第20話:枢機卿の憂い
――『天陽教・最高枢機卿ローレンツの遺書(のちに破棄)』より抜粋。
太陽神殿騎士団のトモエ、聖女マリエット様に続き、暗部筆頭のニコルまでが白山で消息を絶った。
もはや疑う余地はない。白山の『神王』は、近づく者すべての心身を掌握する神話級の魔王だ。バルバロス教祖様の無茶振りで私が直接乗り込むことになったが、もはや生きて帰れるとは思えない。せめて、愛用の胃薬だけは多めに持参しよう。
(のちの歴史家は、死を覚悟して白山へ登ったローレンツが、わずか数時間後にツヤツヤの笑顔で下山し、無明院へ大量の高級大理石と寄付金を送り届けた歴史的転換点を『白山の奇跡(または胃痛からの解放)』と呼び称えた)
「……総員、決して気を抜くな。一歩踏み出せば、そこはかの『神王』が支配する魔境だと思え……っ!」
白山の険しい山道。天陽教の最高枢機卿ローレンツは、きりきりと痛む胃袋を片手で押さえながら、後方に控える精鋭・太陽神殿騎士団に険しい声で檄を飛ばした。
トモエ、聖女マリエット、そして暗部筆頭のニコル。教団が誇る最高戦力が次々とこの山へ吸い込まれ、誰一人として帰ってこない。バルバロス教祖のヒステリックな命令で直接乗り込むことになったものの、ローレンツの心はすでに葬式会場のような悲壮感に包まれていた。
「枢機卿様、前方の山道、妙に不自然な落ち葉の積もり方をしております。罠の気配がしますゆえ、我々が端を迂回して先導を――」
「いや、待て! 相手はあのトモエやニコルの裏をかいた知略の化け物だぞ!『端を迂回させること』こそが敵の誘導罠に違いない! あえてど真ん中を堂々と突破するのだ!」
裏の裏を読みすぎたローレンツが、自信満々に山道のど真ん中へと足を踏み出した――その瞬間だった。
――バシュッ! シュルルルルッ!!
「なっ……!? ぐわああああっ!?」
落ち葉の下に隠されていたワイヤーが弾け、ローレンツの足首に縄が絡みついたかと思うと、最高枢機卿の威厳ある身体が真っ逆さまに宙へと吊り上げられた。
レオンが「最近の猪は賢いからな、道の真ん中に仕掛けとくか」と作った、ごく普通の『対イノシシ用くくり罠』である。
「ろ、ローレンツ様ぁぁっ!?」
「くっ、なんてことだ……! 我々騎士団には一切反応せず、最高指揮官である枢機卿様だけをピンポイントで狙い撃つ『魔力識別型・自動迎撃トラップ』だと……!?」
慌てて縄を斬り、地面に落ちてきたローレンツを起こす騎士たち。
頭から落ち葉まみれになったローレンツは、さらに数歩進んだところで、今度はトモエが筋トレのついでに掘った『ただの落とし穴』に一人で綺麗に吸い込まれ、這い上がった直後に、シノがカラス除けに仕掛けていた『顔面に小麦粉が炸裂する鳴子罠』に顔面から突っ込んだ。
――ボフゥッ!!
「げほっ、ごほっ……! お、恐るべき空間支配力だ……っ!」
全身真っ白になり、ボロボロの法衣で肩で息をするローレンツ。
ただ運悪くレオンたちの雑な日常トラップを一人で全部踏み抜いただけなのだが、彼の脳内ではすでに恐ろしい深読みが完成していた。
(周囲の騎士たちには傷一つつけず、指揮官である私の『威厳』と『精神力』だけを的確に削り取る精神攻撃型トラップの連続……! なんという陰湿かつ高度な心理戦術だ! これが白山の神王のやり方か……!)
