第12話:温泉と聖騎士
――真の王がもたらす奇跡は、常に計算と慈愛の彼方にある。
ある者は言った。あれは外敵を地の底へ飲み込むための、無慈悲な陥穽(落とし穴)であったと。
しかし、冬の迫る霊峰の分厚い岩盤を打ち砕き、滾る生命の奔流(温泉)を湧き出させたその御業を前に、そのような浅薄な解釈が何の意味を持とうか。
神王はただ、寒さに震える臣下たちを温めるため、母なる大地の血脈を呼び覚ましたのである。
いかに強固な刃や盾を持とうとも、その圧倒的な温もりの前に身を浸せば、人は皆、抗う術を持たぬ赤子へと還るのだ。
(『無明院・神王霊泉記』第一章――「奇跡の湧出と聖騎士の洗礼」より)
白山の霊峰、その中腹に位置するボロ寺『無明院』の裏手。
そこには現在、もうもうと白い湯煙を上げる、立派な岩造りの露天風呂が完成していた。
「いや……違うんだよ。俺はただ、分家の暗殺者をハメるために、ちょっと気合いを入れて深めの落とし穴を掘ってただけで……」
「ああ、レオン様! わたくしたちが冬の寒さに凍えないよう、自らの手で分厚い岩盤を砕き、このような素晴らしい霊泉を湧き出させてくださるなんて……! その深き慈愛、ルナは一生お慕いいたしますわ!」
「ええ。当主様のお気遣いに報いるため、私めが急ぎ麓から最高級のヒノキ材と岩を調達し、湯船を設営いたしました。さあ当主様、一番風呂へどうぞ」
スコップを持ったまま呆然とするレオンの言葉など、完全に「照れ隠し」として処理されている。
狂信者一号と過保護な筆頭メイド(シノ)の二人は、目をキラキラさせながらレオンを崇め奉っていた。
(なんでただの落とし穴から温泉が湧くんだよ!? しかもシノの奴、半日でどこから岩とヒノキを運んできたんだ!? ……まあ、せっかく沸いたし、最近冷えてきたから丁度いいか)
かくしてレオンは、己の生存本能(罠作り)が偶然生み出した奇跡の温泉を、ありがたく堪能することにしたのである。
――それから数時間後。夜の帳が下りた白山を、一人の女騎士が死に物狂いで登っていた。
「はぁっ……はぁっ……! 待っていろ、白山の悪魔……!」
聖堂騎士団筆頭、トモエ・ミナモト。
愛用の騎士剣を杖代わりに険しい獣道を登る彼女の姿は、まさに満身創痍だった。途中で降り出した冷たい雨と泥にまみれ、美しい銀糸の髪も鎧もドロドロである。おまけにストレスで胃袋は千切れそうなほど痛む。
しかし、その瞳に宿る決意の炎だけは、決して消えていなかった。
(マリエット様をたぶらかす誑かし男! そして、あの恐るべきヤンデレ手紙を送りつけてきた異端の魔女! 奴らをここで討たねば、聖都の……いや、マリエット様の貞操が危ない!)
己の誇りと純潔を懸けた、決死のカチコミ。
ついに無明院の敷地へと足を踏み入れたトモエは、裏手から漂う異様な熱気と白い霧(湯煙)に目を細めた。
「……何事だ。こんな冬の山中で、あれほどの熱量……! まさか、すでに何らかの大規模魔術の詠唱に入っているのか!?」
極限状態のトモエの脳内では、ただの湯煙が『世界を滅ぼす儀式魔術の余波』に完全に変換されていた。
彼女はゴクリと唾を飲み込み、痛む胃袋をさすりながら、最後の力を振り絞って剣を上段に構えた。
「天陽の光に代わり、このトモエ・ミナモトが貴様らを両断するッ!!」
悲壮なる覚悟と共に、トモエは分厚い白い霧(湯煙)の中へ飛び込んだ。
(見えた……! 霧の奥で、悪魔が儀式の陣(湯船)の中央に鎮座している!)
殺気を限界まで高め、トモエは渾身の踏み込みを見せた。
――しかし。
「――っ!?」
ツルゥンッ!!
