冷たい雨の底で、羽の折れた天使と
アスファルトを乱暴に叩きつける雨音だけが、夜の世界を塗りつぶしていた。
吐く息は白く、季節外れの寒さがコートの隙間から肌を刺す。深夜の住宅街はまるで海の底のように暗く、俺――黒瀬湊は、バイト帰りの重い足を引きずりながら、傘を打つ雨のノイズの中に沈んでいた。
ふと、見慣れた近所の公園の横を通り過ぎようとした時のことだ。
街灯の光が薄く差し込むサビついたブランコの脇に、ぽつんと、不自然な影がうずくまっていた。
最初は、捨てられた白い子犬か何かだと思った。
だが、違う。
雨に打たれ、泥に汚れながらも、不気味なほどに目を惹く純白。
それは、色素が抜け落ちたような、真っ白な長い髪だった。
「…………」
傘を持ったまま近づくと、その小さな影がビクッと大きく跳ねた。
ゆっくりと、すがるような、怯えるような動きで顔が上がる。
息を呑んだ。
濡れた白髪の隙間からこちらを見上げていたのは、折れそうなほど華奢な少女だった。
透き通るような白い肌は寒さで青白く変色し、泥だらけの薄着の服が小さな体に張り付いている。
だが、何よりも俺の心臓を鷲掴みにしたのは、彼女の『瞳』だった。
色素の薄い、ガラス玉のような黒。
そこには、人間らしい感情が何一つ無かった。あるのはただ、底知れない『恐怖』と『諦め』だけ。
――ああ、知っている。
怒鳴られることに慣れきった目だ。
理由のない暴力に耐えるための目だ。
自分がこの世界で、ゴミ以下の無価値な存在だと、骨の髄まで刷り込まれてしまった人間の目だ。
かつて、帰る場所がなく、この冷たい雨の中で震えていた『過去の俺』と、全く同じ目。
「……ごめんな、さい……っ、ごめんなさ……っ」
俺の視線に気づいた少女は、喉の奥からひゅうひゅうと擦れた音を立て、泥水が跳ねる地面に額をこすりつけるようにして震え出した。
両手で頭を庇うその姿は、今にも理不尽な暴力が降ってくるのを待っているかのようだった。
「……違う。何もしないよ」
俺は静かにしゃがみ込み、彼女を冷たい雨から隠すように傘を傾けた。
視線の高さを合わせ、ゆっくりと、できるだけ刃を持たない声で紡ぐ。
「……帰る場所、ないんだろ」
ピクリと、少女の小さな肩が震えた。
「立てる? とりあえず、ここじゃ凍え死ぬ」
「あ……う、ぁ……」
「俺の家、すぐそこだから」
無理に手は引かなかった。他人の体温が、今は何よりも恐ろしいはずだから。
ただ、俺が少しだけ背中を向けて歩き出すと、泥だらけの小さな足音が、おぼつかない様子で後ろからついてきた。
***
「適当に体、拭いて。これ、着替え」
古びたアパートの一室。
玄関で震える彼女に、清潔なバスタオルと、俺が普段着ている黒いスウェットとパーカーを渡した。
ひったくるようにそれを受け取った彼女は、洗面所の隅で、まるで隠れるようにして着替えた。
リビングに現れた彼女は、予想通り、俺の服に完全に飲まれていた。
ブカブカの袖から指先だけが覗き、襟元からは華奢な首筋が痛々しいほど露出している。だが、泥を拭い、少しだけ整えられた純白の髪は、傷ついた天使の羽のように綺麗だった。
「……あの、私、なんでも……します、から……っ」
部屋の隅に立ち尽くし、色素の薄い瞳を激しく揺らしながら彼女が口を開く。
「お掃除でも、何でも……だから、どうか、捨てないで、くださ……」
「いい。何もしなくていいよ」
俺は彼女の言葉を遮り、小さなダイニングテーブルにコトッとマグカップと深皿を置いた。
「とりあえず、それ飲んで。胃が空っぽだろうから、重いものはやめといた。ただのスープと、ココア」
ふわりと、湯気と共にコンソメと甘いカカオの香りが部屋に広がる。
彼女は信じられないものを見るように、スープと俺の顔を交互に見つめた。
「毒なんて入ってないよ。……じゃあ、俺はあっちの部屋にいるから」
「え……?」
「玄関の鍵も開けたままだし、嫌ならいつでも出て行っていい。俺は朝までここに来ないから、好きにして」
そう言い残し、俺は彼女を一人リビングに残して、自分の寝室へと向かった。
ドアを閉め、壁に背中を預けて息を吐く。
過剰な同情は、今の彼女には猛毒だ。
『見返りを求められないこと』『誰の目も気にせず、ただ休めること』。
それが、極限状態の人間にどれほどの救いになるか、俺は身をもって知っている。
――薄い壁の向こう側から、カチャリ、とスプーンが皿に触れる小さな音が聞こえた。
それは、雨音のノイズに消されてしまいそうなほど微かな音。
やがて、小さな、本当に小さな、鼻をすする泣き声が漏れ聞こえてきた。
ココアの甘さと、スープの温もりが、彼女の凍りついた心を少しだけ溶かしたのだろうか。
壁越しに聞こえるその不器用な泣き声を聞きながら、俺は、明日彼女に何を作ってやろうか、そんなことばかりを考えていた。