胃の激痛と真っ白な顔でガタガタと震えながら、ローレンツたちがようやく無明院の山門前へと辿り着いた、その時だった。
「――あらあら、どこの雪だるまかと思えば、ローレンツ様ではありませんか♪」
山門の奥から、聞き覚えのある軽やかな声が響いた。
ローレンツがバッと顔を上げると、そこには純白の修道服の上に『泥のついた農作業用のもんぺ』を履き、肩に鋭いクワを担いだ暗部筆頭・ニコルの姿があった。しかも、聖都にいた頃の病的な青白さが消え、肌はツヤツヤと桃色に輝いている。
「に、ニコル! 生きていたのか! ……って、なんだその格好は!?」
「ふふっ、見ての通り、神王様とマリエット様の『愛の巣』で畑を耕す毎日ですよ。それよりローレンツ様、そんな大勢の害虫(騎士)を連れて、お二人の神聖なイチャイチャを邪魔しにいらしたのですか? ――なんでしたら、今すぐ全員まとめて畑の肥料にしてさしあげますけど♪」
ニッコリと天使の笑顔を浮かべ、クワからドス黒い殺気を放つニコル。
さらにその背後から、エプロン姿のマリエットと、大剣を担いだトモエまでが笑顔で姿を現した。
「まぁ、ローレンツ枢機卿! あなたもレオン様の素晴らしき御業に改宗しにいらしたのですね!」
「うむ、今なら裏山の岩割り修行に混ぜてやるぞ、ローレンツ殿!」
完全に目がハートになっている聖女と、晴れやかな顔の女騎士、そしてクワを構える元・処刑人。
教団のトップエリートたちが一人残らず「農村モード」で神王を崇めている異常極まりない光景を前に、粉まみれのローレンツは「ひ、ひぃぃ……全員、脳の髄まで完全に洗脳されておる……!!」と、五粒目の胃薬を口に放り込むのだった。
「……し、静まれ、総員! むやみに動くな……っ!」
全身小麦粉まみれでボロボロになったローレンツは、冷や汗を滝のように流しながら、背後の太陽神殿騎士団を必死に制止した。
彼の視線の先――ニコルたちの背後にそびえ立つボロ寺『無明院』から、信じがたいほど重苦しく、そして凶悪なプレッシャーが放たれていたからである。
「くっ……なんという禍々しい魔力反応だ! 外見はただの朽ちかけた古寺だというのに、地下の奥深くから、まるで古代の魔導要塞が脈打っているかのような威圧感を感じるぞ……!」
ローレンツの勘は、ある意味で完全に正しかった。
クルミが地下の古代炉を本堂の床暖房や給湯管に直結させ、さらにシノが「防犯用です」と過剰な迎撃術式を編み込んだ結果、現在の無明院は『うっかり敵意を持って敷居を跨いだら、全自動で塵も残さず消し炭にされる超ハイ테크・ステルス要塞』へと魔改造されていたのである。
屋根の上では、魔導レンチを担いだクルミと、暗器を構えたシノ、そしてバシリカ本家の王女であるルナまでが冷ややかな目でこちらを見下ろしている。
一歩でも踏み込めば、騎士団ごと一瞬でミンチにされる――ローレンツが絶望の淵で奥歯を噛み締めた、その時だった。
「――おいおい、朝から山門の前で何を騒いで……って、うわあああっ!?」
本堂の奥から、呑気に欠伸をしながら出てきたレオンが、山門の前にズラリと並んだ重武装の聖堂騎士団と、その先頭に立つ豪華な法衣(ただし粉まみれ)のローレンツを見て、その場で飛び上がった。
(ひ、ひぃぃぃっ!? ガチの軍隊が来てるじゃねえか! しかもあの先頭にいる偉そうなおっさん、どう見ても天陽教の超お偉いさんだろ! なんで顔が真っ白なんだよ、死化粧でもしてんのか!? 怖すぎるだろぉぉっ!!)
