共有する温度、解けていく境界線
スーパーからの帰り道。雨上がりの澄んだ空気の中を、二つの影が並んで進む。
真白の手元には、さっき自分で選んだ淡いピンクの歯ブラシと、俺と同じ銘柄のシャンプーが入ったレジ袋が揺れていた。それは彼女にとって、この世界に「自分の持ち物」ができた初めての証だった。
アパートへ戻ると、真白は玄関で脱いだ靴を、驚くほど丁寧に揃えていた。
「湊さん、あの……」
「ん?」
「……お風呂、入ってきてもいいですか? その、買ってもらった……これ、使いたくて」
レジ袋を胸に抱きしめ、真白がおずおずと尋ねる。
「もちろん。一番風呂、入ってきなよ。俺は夕飯の支度をしてるから」
「ありがとうございます……っ!」
真白は嬉しそうに、けれどどこか緊張した面持ちで脱衣所へと消えていった。
カタン、と浴室のドアが閉まる音が聞こえる。
俺はキッチンに立ち、冷蔵庫から食材を取り出した。今夜の献立は、胃に優しく、かつ少しだけ体力のつくものを。真白が「美味しい」と言ってくれる顔を想像しながら、大根を銀杏切りにする包丁の音がトントンとリズム良く響く。
しばらくして、浴室からシャワーの音が聞こえてきた。
その音を聞きながら、俺はふと思う。昨日までのこの部屋は、ただ寝るためだけの無機質な箱だった。けれど今は、壁の向こうに誰かがいて、生活の音がしている。その事実が、俺の心に不思議な充足感を与えていた。
三十分ほど経った頃だろうか。
「……湊さん、上がりました」
控えめな声と共に、真白がリビングに戻ってきた。
その姿を見た瞬間、俺の手が止まった。
お風呂上がりで上気した頬。
拭ききれなかった水滴が、純白の髪の先で真珠のように光っている。
そして何より――彼女が部屋に入ってきた瞬間、ふわりと漂ったのは、俺が毎日使っている、あの少し無骨なシトラス系シャンプーの香りだった。
「…………」
「あの……おかしい、ですか? やっぱり、女の子の匂いの方がよかったかな……」
黙り込んでしまった俺を不安に思ったのか、真白が色素の薄い瞳を揺らし、自分の髪を指先でいじりながら見上げてくる。
「……いや、全然。……すごく、似合ってると思う」
嘘偽りない本音だった。
俺と同じ匂いを纏った真白は、まるで俺の所有物になったかのような、あるいは俺の家族になったかのような、形容しがたい親密さを放っていた。
ブカブカのパーカーの襟元から覗く、真っ白なうなじ。そこに自分の香りが重なっているという事実は、想像以上に俺の独占欲を煽った。
「よかった……。すごく、安心します。この匂い……」
真白は自分の袖口に鼻を寄せ、クンクンと匂いを嗅いでから、はにかむように微笑んだ。その表情には、朝までの絶望は微塵もなかった。
「よし、ご飯にしようか。今日は鶏雑炊に、少しだけ野菜を煮たやつだ」
「わぁ……美味しそうです……!」
食卓に並んだ料理を前に、真白の目がキラキラと輝く。
二人で向き合って座り、「いただきます」と手を合わせる。
「美味しい……。湊さんの作るご飯、魔法みたいに温かいです」
「ただの家庭料理だよ」
「ううん。私にとっては、今まで食べた何よりも、特別です」
一生懸命に頬張る彼女を見ていると、俺の過去の傷まで一緒に癒えていくような気がした。
食べ終えた後、真白が「お皿洗い、させてください」と自分から言い出した。
「役に立ちたいとか、そういうのじゃなくて……湊さんと、一緒に何かしたいんです」
真っ直ぐな瞳でそう言われ、俺は「わかった、じゃあお願いしようかな」と笑って返した。
キッチンに並んで立ち、俺が洗い、真白が拭く。
手が触れそうになるたびに、真白の髪から俺のシャンプーの香りが弾け、心臓が少しだけ早く脈打つ。
ふと、外を見ると、雲の隙間から大きな月が顔を出していた。
「湊さん、月……綺麗ですね」
「ああ、そうだね」
明日も、明後日も、この香りと共にこの景色を見ていたい。
そう願うことが、今の俺には許されているような気がした。
けれど、そんな穏やかな時間を壊すかのように、真白がふと寂しそうに声を落とした。
「……ねぇ、湊さん。この幸せ、いつまで……許されるのかな」
その問いに、俺は彼女の手をそっと握り、静かに答えた。
「いつまで、じゃないよ。真白がここにいたいと思う限り、ずっとだ」
真白の瞳に再び涙が溜まり、彼女は俺の手の甲に額を預けるようにして、静かに頷いた。
二人の間に流れる時間は、もう誰にも邪魔させない。そう、心に誓った。




