静かな夜の、不器用な約束
夕飯の後片付けを終えたリビングには、加湿器の柔らかな動作音だけが響いていた。
真白は、俺が貸したソファの端にちょこんと座り、自分の膝を抱えるようにして丸まっている。風呂上がりで少し眠くなったのか、色素の薄い瞳がときおり、とろんと微睡みに沈みかけていた。
「真白、眠いならもう寝ていいよ。ベッドを使って」
「……え? でも、湊さんは……?」
真白がハッとして顔を上げた。
「俺はこっちのソファで寝るから大丈夫だよ。昨夜もそうしたし、慣れてるから」
「……ダメです」
真白が、今までで一番はっきりとした拒絶の声を上げた。
彼女はソファから立ち上がると、俺のパーカーの袖を指先でぎゅっと掴み、必死な形相で見上げてくる。
「湊さんの場所を奪って、湊さんがゆっくり休めないなんて……そんなの、嫌です。私なら、床でも、玄関でも……」
「真白」
俺は彼女の言葉を遮り、そっと肩に手を置いた。
「昨日も言っただろ。君に我慢をさせるためにここへ連れてきたんじゃないんだ。……それに、女の子を床で寝かせて平気でいられるほど、俺の心臓は強くない」
「でも……っ」
真白は唇を噛み、涙目で黙り込んでしまった。
彼女にとって「譲られること」や「大切にされること」は、まだ慣れない劇薬のようなものなのだろう。放っておけば、彼女はまた自分の価値を削って俺に尽くそうとしてしまう。
「……じゃあ、こうしよう」
俺は少し考えてから、提案した。
「俺のベッドはセミダブルで少し広いんだ。真白が怖くないなら、真ん中に枕で境界線を作って、一緒に使う。それなら二人ともちゃんと横になれる。……どうかな?」
真白の顔が、一瞬で耳の先まで真っ赤になった。
「いっ、一緒に……湊さんと……?」
「あ、いや、もちろん嫌ならいいんだ。でも、真白が一人で寝るのが不安なら、その……近くに誰かがいた方が、悪夢を見ないで済むかなって」
自分でも何を言っているんだと、顔が熱くなるのを感じる。
だが、真白は俯いたまま、消え入りそうな声で答えた。
「……湊さんの隣なら……きっと、怖くないです」
***
部屋の明かりを消し、サイドテーブルの小さな間接照明だけを点す。
オレンジ色の柔らかな光が、壁に二人の影を長く落としていた。
シーツからは、昼間に真白が使ったものと同じ、俺のシャンプーの香りが微かに漂っている。
真白は掛け布団の端を顎まで引き上げ、境界線の枕越しに、俺の方をじっと見つめていた。
「……湊さん、起きてますか?」
「ああ、起きてるよ」
暗闇の中で、真白の白い髪が淡く発光しているように見えた。
「私……ずっと、暗いところが怖かったんです。目をつぶると、あの部屋の音が聞こえてきて……。でも、今は、湊さんの呼吸の音が聞こえるから……すごく、静かです」
真白の手が、境界線の枕を越えて、俺の服の袖をそっと探り当てた。
小さな、冷たい指先が俺の腕に触れる。
「……繋いでても、いいですか?」
「……ああ。いいよ」
俺がその手を握り返すと、真白は安堵したように小さな吐息を漏らした。
彼女の手は驚くほど細くて、少し力を入れただけで壊れてしまいそうだった。この手で、彼女はどれだけの絶望を押し止めてきたのだろうか。
「真白。……明日も、明後日も、雨が降っても晴れても、君はここにいていいんだ。誰にも君を傷つけさせない。俺が、君の『湊』になるから」
「湊、さん……」
真白の瞳から、一筋の涙が枕に吸い込まれていった。
彼女は俺の手を、祈るように両手で包み込み、胸元に引き寄せる。
「……大好きです、湊さん。……おやすみなさい」
「おやすみ、真白」
規則正しい彼女の寝息が聞こえ始めるまで、俺はずっとその手を握りしめていた。
窓の外では、いつの間にか雨が完全に止み、雲の間から差し込む月光が、眠る「天使」の横顔を優しく照らしていた。
二人の不器用な共同生活は、まだ始まったばかりだ。