ローレンツが小麦粉トラップに引っかかっただけだとは知らないレオンは、相手が『決死の白塗りメイク』で討伐に乗り込んできたのだと大誤解し、顔面蒼白でパニックに陥った。
(やばい、やばいぞ! トモエにマリエット、昨日の暗殺者の子までうちに居座ってるから、完全に『誘拐犯』として本気の討伐軍を差し向けられたんだ! こんな大軍相手にハッタリなんざ通用しねえ! こうなったら、素直に全部謝って見逃してもらうしかねぇっ!)
死にたくない一心で腹を決めたレオンは、武器を一切持たず、両手を上げて丸腰のアピールをしながら、ガタガタと震える足でローレンツの目の前へと歩み出た。
「ひっ……! し、神王自ら出てきおったぞ……! 構えろ、どんな恐ろしい呪術が飛んでくるか分からんぞ……!」
騎士団がゴクリと唾を飲み、極限の緊張が張り詰める中――。
レオンはローレンツの目の前でピタリと立ち止まると、勢いよく頭をガバッと下げた。
「あ、あんたが天陽教の偉い人だな! 悪かった、俺はあんたたちと争う気はこれっぽっちも無いんだ!!」
「……なっ!?」
予想外の行動と怒号に、ローレンツが目を丸くして息を呑む。
レオンは必死のパッチで、心の底からの『100%本音の命乞い(兼・返品交渉)』をまくし立てた。
「トモエも、聖女のマリエットも、そこのクワ持ってる暗殺者の子も、俺が無理やり引き止めたわけじゃないんだ! 頼むから、今すぐ全員まとめて聖都へ連れて帰ってくれ! 俺はただ、誰にも邪魔されずにこの山で静かに畑を耕して、平和に暮らしたいだけなんだよぉっ!!」
シーン……と、秋の山門前に奇妙な静寂が落ちた。
「えっ、レオン様!?」「私たちを追い出すなんて、そんなご冗談を!」とマリエットたちが後ろで騒ぎ始める中、粉まみれのローレンツ枢機卿だけは、まるで雷に打たれたかのように全身をワナワナと震わせていた。
「……はっ?」
粉まみれのローレンツ枢機卿は、床に頭を擦りつけて必死の命乞いをするレオンの姿を見下ろしたまま、完全に硬直していた。
脳裏で、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。
――太陽神殿騎士団最強のトモエを無傷で無力化し、教団の至宝である聖女マリエットを洗脳(心酔)させ、さらには暗部筆頭のニコルまでを一瞬で寝返らせた圧倒的な存在。
背後にそびえるボロ寺は、一歩踏み込めば軍隊を一瞬で消し炭にするほどの超高密度魔導要塞。
(これほどの絶対的な力と戦力を持ちながら……この神王様は、自ら武器を捨て、頭を下げてこう仰っているのだ……)
『トモエもマリエットも暗殺者の子も、頼むから連れて帰ってくれ! 私はただ、静かに畑を耕して平和に暮らしたいだけなんだ!』と。
ローレンツの目頭に、熱いものがこみ上げてきた。
(な、なんと慈悲深い……!!)
もしこの神王が覇権を求める暴君であれば、今頃聖都に向かって進軍し、世界を血の海に沈めていただろう。だが、彼はそれを望まない。ただ大地を愛し、平穏を愛し、私たちが気まずくならないよう「連れて帰ってくれ」という名目(逃げ道)を自ら進んで用意してくださったのだ!
