行くあてのない朝と、温かい卵雑炊
翌朝。
窓の外からは、まだしとしととアスファルトを濡らす雨の音が聞こえていた。
薄暗い寝室で目を覚ました俺は、軽く伸びをしてからリビングへのドアを開けた。
昨夜、温かいスープを飲んでソファで眠りに落ちたはずの彼女の姿が、そこにはなかった。
「……?」
嫌な予感がして視線を巡らせると、玄関の土間に小さな影がうずくまっていた。
彼女は、俺が貸したブカブカの黒いスウェットを着たまま、昨日脱ぎ捨てた泥だらけの自分の靴を、震える手で履こうとしていた。
「何してるの」
俺が声をかけると、彼女は弾かれたように肩を跳ねさせ、ひっ、と短い悲鳴を漏らした。
「あっ、ご、ごめんなさい……っ、ごめんなさい……!」
彼女は靴を履きかけのまま土間にへたり込み、両手で頭を庇うようにして震え出した。
「私なんかが、こんないい匂いのする、温かい場所にいたら……迷惑、ですから……っ。すぐに出ていきます、から……叩かないで、ごめんなさい……っ」
その痛ましい姿に、俺は胸の奥がギリッと軋むのを感じた。
温かいものを口にして少しは落ち着いたかと思ったが、彼女の心に根付いた『自分は生きているだけで迷惑な存在だ』という呪縛は、一晩でどうにかなるほど浅いものではなかった。
俺はそっと玄関に先回りし、ドアの前に立った。
彼女から見下ろす形にならないよう、ゆっくりとその場にしゃがみ込み、視線の高さを合わせる。
「……行くあて、ないだろ。雨、まだ降ってるし」
俺が静かにそう告げると、彼女はビクッと体を震わせた。
「迷惑なんて誰も思ってない」
怯えて伏せられた、色素の薄い黒い瞳を真っ直ぐに見つめる。
「……俺も昔、帰る場所がなくて、雨の中で震えてたから。わかるよ」
その言葉に、彼女がハッと息を呑んだ。
ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳から、張り詰めていた糸が切れたように、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「でも……っ、私、何もできない……っ。役に立たないと、捨てられちゃう……っ。お掃除、しますから、何でもしますから……っ」
「大丈夫。謝らなくていいよ」
パニックになりかけて周囲を見回そうとする彼女の言葉を、ゆっくりと、できるだけ優しい声で包み込む。
「ここは、君が無理をして笑わなきゃいけない場所じゃない。何かの役に立とうとしなくていい。……ただ、君がここで安心して息をしてくれるだけで、俺は嬉しいんだ」
その瞬間。
彼女の目から、堰を切ったように涙があふれ出した。
「ああぁっ、うぅ……っ」と子供のように声を上げ、彼女はその場で顔を覆って泣き崩れた。
俺は何も言わず、彼女の気が済むまで、ただ静かにその泣き声を聞いていた。
やがて。
張り詰めていた緊張の糸が完全に切れ、彼女の体からゆっくりと力が抜けていく――その、感動的な静寂を縫うように。
『きゅるるるるぅぅ〜〜……っ』
玄関に、可愛らしい、けれどやけにはっきりとした音が響き渡った。
「……あっ」
彼女はハッとして自分のポンポンのお腹を押さえ、顔を耳まで真っ赤にして俯いてしまった。純白の髪の間から覗く耳たぶまで、見事なまでに朱に染まっている。
「……ふっ、あははっ! そっか、朝ご飯まだだったもんね。ごめんごめん」
「ち、ちが、これはその、さっきお水飲んだから……っ!」
涙目で必死に言い訳をする彼女の姿があまりにもおかしくて、愛おしくて、俺は先ほどまでの重い空気が嘘のように、自然と笑みをこぼしていた。
***
「はい、お待たせ」
小さなダイニングテーブルに置かれたのは、ふんわりと湯気を立てる卵雑炊だった。
「しばらく、まともに食べてなかっただろ。胃がびっくりするから、まずはこういうのからね」
ブカブカの袖をまくり上げ、おそるおそるレンゲを口に運んだ彼女の動きが、ピタリと止まる。
純白の髪に色素の薄い瞳という、モノクロームのような彼女の世界に、ふんわりとした卵の黄色と温かい湯気が差し込んでいた。
「……おい、しい」
優しい出汁の味が冷え切っていた胃の腑にじわじわと染み渡ったのか、彼女は再びポタポタと大粒の涙をこぼした。
「おいしいです、すごく、温かくて……」
「そっか。よかった。ゆっくりでいいよ、おかわりはいっぱいあるから」
泣きながら雑炊を頬張る彼女の頭を、俺は今度こそ、ためらうことなく優しく撫でた。
ビクッと体を強張らせることもなく、彼女は俺の手のひらの温もりを受け入れるように、少しだけ目を細めた。
「そういえば、まだ名前聞いてなかったな。俺は黒瀬湊」
食後、温かい緑茶を淹れながら尋ねると、彼女はマグカップを両手で包み込むように持ちながら、小さく口を開いた。
「……ましろ、です。真実に、白いって書いて……真白」
「真白……。綺麗な名前だね」
俺がそう呟くと、彼女は信じられないものを見るかのように目を丸くし――やがて、照れくさそうに、今日一番の安堵の表情を見せてくれた。




