第11話:【間話】トモエの受難
――天陽の加護厚き『絶対防御の光盾』は、物理的な凶刃や凡庸な魔術の前に決して砕けることはない。
しかし、白山の霊峰に潜むあの悪魔は、我々の常識を遥かに凌駕する外法を用いてきた。
肉体ではなく、視覚、触覚、そして騎士としての誇りそのものを直接蹂躙し、魂を泥土に沈める恐るべき『精神汚染魔術』。
我々は、この目に見えぬ破廉恥なる凶刃の前に防壁を割られ、無念の退却を余儀なくされたのである。
……決して、ただの泥沼で足を滑らせたわけではない。
断じて、不可抗力の事故で胸を揉まれたなどというふざけた理由ではないのだ。誓って言うが、あれは高度な魔術的干渉である。
(南朝・聖堂騎士団筆頭 トモエ・ミナモトの白山遠征報告書『悪魔の精神汚染について』より抜粋)
聖都サン・ソレイユ、聖堂騎士団本部。
その奥にある静謐な執務室で、騎士団筆頭であるトモエ・ミナモトは、ここ数日ずっと重度の胃痛に悩まされていた。
「うぅ……っ。胃の腑が……焼けるように痛む……」
気休めの鎮静ハーブティーを飲み下し、トモエは自席のデスクで頭を抱えた。
目の前には、白山遠征の敗北を記した『報告書』が広げられている。
(教祖様や上層部は、私が絶対防御の結界を破られた理由を事細かに記せと要求してきている。だが……まさか、『ドロドロの泥沼で派手にすっ転んで、あろうことか胸を思い切り揉みくちゃにされた羞恥心と混乱で結界が自壊しました』などと……書けるわけがないっ!!)
誇り高き聖騎士として、そんな痴態を公式記録に残すくらいなら舌を噛み切った方がマシである。
結果として、トモエは三日三晩悩み抜いた末に、一つの壮大な『捏造(言い訳)』をひねり出した。
『――敵の放った魔術は、触覚と羞恥心を直接揺さぶる、恐るべき高次元の精神汚染魔術であり……』
(……ええい、もうこれで提出するしかない! 嘘は書いていない。あの悪魔の仕打ちは、間違いなく私の精神をひどく汚染したのだから!)
トモエが血の涙を流すような思いで報告書にサインを書き入れた、その時だった。
「トモエお姉様、いらっしゃいますか?」
コンコン、と控えめなノックと共に執務室に入ってきたのは、天陽教の最高位にして至宝、聖女マリエットだった。
「おお、マリエット様。どうされましたか、そのような……ひどく上機嫌なお顔で」
トモエは慌てて胃痛を隠し、騎士としての凛とした顔を取り繕った。
マリエットは普段の無表情に近い神聖なオーラを完全にどこかへ放り投げ、両手で頬を押さえながら、ふにゃあ……と林檎のように顔を赤くしている。
「あのね、トモエお姉様。実は……私、先日お忍びで市場に出たのですが。そこで、とっても素敵な殿方に出会ったのです」
「……は?」
「すごく優しくて、私をただの『普通の女の子』として扱ってくれて……それに、お口の周りについた味噌ダレを、ご自分の手ぬぐいでキュッと拭いてくださったんですよ!」
キャーッ、と身悶えするマリエットを前に、トモエは絶句した。
箱入り娘として純粋培養されてきた聖女が、どこの馬の骨とも知れぬ男に『味噌ダレを拭かれる』などというセクハラ(?)を受けて喜んでいるのだ。過保護な姉代わりとしては、到底見過ごせる事態ではない。
「な、なんという破廉恥な男ですか! どこの輩かは存じませんが、聖女様の純潔な御肌に気安く触れるなど、万死に値します!!」
「ち、違いますっ! 彼は決してそんなやましい方ではなくて、すごく頼り甲斐のある、庶民的で素敵な……!」
「騙されてはいけませんマリエット様! 世の中には、巧みなハッタリと汚い手口で純真な乙女の心(と身体)を弄ぶ、血も涙もない『悪魔』のような男がいるのです!!」
トモエの脳裏には、白山で自分を泥沼に引きずり込み、ドサクサに紛れて胸を揉んできたあの憎き暗殺者の顔がハッキリと浮かんでいた。
