第2話:亡命王女
――我々は追い詰められていた。
頼みの綱であった王都の防衛線は崩壊し、偽王を掲げる逆賊どもの刃が、ついにルナ殿下の御首に届こうとしていた。
万策尽きた我々が最後にすがったのは、王都の路地裏でまことしやかに囁かれていた『ある噂』だけだった。
曰く、神州の最果て。霧深きあの霊峰には、今も古き神王の遺骸を守る無敵の番人が潜んでおり、彼らがついに分家に対して牙を剥いた、と。
藁にもすがる思いで、我々はその霧深き魔境へと足を踏み入れた。
……それが、列島全土を巻き込むさらなる混沌の幕開けになるとも知らずに。
(『南朝残党・護衛騎士セリアの回顧録』より)
凄腕の刺客たちを撃退したあの夜から、数日が経過した。
霊峰『白山』の第三層、無明院の古びた縁側には、のどかな陽だまりが落ちていた。
「いやあ……平和って最高だな。やっぱり俺のハッタリは完璧だった」
漆黒の軽装甲冑を脱ぎ捨て、ゆったりとした麻の作務衣に着替えたレオンは、シノが淹れた熱い薬草茶をすすりながら、ふははとご機嫌な笑い声を漏らした。
縁側の先に広がるのは、下界の血生臭い戦乱など微塵も感じさせない、静寂に包まれた雲海だけである。
あの夜、分家の刺客に「大軍を連れてこい」と大見得を切った効果は絶大だったようだ。レオンの予想通り、未知の古代の呪いを恐れた分家は完全に沈黙し、毎月のように現れていた鬱陶しい刺客の足はピタリと途絶えたのである。
「当主様がご無事で何よりですが……あまり油断されない方がよろしいかと。叔父君であられるヴィルヘルム様は、あの程度の脅しで『神王の遺骸』を完全に諦めるようなお方ではないはずです」
背後で縁側の拭き掃除をしていたシノが、呆れたようなため息をつきながら忠告する。
「わかってるって。でも、いくら叔父上でも最低でも半年は情報収集で足踏みするはずだ。その間に、第一層の『迷いの樹海』の罠をさらにエグい仕様に張り替えておけばいい。幻覚キノコの胞子と、落とし穴のコンボとかな。俺の平穏なスローライフを脅かす奴らは、徹底的に森の肥やしにしてやる」
底意地の悪い笑顔を浮かべながら、レオンが縁側でぐっと背伸びをした、まさにその時だった。
――キィィィィン!!
耳障りな高周波の共鳴音が、静かな山寺の空気を鋭く切り裂いた。
レオンが手にしていた湯呑みの水面が、カタカタと微かな振動を始めている。
「……なんだ!?」
「当主様、これは……第一層の結界罠です!」
シノが瞬時に雑巾を放り捨て、腰のクナイに手を伸ばした。
レオンの顔から、さっきまでの余裕が一瞬にして消え失せ、サァッと血の気が引いていく。
第一層『迷いの樹海』の入り口に張り巡らせた結界は、ただの野生の獣が触れた程度では決して作動しない。強い魔力を持った人間の侵入、それも『複数』の気配を同時に検知した時にのみ発動する、最高警戒レベルの警報である。
「嘘だろ!? まさか分家の連中、もう大軍を寄越してきたのか!? 俺の完璧なハッタリからまだ数日しか経ってないぞ!?」
「だから油断するなと申し上げたのです! 早くお着替えを!」
「くそっ、あいつら頭のネジ飛んでんのか! どんだけ遺骸が欲しいんだよ!」
大慌てで縁側から転がり落ちるようにして本堂へ駆け込み、レオンは漆黒の胴丸と鎖帷子を強引に身に纏う。つい数秒前までの平和なスローライフは完全に吹き飛び、その顔には明らかな焦燥と「面倒くさい」というありありとした本音が張り付いていた。
「シノ、お前はここで待機して本堂の守りを固めろ! 俺が下りて様子を見てくる。最悪、樹海の罠を全部起動してでも追い返してやる!」
愛用の短剣を腰に吊るし、レオンは弾かれたように急勾配の石段を駆け下りていった。
深い霧に包まれた霊峰のふもとへ。そこで彼を待ち受けているのが、分家の大軍などではなく、神州の歴史を大きく狂わせる『厄介な荷物』であることなど、石段を一段飛ばしで駆け下りるこの時の彼は知る由もなかった。
霊峰の第一層、『迷いの樹海』。
視界を白く塗り潰すほどの濃霧の中を、レオンは一切の音を立てることなく、滑るように木々の枝を蹴って進んでいた。
(大軍の先触れか、それとも罠を壊すための工作部隊か……?)
軽装甲冑の冷たい感触に身を引き締めながら、レオンは気配を極限まで殺し、結界罠が発動したポイントの真上に到達する。鬱蒼と生い茂る巨木の枝に身を潜め、眼下の惨状を見下ろしたレオンは――予想外の光景に、思わず目を丸くした。
(……は? 大軍じゃない?)