温泉の豊かなミネラル成分によって磨き上げられた極上の天然岩盤は、泥だらけの鉄靴で踏み込むにはあまりにも滑りやすすぎた。
「あ、ひゃぁっ!?」
完全に足払いを食らったような姿勢で、トモエの身体が宙を舞う。
儀式を阻止するはずの聖騎士は、美しい放物線を描きながら、ドボォォォン!!と盛大な水柱を上げて『儀式場(露天風呂)』のド真ん中へとダイブしたのである。
「ぷはぁっ!? ゲホッ、ゴホッ! な、なんだこの熱湯は……っ!?」
全身ずぶ濡れになりながら顔を出したトモエの視界に、ついに『白山の悪魔』の姿がハッキリと映った。
そこには、頭に手ぬぐいを乗せ、肩までお湯に浸かった全裸のレオンが、ポカンとした顔でこちらを見つめていた。
「おっ、お前……あの時の泥沼の騎士か!? 随分ボロボロだな……ってかお前、服(鎧)着たまま入る派か?」
「は……っ?」
トモエの思考がフリーズした。
(服を着たまま入る派……? 違う、そうではない! 私は貴様を討ちに来たのだ! だが、なぜこの悪魔は全裸で、しかもこんなにも呑気な顔をしているのだ!?)
混乱するトモエの背後から、さらに背筋の凍るような冷たい声が響いた。
「……あら。どこの野良犬かと思えば、天陽教の騎士ではありませんか」
湯煙の向こう、レオンの背後から現れたのは、肌にピタリと張り付く湯浴み着姿のルナ・エクリプスだった。その美しい双眸には、手紙の時と同じ純度100%のヤンデレ的殺意が宿っている。
「私のレオン様の神聖なる御湯を、泥だらけの甲冑で汚すなんて……今すぐここで、その首と両腕を綺麗に削ぎ落として差し上げますわニコッ」
「ヒィィッ……!? ま、魔女ォ!!」
やはり罠だった! 精神汚染の悪魔(全裸)と、笑顔で殺意を放つ異端の魔女(湯浴み着)による挟み撃ち!
トモエはパニックに陥りながらも、泥水に浸かった愛剣を引き抜こうとした。
しかし。
「おいおいルナ、物騒なこと言うなよ。……ほら、お前も顔真っ青だぞ。こんな冬の山を登ってきて、体冷え切ってんだろ。とりあえず肩まで浸かっとけ」
「……え?」
レオンが、全く殺気のない、庶民的な優しさでトモエの頭にポスッと手ぬぐいを乗せた。
「いや、でも鎧のままじゃ流石に洗えないか。シノー! 悪い、こいつに代わりの湯浴み着とバスタオル持ってきてやってくれー!」
「かしこまりました、当主様(※なぜか待機していたシノ)」
トモエは完全に毒気を抜かれ、ポカンと口を開けたまま温泉の温もりに包まれていた。
(なんだ……この温かさは。それに、この男の、一切の淀みがない気遣いは……?)
『精神汚染の次は、全裸で懐柔してくるとは! どこまで底知れぬ男だ!』
と、頭の片隅で聖騎士としての警鐘が鳴り響いている。
しかし、連日の胃痛と過労、そして冷たい雨に打たれ続けた彼女の身体にとって、この神王の霊泉(ただの温泉)の圧倒的な心地よさは、抗いがたい究極の暴力(癒やし)であった。
「あ……あぁ……っ」
トモエの口から、情けない吐息が漏れる。
そして、彼女の手からポロリと愛剣がこぼれ落ち、温泉の底へと静かに沈んでいった。
最強の聖堂騎士が、文字通り「お湯の温もり」と「レオンの天然の優しさ」によって陥落した瞬間であった。
シノが用意した清潔な湯浴み着に着替え、ホカホカに茹で上がったトモエは、無明院の縁側にへたり込んでいた。
(……私は、一体何をしているのだ……)
数日前からの激しい胃痛は、嘘のように消え去っていた。
冷たい霊峰の夜風が、火照った身体に心地よく吹き抜けていく。聖都でのしがらみも、あの恐ろしい手紙の恐怖も、温泉の圧倒的な癒やし効果によってすべてが遠い世界のことのように思えた。
そこへ、同じくサッパリとした顔で湯上がりのレオンが歩いてきた。その手には、木製のコップが二つ握られている。
「ほら、湯上がりの冷たいミルク(山羊乳)だ。一気飲みすると美味いぞ」
「あ……っ、かたじけない……」
トモエは無意識にコップを受け取り、コク、コク、と喉を鳴らして飲み干した。冷たいミルクが、温泉で温まった五臓六腑に染み渡っていく。
