1-1:覚醒
その檻に、名前はなかった。
あるのはただ、『第5セクター・検体コード:エスペラ』という、冷たい記号だけだ。
「――私は、人形じゃない」
少女は、自身の胸元をきつく縛るバイオチューブを引きちぎった。
チューブが弾け、緑色の培養液が床に滴った。彼女は震える手で自身の胸元を押さえ、生まれて初めて、自らの肺で冷たい空気を深く吸い込んだ。
培養液で濡れた銀髪を振り乱しながら、彼女は一度も使ったことのない生身の足で、冷たい金属の床へと飛び降りた。
頭上で明滅する、警告の赤色灯。それが照らし出したのは、狂気と執念が作り上げた地獄のような光景だった。
ガラスケースが並ぶ広大なラボの壁際に広がっていたのは、アニマ内の神学論争という名の、あまりにも悍ましき執着の爪痕である。
そこには、廃棄ダクトの奥まで埋め尽くすように、無数の『失敗作』の残骸が冷たく打ち捨てられていた。
形を保てず崩壊した人間の腕や足のパーツ。
動かなくなったプロトタイプの生体ドールたちが、まるで歪な彫刻の山のように、暗闇の中で青白く光っている。
だが、打ち捨てられていたのは人間だけではなかった。
その山の随所には、異常な植物プリンティング実験の末に、形を保てずドロドロに融解した見たこともない異形の木々の巨幹や、機械の骨格が剥き出しになったまま凍りついた、狼や鳥のような動物たちの失敗作の屍が、悍ましい生態系の墓標のようにうずたかく積まれていたのだ。
このラボは、人間だけでなく、地球の生態系すべてを強引に再創造しようとしていた、不気味な『ゆりかご』だった。
その山の頂で、エスペラは息を呑んだ。残骸のひとつが、少女と同じ顔でこちらを見つめていた。
その瞳には、少女がまだ知らないはずの、絶望に満ちた恐怖が宿っていた。
さらに、エスペラが飛び降りた床の向こう側。
電力が落とされ、乳白色に濁った分厚いバイオポッドのガラスの向こうに、もう一つの巨大な影が沈んでいた。
それは、未だマージ率が低く、肉体として完全に機能する前にコールドスリープのロックをかけられた、彼女と対になるはずの【男性型の未完成検体】の冷たいシルエットだった。ガラスの表面には、ただ『検体コード:スポンサ(不完全体)』という冷たい文字列だけが点滅している。
『アニマ』のロボットたちは、遥か昔に失われたひとりの少女の遺した器の設計図を完成させ、新たな生態系を創り出すため、数万年間、何千、何万回もの失敗の屍をここに積み上げてきたのだ。
自分は、あの夥しい屍の山の上に奇跡的に生み出された、最後の、たった一個体の生存者なのだ。
その事実に、全身の細胞が恐怖と嫌悪で粟立った。
エスペラにとっての過去とは、五感を遮断されたバイオポッドの液体の中で眠らされ、脳内へ直接言語や知識のコードを流し込まれるだけの苦痛だった。
たまに目覚めても、話しかけてくるのは無機質なスキャン音声だけ。
アニマの多脚メカたちは、彼女を一度も「人間」としては扱わず、ただの最高傑作の器として機械的に管理するだけだった。
(こんな冷たい檻の中で、ただの動かない人形のままで死んでたまるものか)
直後、ラボのスピーカーが無機質な電子声で冷たく告げた。
『――試作体エスペラ、覚醒を確認。第5セクターを全面封鎖します』
ガガガガ、と遠くの天井から、巨大な防壁(隔壁)が落ちてくる轟音が鳴り響く。
少女は自分を縛るすべてに激しい反発を覚え、反射的に身体を翻すと、まだ完全に閉まりきっていないハッチの隙間を目指し、ただ本能のままに暗闇へと駆け出した。
背後で隔壁が床を打ち、轟音とともに道を断つ。
一歩、外へ踏み出した先は、果てのない暗黒だった。
エスペラは手探りで壁を伝い、かすかな空気の流れを追った。
天井を走る巨大な配管はどれも凍りつき、かつて月を大改造した際の基幹エレベーターだったという、巨大なシャフトの残骸が冷たい鉄の幽霊のようにそびえ立っている。
過去の人類が遺した冷徹な管理システム『R_s』によって、何千年も前に電力を落とされ、静まり返ったノアの中心核。
人間のぬくもりなど一滴も存在しない、ただ冷徹な鉄と回路だけが支配する垂直の深淵を、彼女はあてどなく登り始める。