そこにいたのは、結界を力任せに破ろうとする完全武装の大部隊などではなかった。
荒い息を吐きながら木に背を預けているのは、およそこの山には似つかわしくない、泥だらけのドレスを着た年端のゆかない少女。そして、彼女を庇うようにして前に立ち、欠けかけた長剣を構えている傷だらけの銀甲冑を着た女騎士の二人だけだった。
対して、彼女たちを半円状に包囲し、下品な笑みを浮かべながらじわじわと追い詰めているのは、五、六人の追手の兵士たちだ。
彼らの胸元に刻まれた家紋を見て、レオンは苦虫を噛み潰したような顔になる。
間違いなく、王都で権力を握る叔父――ヴィルヘルム率いるバシリカ分家の兵だ。
「さあ、諦めろセリア殿。貴様らが頼りにした伝説のバシリカ本家とやらからは、一向に迎えが来る気配もないではないか」
「黙れ、逆賊の犬共め……! ルナ殿下の御首、決して貴様らなどに渡すものか……!」
(ルナ殿下……? あのドレスの紋章、まさか南朝の王女か!? なんでそんな特大の政治的厄介事が、よりによってウチの山に逃げ込んで来てんだよ!)
王都で泥沼の内戦を繰り広げている正統な王家の末裔。それが暗殺の手を逃れ、藁にもすがる思いでこの霊峰まで逃げ延びてきたのだろう。
事情は一瞬で理解できた。そして、レオンの出した結論は一つだった。
(……うん、見なかったことにしよう。あんな厄介事に関わったら、俺のスローライフが完全に終わる)
レオンは無表情のまま踵を返し、音もなく山寺へ帰ろうとした。
助ける義理など一ミリもない。むしろここで王女がひっそりと死んでくれた方が、分家の兵士たちも目的を果たして速やかに山から引き上げてくれるはずだ。
非情だが、辺境で生き抜くための最も合理的な判断。そう納得し、別の枝へ飛び移ろうとした、まさにその瞬間だった。
「ええい、抵抗するなら無様に死ね! 大人しく首を差し出せ!」
追手の部隊長らしき男が苛立ちと共に舌打ちし、火魔術を付与した『炎の矢』を番え、女騎士に向けて乱暴に放った。
矢は女騎士の盾に弾かれ、大きく軌道を逸れて――レオンが立つ木の真下、鬱蒼と茂る茂みの中へ深々と突き刺さった。
ボゥッ! と、茂みが勢いよく燃え上がる。
それを見た瞬間。レオンの動きが、空中でピタリと硬直した。
(……あ)
その茂みは、ただの茂みではない。
平和なスローライフを守るため、レオンが三日三晩徹夜して組み上げた、幻覚キノコの胞子と連射式毒矢、さらに底なしの落とし穴を精巧に連動させた、自信作の『特製・侵入者絶対殺すトラップ』の最も重要な隠しポイントだったのだ。
バチバチと燃え上がる炎の中で、仕掛け線が焼け切れ、虚しく穴の中に向けて毒矢が誤射される情けない音が聞こえてくる。
(俺の……俺の最高傑作が……!! しかも材料費めちゃくちゃかかったのに……!!)
関わり合いになりたくないという理性は、一瞬にして怒りの炎で焼き尽くされた。
レオンの黒い瞳に、暗殺者としての冷たい殺意が灯る。
彼は無言で腰の短剣を抜き放ち、濃霧の底でゲラゲラと笑う分家の兵士たちへ向けて、漆黒の影を躍らせた。
『辺境の暗殺者はハッタリで生き抜きたい〜「神王の遺骸」なんて無いのに三大勢力が攻めてきた。えっ、俺の血が最強の聖遺物!?〜』
第2話:亡命王女
【後半】
「ヒャハハッ! そら、もう一発くれてやる!」
分家の兵士が下劣な笑い声を上げ、二の矢を番えようとしたその時だった。
彼らの頭上に広がる濃霧の中から、一切の風切り音を伴わずに『漆黒の影』が舞い降りた。
「――俺の最高傑作を、よくも燃やしてくれたな」
地獄の底から響くような、絶対零度の声。
兵士たちが声のした方へ顔を向けるよりも早く、レオンの放った『暗殺魔術』が発動した。
樹海の地面に落ちていた兵士たち自身の影が、突如として鋭利な刃と化して跳ね上がる。
「が、ァ……!?」
矢を番えていた男の首筋が、見えない刃によって背後から深々と薙ぎ払われた。鮮血が霧の中に赤い飛沫を描いて舞い散り、男は声にならない悲鳴と共にドウッと崩れ落ちる。
「な、なんだ!? 敵か!?」
「上だ! 上から――ヒッ!?」
残る五人の兵士たちが慌てて剣を抜こうとするが、レオンの動きは彼らの動体視力を完全に凌駕していた。
軽装甲冑の機動力を極限まで引き出し、レオンは霧と同化するように敵陣のど真ん中へと滑り込む。手にした短剣が鈍い銀光を描き、二人の兵士の心臓を正確に貫く。