「もしその不届き者が再びマリエット様に近づくようなことがあれば、このトモエ・ミナモトが、神の光に代わって必ずや両断してご覧に入れます!」
「彼は絶対に、お姉様も一目見れば立派だとわかる殿方なんですからっ!」
ぷくっ、と頬を膨らませて抗議するマリエットに対し、トモエは「聖女様は世間を知らなすぎる」と頭を抱えた。
「マリエット様。言葉巧みに近づく男は、例外なく下心を持っています。証拠に、その男は貴女様から何か金品を騙し取ったり、妙な貢物を押し付けてきたりはしなかったでしょうね?」
「貢物だなんて、そんなやましいものじゃありません! ほら……これ、彼が私に『お揃いだ』って言って買ってくれたんです」
マリエットは大事そうに両手で包み込むようにして、胸元から一つのペンダントを取り出した。
それは市場の端で売られていたであろう、素朴で安っぽい木彫りの動物のペンダントだった。
トモエの騎士としての鋭い眼光が、そのペンダントを射抜く。
「……なんという粗悪な品。しかも、神聖な魔力や加護の類は一切付与されていない。ただの木の欠片ではありませんか。そのような出所不明の品、呪いや精神汚染の術式が仕込まれているやもしれません。今すぐ捨てなさい!」
「嫌です! 呪いなんかじゃありません、これは私にとって一生の宝物ですっ!」
ペンダントを胸にギュッと抱きしめ、マリエットは涙目でトモエを睨み返した。
「トモエお姉様は、殿方とお付き合いしたことがないからそんな風に疑うんです! 本当の優しさとか、恋心とか、全然わかってないんだわ!」
「なっ……! わ、私とて、男の恐ろしさや底知れなさは、身を以て痛感しておりますっ!」
痛いところを突かれたトモエの脳裏に、再び『白山の悪魔』の姿がフラッシュバックした。
泥沼の罠、奇妙な動き、そして――胸を鷲掴みにされた、あの感触。
「奴らは! 卑劣にも泥沼の罠を張り巡らせ、あえて無様に転んだふりをしてこちらの油断を誘い、そして……っ、そして、乙女の純潔を直接蹂躙してくるのです! あの底知れぬ恐怖と屈辱が、マリエット様にわかりますか!!」
「……? 彼が泥沼で転ぶ……? 何を言っているんですか、お姉様。彼はそんな変なことしません! お口を拭いてくれる、真の紳士です!」
(絶対に違う! どこの輩か知らないが、聖女様に気安く触れる男など、あの悪魔と同類のクズに決まっている!)
(絶対に違う! 私の初恋の人は、お姉様が言うような卑劣な悪魔なんかじゃない!)
決して交わることのない二人の主張。
トモエは己のトラウマからくる過剰な被害妄想(※ただしレオン本人のこと)で必死に説得を試みるが、マリエットの耳には「口うるさい姉の嫉妬」にしか聞こえなかった。
「もういいです! トモエお姉様のわからずや! 私、彼とまた絶対に会うんですからねっ!」
「ああっ、マリエット様! お待ちください、マリエット様ぁぁっ!!」
バタンッ! と。
マリエットは真っ赤な顔で執務室の扉を勢いよく閉め、足音荒く去っていってしまった。
一人取り残されたトモエは、ズキズキと痛む胃袋を押さえながら、その場にガックリと崩れ落ちた。
「あぁ……なんということだ。純真無垢なマリエット様が、得体の知れない誑かし男に心を奪われてしまうなんて……。あの破廉恥な白山の悪魔といい、最近の男は一体どうなっているのだ……」
マリエットが去った後、静まり返った執務室で、トモエは冷え切ったハーブティーを飲み干して深い深いため息を吐いた。
白山の悪魔による精神汚染(ただの事故)のトラウマ。上層部への言い訳報告書。そして聖女の初恋騒動。
これ以上、自分の胃袋に負担をかける出来事が起きたら、神の加護があろうと胃に穴が空いてしまう。
そう思っていた、まさにその時だった。
コツン、コツン。