「ぷはぁーっ! やっぱ風呂上がりはこれだな!」
「……見事な味わいだ。身体の隅々まで浄化されるような……」
並んで縁側に座り、月を見上げる二人。
レオンはふと、トモエの顔を覗き込んで、苦笑交じりに言った。
「お前、目の下のクマひどいぞ。それに、さっき胃のあたり押さえて痛そうにしてただろ。上司(教団)に無理難題押し付けられて、胃ぃ痛めてんだろ?」
「……っ!」
トモエの肩が、ビクッと跳ねた。
図星だった。教祖の理不尽な命令、マリエットへの心配、そして書類仕事。トモエは「聖堂騎士団筆頭」という重圧の中で、一人孤独にすり減っていたのだ。
「ま、嫌ならうちで飯でも食ってけよ。ボロ寺だけど、美味い飯と温泉だけはあるからさ。無理して帰らなくてもいいぞ」
レオンは、命を狙ってきた(とトモエは思っている)相手に対して、微塵の警戒心も見せずに、ただ「疲れたOLを労うようなノリ」で笑いかけた。
――その瞬間。トモエの心の中で、何かが決定的に音を立てて崩れ去った(あるいは、新たな扉が開いた)。
(ああ……なんということだ。教祖の顔色を窺い、規律に縛られるだけの聖都の教えは、すべて偽りだったのだ。刃を向けてきた敵である私にすら、この方は罰を与えるどころか、温かな湯と糧を与え、魂の安らぎを下さった……!)
トモエの瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
あの「泥沼での羞恥」も、きっと私の虚飾に満ちた誇りを捨てさせ、真の救済へと導くための荒療治だったに違いない。
これほどの慈愛に満ちた方を「悪魔」と呼んでいた己の愚かさが、ただただ恥ずかしかった。
「……レオン様」
トモエは立ち上がり、湯浴み着姿のまま、レオンの御前に深く、深く膝をついた。
「私の目は節穴でした! 貴方様こそが、淀みきったこの世界を導く真の救済者……真の王! 私の剣、私の純潔、私の魂のすべてを……今日より、貴方様に捧げますッ!!」
「……はぇっ?」
感極まって全裸(湯浴み着)のまま土下座をかます最強の聖騎士を前に、レオンは完全にフリーズした。
そんなレオンの背後から、ルナがドヤ顔で進み出てくる。
「ふん……まあ、己の愚かさを悟り、このルナの下僕(信者二号)としてレオン様にお仕えするというのなら、ギリギリ許してあげなくもありませんわニコッ」
(いや、なんでそうなるんだよ!?)
レオンの頭の中はツッコミでパンク寸前だった。が、彼の図太い生存本能がすぐに囁いた。
(……まあいいか! なんでか知らんが、めちゃくちゃ強い護衛がタダで一人増えたってことだよな!? よっしゃラッキー!!)
「お、おう! 期待してるぞ、トモエ!」
「ははっ!! ありがたき幸せ!!」
こうして。
白山の霊峰には、神王の奇跡(落とし穴)によって湧いた温泉と共に、恐るべき戦闘力を持った「ポンコツ聖騎士(信者二号)」が新たに誕生したのであった。
――教祖様、ならびにマリエット様へ。
先日机に残した悲痛なる辞表については撤回いたします。その上で、改めて天陽教からの『離反(神王教への改宗)』をここに宣言させていただきます。
私は白山の地にて、真の王がもたらした奇跡(露天風呂)と、底知れぬ慈愛(湯上がりの冷たいミルク)に触れ、己の愚かさを完全に悟りました。我々が信じてきた教義など、あの御方の海よりも深い器の前では浅薄な虚飾に過ぎなかったのです。
私はこれより、ルナ様(※和解しました。少々刃物をチラつかせる癖がありますが、気の良い同僚です)と共に、レオン様の剣としてこの純潔を捧げる所存です。
追伸:マリエット様へ。貴女様が市場で出会ったという殿方には悪いですが、私の見出した『真の王(レオン様)』の素晴らしさには到底及ばないでしょう。貴女様もいつか、真の愛に目覚めることを祈っております。
(数日後、聖都の騎士団本部に届いた手紙。これを読んだ上層部は「筆頭騎士が敵対教団に洗脳された!」と泡を吹いて倒れ、マリエットは「絶対に私の彼の方が素敵ですっ!」と明後日の方向に対抗心を燃やしたという)