さらに、悲鳴を上げて逃げ出そうとした三人目の足元へ、魔力を込めた小石を弾き飛ばした。小石は寸分違わぬ軌道で『別の罠』の起動スイッチを打ち抜き、頭上の巨木から落ちてきた棘付きの丸太が、逃げる兵士を無情にも粉砕した。
「ひ、ひぃぃっ! バ、バシリカ本家の……暗殺魔術……!」
「ば、化け物だァァッ!」
生き残った最後の二人が武器を放り出し、パニックを起こして逃げ惑う。だが、レオンは冷酷な瞳で彼らの背中を見据え、指先を軽く弾いた。
影の刃が地面を這うように伸び、彼らの足を両断する。断末魔の悲鳴すら、分厚い霧が飲み込んでいった。
戦闘開始から、わずか数秒。
圧倒的すぎる暴力の嵐が過ぎ去り、樹海には再び重苦しい静寂が舞い降りた。
「……修理費、分家に請求してやりたいぜ」
血糊を払って短剣を鞘に納めながら、レオンは燃え盛る茂み(元・最高傑作のトラップ)を見て恨めしそうにため息をついた。
一方、死を覚悟して目を閉じていたセリアとルナ王女は、瞬きする間に追手が全滅した光景に呆然と立ち尽くしていた。
やがて、セリアが震える手で折れた剣を収め、泥だらけの甲冑のまま、畏れ多くも神を拝むかのようにその場に跪いた。それに釣られるように、ルナ王女もまた、泥に汚れたドレスの裾を握りしめながら深く頭を下げる。
「こ、この恐るべき影の魔術……そして漆黒の出立ち。あなた様が、伝説のバシリカ本家を統べる当主、レオン様ですね……!」
「は? いや、人違いだ。俺はただの通りすがりの猟師……」
「隠さないでください!」
厄介払いをしようと踵を返しかけたレオンの背中に、ルナ王女の悲痛でありながらも希望に満ちた声が投げかけられた。
「王都の南朝陣営にも、レオン様の頼もしい噂は届いております……! 叔父であるヴィルヘルムを震え上がらせたという、あのお言葉を!」
(……噂? お言葉?)
嫌な予感がして、レオンの足がピタリと止まった。
ルナ王女は、まるで救世主を見つめるような、キラキラと輝く純粋な瞳で言葉を続ける。
「『我が一族に眠る神王の遺骸の怒りに触れたくば、大軍を連れてこい』……と! あの絶対不可侵のバシリカ本家が、ついに遺骸の力を解放し、正統な王家たる我ら南朝の味方をしてくださるのだと、王都の者は皆、涙を流して希望を抱いております!」
「そのお噂を頼りに、我々は決死の思いでこの霊峰まで逃げて参ったのです。どうか、ルナ殿下を……正統なる王の血を、お守りください!」
セリアが地に額をこすりつけるようにして懇願する。
(………………は?)
レオンの頭の中で、何かがショートする音がした。
(俺の……俺のあの一生懸命考えた見え透いたハッタリが……王都まで届いてる!? しかも『遺骸の力を解放して南朝の味方をする』なんて、どんだけ尾ひれついてんだよ!!)
分家を追い払うためにその場しのぎで吐いたブラフが、列島中に拡散された挙げ句、一番関わってはいけない特大の政治的爆弾(亡命王女)を自らの庭に引き寄せてしまったのだ。
「あ、いや……それはその、言葉の綾というか……ウチには遺骸なんてねえし……」
「ご謙遜を! 今の圧倒的なお力、まさに神王の御業としか思えません!」
「いや、ちが……!」
完全に目が据わり、尊敬と盲信の眼差しを向けてくる二人の少女を前に、レオンは天を仰いだ。
もはや言い訳など通じる空気ではない。それどころか、彼女たちを追って、分家の『本物の大軍』がこの山へ向かってきていることは想像に難くなかった。
(終わった……俺の、静かで平和なスローライフ……完全に終わったァァァ!!)
深い霧の底で、暗殺者の悲痛な心の叫びが虚しく木霊していた。
――「口は災いの元」とは、古くから伝わるありふれた格言である。
だが、神州の長い歴史を紐解いても、この時のレオン・バシリカが放った『その場しのぎのハッタリ』ほど、列島全土を大混乱に陥れ、高くついた失言は他に類を見ないだろう。
辺境の山守がただ「平穏なスローライフ」を守るためだけについた見え透いた嘘は、結果として最も保護してはならない特大の政治的爆弾《亡命王女》を招き入れてしまった。
こうして彼は、自らが撒いた火種によって、いよいよ後戻りのできない三つ巴の大戦の渦へと引きずり込まれていくのである。
(後世の歴史学者による論考『聖域防衛戦の真実と喜劇』より)