執務室の窓ガラスを、外から硬いものが叩く音がした。
トモエが顔を上げると、窓の桟に一羽の不気味な黒いカラスが止まっていた。その嘴には、真っ黒な封筒が咥えられている。
「……使い魔か? 結界を張った聖堂騎士団本部に、堂々と……!?」
警戒しながら窓を開けると、カラスはバサリと手紙をデスクの上に落とし、嫌な鳴き声を残して飛び去っていった。
漆黒の封筒には、血のように赤い蝋で封がされている。そこに押された紋章を見て、トモエの顔色がサッと青ざめた。
「南朝王家の紋章……! しかも、この禍々しい魔力の残滓……まさか!」
震える手で封を開け、中から便箋を取り出す。
そこには、恐ろしく達筆で美しい、しかし狂気に満ちた文字がビッシリと書き連ねられていた。
『親愛なるお友達、トモエへ。
先日は我が神王、レオン様の御前で、見事な泥遊び(痴態)を披露していただき感謝いたしますわ。
貴女がレオン様に「直接触れていただいた」という事実を思い出すたび、私は夜も眠れず、枕を噛み千切り、そしてこの手紙を書くペンの先から血が滴るほどに喜悦を覚悟しておりますの。
ええ、本当に素晴らしいお友達ですわ。
ですから、次にお会いした時は、レオン様に触れたその忌まわしい両腕を、肩の付け根から綺麗に削ぎ落とし、聖都の犬の餌にして差し上げますわニコッ。
それまで、せいぜいその首を洗って、怯えながらお待ちになっていてね。
敬具
レオン様の永遠の伴侶、ルナ・エクリプスより』
「――――ッ!!」
便箋から立ち上る、純度100%の殺意と強烈なヤンデレオーラ。
さらに封筒の底から、コロリと『黒焦げになった小石(おそらく魔術で焼き尽くされた何か)』が転がり落ちたのを見て、トモエの胃袋はついに限界を迎えた。
「う、うぐふぅぅぅッ!!」
トモエは胃を押さえて悶絶した。
恐るべき精神汚染魔術を使う男と、笑顔で殺意を向けてくる異端の魔女。
これほどまでに危険な悪魔のつがいが、白山で野放しになっているのだ。こんなヤバい奴らを放っておけば、いつか聖都は――いや、世界そのものが破滅してしまうに違いない!
(上層部は騎士団の再編を待てと言う……だが、それでは遅い! マリエット様が悪い男に騙されている今、私が動かなければ、天陽教の未来はない!)
トモエは決死の覚悟で立ち上がった。
もはや胃痛などと言っている場合ではない。己の誇りと、聖都の平和を守るため。
「ええい、こうなれば私一人で白山へ乗り込み、あの悪魔と魔女を討つ! さもなくば、名誉ある死を!」
トモエは書き上げたばかりの『言い訳報告書』の横に、乱暴な字で『辞表(※ただの決意表明)』を叩きつけた。
そして、愛用の騎士剣を引っ掴むと、誰にも告げずに単身、白山・無明院へと決死の突撃を開始したのである。
……のちに彼女が、無明院の裏手で『なぜか皆と一緒にお風呂に入る』という更なる羞恥(受難)を味わい、結果としてレオンの狂信者二号へと改宗してしまうことなど、この時の彼女は知る由もなかった。
――この手紙が発見された時、私はすでに白山の土となっているか、あるいはあの悪魔と魔女を相手に最後の血の一滴まで抗っていることだろう。
無敵の結界を容易く透過する精神汚染の使い手と、狂気に満ちた異端の魔女。そして、純真なる聖女様をたぶらかす得体の知れない誑かし男(※全部同じ男に関連しています)。
聖都の危機はすぐそこまで迫っている。故に私は、騎士団筆頭の地位をここに返上し、ただ一人の盾として白山へ向かう。
教祖様、どうか私を探さないでいただきたい。我が誇りと純潔を懸け、必ずやあの悪魔の首を討ち取ってみせる――。
(聖堂騎士団本部のデスクに残された、トモエ・ミナモトの悲壮なる辞表兼遺書より。なお、数日後に彼女から「すいませんやっぱり再就職(改宗)します」という手紙が届いて教団はパニックになる)




