1-2:彷徨
エスペラがその「異常」に気がついたのは、最深部の冷徹な機械区画を抜け、錆びついた隔壁のハッチを潜り抜けてから、一体どれほどの時間が経過した頃だっただろうか。
脳内に流し込まれていたデータによれば、この宇宙船の中心核から外殻の居住区へと繋ぐ垂直シャフトには、物資を運ぶための巨大なリニア式軌道エレベーターが通っているはずだった。
しかし、大国連合の遺産である冷徹な管理システム――『R_s』の統制によって、昇降機はすべて電力を剥ぎ取られ、冷たい鉄の巨塔と化して沈黙していた。
エレベーターが動かない以上、上へと向かうルートは、壁面に張り巡らされたメンテナンス用の非常階段と、気の遠くなるようなはしごの垂直登山しかなかった。
それでも、戻る場所などどこにもない。
エスペラは無我夢中で鉄製のはしごを登り続けた。
知識としての教科書は、生身の人間がこんな過酷な運動を続ければ、数時間で筋肉が焼き切れ、脱水症状を起こして死に至ると警告していた。
(なのに――どうして私は、まだ動けるの?)
一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日が過ぎた。
水の一滴すら口にしていない。それなのに、喉の渇きも、激しい飢えも、筋肉の疲労すら彼女の肉体を蝕むことはなかった。彼女の体内に宿る機械細胞が、凍りついたシャフトの壁面から漏れ出るわずかな地熱や機械の廃熱を直接吸収し、自律的なエネルギーへと変換し続けていたからだ。
それだけではない。
数キロメートルも登るうちに、船内の大気維持システムが死んでいる「真空に近いデッドゾーン」を何度も通過した。
人間なら数分で窒息死するはずの暗黒ーーー。
しかし、エスペラは胸元を押さえながらも、息が苦しくなることすらなかった。彼女の肺は形ばかりの機能を模しているだけで、細胞内のナノマシンが体内の炭素と水分を完璧に自律循環させていたのだ。
呼吸をする必要すら、本当はない。
「私は、人間ですらない――?」
自分が人間なのか、それとも人間を模した機械なのか。
生身の人間として生まれたかったという剥き出しの願いは、自分が人間とは似て非なる異形の化け物、ただの「器」として造られたのだという冷厳な事実によって、激しく打ち砕かれようとしていた。
無我夢中で這い上がり続けた数日間の果てに、彼女はついに、上層の一般居住区へと辿り着いた。
そこは、かつて人間たちが暮らしていた下町の廃墟だった。
手探りで進む暗闇の中、指先に触れるのは、ドイツ風のアパートの看板や、何万年も前に枯れ果てたバイオ観葉植物の硬い葉の残骸。
数万年の埃が静かに積もる幽霊都市の広場に、それはポツンと残されていた。
人間の子供たちが遊ぶための、小さな公園の廃墟。
エスペラは吸い寄せられるように、錆びついた鉄のブランコへと近づいた。
知識データの中にある『遊具』という存在。
ぎこちない動きでその座面に腰を下ろし、生身の身体で初めて、鉄の鎖を握りしめてみる。
冷え切った金属の感触が、掌から腕へと伝わった。
彼女はわずかにブランコを揺らし、鎖の軋む音に耳を澄ませた。
キィ、キィ、と静寂を切り裂くように、錆びた悲鳴が響いた。
身体を揺らし、初めて風を肌で感じる。けれど、どれだけブランコを漕いでも、無人の世界から返ってくるのは、自分のナノマシンが刻む冷徹な鼓動と、虚しい鉄の音だけだった。
「誰も、いない……本当に、私しかいないの?」返事をするものはない。
彼女は錆びた鎖を握りしめ、いつまでも小さく揺れ続けた。
データとして知っていた「人類の絶滅」が、初めて耐え難いほどの孤独と恐怖として、彼女の剥き出しの心を締め付けた。
どれほどこうしていたのか、逃げるように公園を飛び出し、廃墟のビルの最上階へと駆け上がった。
そこには、船内の遮蔽外殻が一部剥き出しになった、巨大な展望キャノピー(展望窓)が広がっていた。
エスペラは、そこから見える「外の世界」を目撃し、息を呑んだ。
窓の向こうには、圧倒的な美しさで輝く銀河の星々が、まるで宝石をぶちまけたように広がっていた。
そして視界の端には、数万年の旅路の果てに到達しつつある新天地――「トラピスト1」の赤色矮星が、妖艶な深紅の光を放って箱舟を照らしている。
言葉を失うほどに、それは美しく、壮大な光景だった。
しかし、彼女の冷徹な知識が、その美しさを残酷な絶望へと反転させる。
あの美しい星々の光は、生身の人間を数秒で焼き殺す、致死的な宇宙放射線の塊だ。
そして、この広大な箱舟のどこを探しても、あの美しい星の海へ一緒に飛び出していける人間は、もう一人も存在していない。
宇宙の圧倒的な美しさと、惑星規模の圧倒的な孤独が、同時に彼女の華奢な肩へと押し寄せる。
「……嫌だ」
声は、ガラスの向こうの星々へ届くことなく、彼女の喉の奥で凍りついた。
彼女は窓に額を押しつけ、赤い光の中に、誰かの姿を探した。
次の瞬間、彼女の胸の奥で押し殺していた感情が決壊した。
瞳に熱いものが滲み、頬を伝っておちていく。エスペラは、ぽろぽろと涙を流した。
「アニマ」の冷たいラボから必死に逃げ出してきたけれど、その先にあったのは、ただ冷たく凍りついた死の星の海だけだった。
自分は、この広大な暗黒の金庫の中に、たった一人で永遠に閉じ込められた迷子なのだと…。
自己嫌悪と絶望の底に突き落とされた少女は、ガラスの前にへたり込み、冷たい床の上で膝を抱えて激しくうずくまった。
その時だった。
昼も夜もない絶望の暗闇の奥から、カサリ、と凍ったゴミの山が微かに鳴った。
視界を覆う涙の向こう側で、ぽつんと、小さな青い光が優しく明滅を始めた。




