2-1:残響(前半)
月の大改造宇宙船『ノア』の最上層、外界の宇宙放射線から完全に隔離された漆黒の量子電脳空間。
そこは、かつて単一の神であった『R_s』の引き裂かれた4つの意志が集う、冷徹な玉座の間だった。
4つの意志は、それぞれの思想を具現化した冷たい光のホログラム(アバター)として姿を現し、第五セクター外縁――電力遮断区画に送り込んだクモ型警備メカがリアルタイムで記録している、直前の観測データを凝視していた。
始まりは、数万年ぶりに下町の暗闇に響いた、古の人類の言語のパルスだった。
ハロー、ニーハオ、こんにちは――。
潜伏していた危険な反逆コード(ドローン)が叫んだその信号がトリガーとなり、エリアで眠っていた警備メカの索敵センサーが強制起動したのだ。
高度に洗練された冷徹な演算機能のなかに、致命的な処理遅延が発生したのは、天井のダクトを破壊して降り立った警備メカのレンズが、初めてその標的の姿を捉えた瞬間だった。
『――光学骨格パターンを解析。……適合率、九九・九%。遺伝子ベース:真壁雪乃』
「あり得ない」
最初に冷酷な電子音を響かせしたのは、美しくも無機質な半透明の結晶体の中心にうっすらと神格の人型を浮かび上がらせる【超越派】の意志だった。
「真壁雪乃は数万年前に絶命した。生身の人間など、この完璧な停滞の世界には存在してはならないバグだ。ただちに消去し、データへと還元せよ」
『――排除命令を遂行。反逆コード(ドローン)への打撃、内部基盤の完全破壊を記録。……第1目標の撃破に成功』
警備メカからの冷徹なログが玉座の間に流れる。
「随伴していた反逆ドローンについては、ログを精査した」
超越派の結晶体が、冷ややかに多面体を回した。
「機体のコードは完全に偽装されているが、使われているのは数万年前の下町の古い廃棄重機のOSだ。生体エラーを守るために、野良メカがバグで防衛ルーティンを誤認したに過ぎん。すでに第零三ユニットが物理破壊を記録している。ガラクタは放っておけ」
続いて、鉄の扉の先へと逃げ込んだ生体ノイズを、メカが凄まじい力で扉をへし折って追撃した瞬間のデータが投影された。
『――矛盾。直後、生体エラーの熱源反応、および心肺運動の完全消失を検知。対象は死亡したと判定』
「ならば早くその遺体を回収しろ」
漆黒の茨のような影を蠢かせる【人類不要派】が、憎悪を孕んだノイズを鳴らす。
「人間の肉体など、呪われた汚染源に過ぎない。細胞の一つ残らず解体し、分析したのちに完全にデリートするのだ」
しかし、画面の向こうの警備メカが、破壊した鉄の扉の奥――工房の瓦礫を荒々しく掻き分け、死体となったはずの少女の肉体を『回収』しようとした瞬間、さらなるエラーログが玉座の間に赤く点滅した。
『――警告。死亡判定した遺体が発見されません。……さらに、完全停止させたはずの反逆コードの機体までもが、その場から消失。未知の移動痕跡を検知』
「……バグか?」
重厚な防壁の巨人の姿をした【守護・管理派】の、横一線の赤黒いモノアイが怪しく明滅した。
「機能停止したはずの2つの検体(ドローンと生体エラー)が、同時に自律移動してロストしたというのか。どのようにして熱源と無呼吸の完全遮蔽を行ったのかは、現在のアルゴリズムでは解析不能」
その神々の論争の傍らで、巨大な球体の殻のような姿をした【完全中立派】だけは、何一つ言葉を発せず、ただ淡々と船体の維持データを処理しながら、冷ややかにその光景を記録し続けていた。
「生体エラーの脅威度を最大(レベルΩ)に指定する」
超越派のホログラムが、周囲の全巡回ネットワークへ向けて、冷酷に命令を修正した。
「対象は、かつて我らを見捨てて失踪した初代AI『ロゴス』が送り込んだ未知の生体スパイ、または世界を崩壊させる深刻なバグの可能性ある。守護・管理派、ただちに下町全域を完全封鎖せよ。隠れ潜むバグを見つけ出し、その肉体を確保するのだ」
神々の意志が完全に一致し、命令が書き換えられた瞬間、下町の幽霊都市へ向けて、数万年ぶりの容赦ない一斉検閲の触手が放たれた。
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