それは、圧倒的な強者が弱者(教団)に対して示す、究極の慈愛と配慮に他ならなかった。
「あ、ああ……神よ……!」
ローレンツはガタガタと全身を震わせ、感動のあまりその場でガバッとひれ伏した。
「ろ、ローレンツのおっさん!? なんでいきなり土下座して泣いてんだよ、気味の悪い……!」
「お分かりにならんのですか、レオン様!」
感極まったローレンツは、両目から大粒の涙を流しながら顔を上げた。その顔は、長年の慢性胃炎と激務で死にかけていた中間管理職のものとは思えないほど、晴れ晴れとした光輝に満ちていた。
「これほどの大戦力を有しながら、武力ではなく対話と寛大な心をもって私たちを和解へと導いてくださるその御心! 貴方様の慈悲の深さ、しかと胸に刻みました!」
「いや、だから和解って言うか、ただの返品――」
「そして、私たちが気まずく引き下がれるよう、『彼女たちを連れて帰ってくれ』と仰ってくださったお気遣い……! しかしレオン様、安心してください。彼女たちが貴方様の許で『聖なる農作業(花嫁修業)』に励んでいる以上、私たちが連れ帰るなどと野暮な真似はいたしません!」
「「「さすがローレンツ殿、話が早い!」」」
トモエ、マリエット、ニコルの三人が、眩しい笑顔でグッと親指を立てる。レオンは「勝手に納得すんじゃねえよ!」と心の中で激しくツッコミを入れた。
だが、ローレンツの感動はこれだけでは終わらなかった。
「はっ……そうだ。ここまで命がけで登ってきた私たちに、神王様はわざわざお疲れ様とばかりに――」
ローレンツは、レオンが先ほどまで食べていた『黄金の焼き芋』の残り半分(先ほどニコルに分けたのとは別の、保温されていたもの)が、トモエの手によって丁重に差し出されているのを見つけた。
「こ、これを私に……? まさに、神の聖餐……!」
震える手でそれを受け取り、ローレンツは一口かじった。
――ザシュッ!! と、ローレンツの体内で長年居座り続けていた『十年来の慢性胃潰瘍と胃痛』が、黄金の光とともに一瞬で消滅した。
「な、なんだこれはぁぁぁっ!? 胃が……胃の痛みが完全に消えたぁっ!! 全身に聖なる活力がみなぎるぞぉぉっ!!」
頭がクリアになり、世界が黄金色に輝いて見える。医者も匙を投げたローレンツの胃痛が、焼き芋一口で完治したのである。
もはや疑う余地は微塵もなかった。この男こそが、世界を救う真の救世主にして、全生命の癒やし手なのだと。
「お見それいたしました、神王レオン様っ!!」
ローレンツは地面に額をつけ、太陽神殿騎士団の全兵士を巻き込んで一斉に忠誠を誓った。
「これより白山・無明院は、天陽教が全勢力を挙げて保護する『不可侵の最高聖域』と定めさせていただきます! さらに、教祖バルバロスがもし何か勘違いして手出ししようものなら、このローレンツ、命に代えても全力で阻止し、神王様の安眠を必ずや守り抜いてみせます!!」
「えっ、ちょっと待て、教団との戦いになるのを避けたかったのに、なんで敵のナンバー2が勝手に最強の味方になってガードを固めてんだよ!?」
レオンの絶望的な叫びを他所に、ローレンツは「それでは失礼して、聖域の改装費として後ほど高級大理石を一万トンほど送り届けます!」と言い残し、ツヤツヤの笑顔で爽やかに引き上げていったのだった。
――こうして、三大勢力の一つ『天陽教編』は、誰一人血を流すことなく(ローレンツの胃痛が治っただけで)、最高にハッピー(レオンにとってはバッド)な形で大団円を迎えたのだった。
――『天陽教・最高機密通達(ローレンツ枢機卿発)』より抜粋。
白山の神王は、我々人類が決して敵に回してはならない『生ける神』であった。なお、聖女マリエット様およびトモエ、ニコルの三名は、神王様の許で『聖なる花嫁修業(兼・農作業)』という崇高な使命に就かれているため、聖都への帰還は無期限で延期とする。
――なお、教祖様には「白山の呪いで全員石になった」と報告しておいたので問題ない。
(のちの歴史家は、この日を境に聖都と白山の間に不可侵の同盟が結ばれ、世界は奇妙な平和と豊かな農作物に包まれたと記している。当の本人は、届き続ける大理石の山を見て毎日頭を抱えていたが、それはまた別の話である)




