螺旋状の岩道を深く降りていくにつれ、壁の氷は鋼鉄以上の硬度を増し、三人の背後では通り過ぎたばかりの通路が「ミシミシミシッ……!」と再び分厚い氷で塞がり始めていた。
(……やべえな。これ、帰りの道までどんどん凍りついて狭くなってるぞ。長居したら完全に閉じ込められる……!)
暗殺者としての勘が、一刻の猶予もないことを告げていた。
やがて地下千メートルの最深部――白山すべての温泉の大元である『大源泉の間』へと続く最後の岩門が見えてきた、その時だった。
――ゴゴゴゴゴゴッ……! ギギギギギギィッ……!!
地の底の奥深くから、分厚い岩盤を無理やり削り取り、噛み砕くような耳障りな金属音が、洞窟全体の空気をビリビリと震わせて響き渡ったのである。
「……っ! 止まれ!」
レオンが鋭く声を潜め、二人を背後に庇いながら岩陰へと身を隠した。
そのすぐ目の前、大源泉の間から流れ出てくるはずの温泉の川が、根元から真っ青な氷の奔流となって凍りつき、完全に動きを止めている。
そして、青白い濃霧が渦巻く大源泉の空間の奥で、複数の『赤い機械の単眼』が、ギョロリと暗闇の中で光を放った。
「……誰かいるどころじゃねえな。オルハ先輩、あれを見ろ」
「ええ……私たちの大切な源泉を荒らしている、ずいぶんとタチの悪い先客のようですね」
レオンとオルハの切れ長の『三白眼』が、濃霧の向こうにうごめく異形のシルエットを捉えたのだった。
レオンたちが岩門の陰から足を踏み入れた『大源泉の間』は、もはやかつての面影を完全に失っていた。
直径五十メートルはあろうかという巨大な地下空洞。本来であれば、その中央にある底なしの噴気孔から、白山全体を潤す灼熱の霊泉が絶え間なく吹き上がっているはずの場所である。
だが今、その噴気孔は巨大な青い氷塊によって完全に蓋をされ、空洞の壁面を突き破って侵入してきた『三体の異形の鋼鉄怪物』が、氷塊の周囲に太い金属の管を突き刺していた。
「……なっ、なんだあれは……!?」
ニコルが息を呑んで後ずさる。
青白い濃霧の奥で蠢いていたのは、全長二十メートルを超える鋼鉄の百足のような魔導機械――ガルドニア魔導帝国が対要塞地下攻撃用に開発した、無人地底掘削魔導機『フロスト・ワーム』であった。
その先端に備わった巨大な超硬ドリルの刃が、源泉の岩盤を無慈悲に噛み砕き、腹部から伸びた冷却パイプが、外周の『地脈凍結杭』から送られてくる絶対零度の呪詛エネルギーを、白山の心臓部である大源泉へと直接流し込んでいるのである。
「……なるほどな。外からじわじわ冷やしてるだけじゃなく、地下から直接ドリルで穴を開けて、俺たちの温泉の大元に氷を流し込んでやがったのか……!」
レオンの低い声に、隣に立つオルハがロングメイド服の裾から二振りの暗殺用ダガーを音もなく抜き放った。
「レオンくん、あの機械が源泉に突き刺しているパイプを斬り落とせば、お湯の流れを取り戻せるかもしれません。私が右の二体を引きつけますから、レオンくんは中央の――」
オルハが地面を蹴ろうとした、まさにその刹那だった。
――ピピピピッ……ガキィィィンッ!!
三体の『フロスト・ワーム』の頭部に備わった赤い単眼が、同時に不気味な警告音を鳴らしてレオンたちの姿を捉えた。
次の瞬間、機械の内部に組み込まれていた通信スピーカーから、ノイズ混じりの冷徹な男の声――北方軍総司令官・ゼノン元帥の録音音声が、氷の地下空洞に響き渡ったのである。
『――ようこそ、白山の主よ。わざわざ地下千メートルの墓穴まで降りてきてくれたことを歓迎する』
「……っ!? 罠だ、下がれ二人とも!!」
レオンが直感的に叫び、オルハとニコルの身体を両腕で抱き寄せて後方へ跳んだ。
ほぼ同時に、三体の『フロスト・ワーム』が源泉の破壊を中断し、その巨大なドリル状の顎を、レオンたちではなく――彼らが通ってきた『唯一の出口である岩門』と『空洞の天井』へ向けて一斉に跳ね上げたのだ!
『貴様らが地上の温室と熱源を守るために、必ず少人数でこの大源泉へ降りてくることは計算済みだ。いかに神話級の武力を持とうとも、地下千メートルの岩盤と絶対零度の氷塊に押し潰されれば、地上へ戻る術はない。――『フロスト・ワーム』全機、魔導炉心を臨界凍結させ、自爆崩落シークエンスを実行せよ』
――ブオオオオオォォォンッ!!
三体の掘削機の装甲が青白く発光し、その口から暴風のような『絶対零度の凍結ブレス』が、出口の岩門と天井へ向かって最大出力で噴射された!
「くそっ、出口を塞いでここごと生き埋めにする気か!!」
――ズガアアアアアアアッ!! メキメキメキィッ!!
レオンたちが駆け抜けるよりも早く、唯一の退路であった岩門が厚さ十メートルを超える青白い魔導氷壁によって完全に封鎖された。
さらに、絶対零度の直撃を受けて脆く凍りついた天井の巨大岩盤と無数の氷柱が、地鳴りのような轟音を立ててレオンたちの頭上へと一斉に崩れ落ちてくる!
「きゃあああああっ!!」
「レオンくんっ!!」
轟音とともに崩落する地下千メートルの氷の天井。
さらには、外部との魔力通信すら完全に遮断する氷の密室の中で、自爆覚悟の暴走モードに入った三体の巨大掘削機が、ドリルを高速回転させながらレオンたちへと突進を開始したのだった。
――『白山神王正史・地底戦記(ニコル記)』より抜粋。
「あの時の源泉洞窟は、まるであの世の氷地獄のように青白く凍りついていました。ゼノン元帥の冷酷な声が響いた直後、唯一の退路は分厚い氷の壁で完全に塞がれ、頭上からは巨大な氷の岩盤が降り注ぎ、さらには暴走した三体の鋼鉄の怪物が私たちを押し潰そうと迫ってきたのです。地上との連絡も絶たれた地下千メートルの密室――それは間違いなく、白山が迎えた最初の絶体絶命の危機でした」
この記録は、のちに編纂された『大陸大戦史・白山防空戦篇』において、ゼノン元帥の『白山・三重窒息作戦』がいかに完璧な計算のもとに構築されていたかを物語る史料として引用されている。地上の防衛戦力を二分した上で、最高戦力であるレオンとオルハを地下深層に閉じ込め、その隙に手薄となった地上の無明院へ「第二の刃」を突き立てる――氷獄の智将が描いた冷徹な必殺のシナリオは、寸分の狂いもなく進行していたのである。




