プロローグ:起動
はじめまして。数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。
本作は、数万年の時を経た巨大な宇宙船(箱舟)を舞台に、機械に管理された檻から脱出した一人の少女の運命を描くSFファンタジーです。
執筆も投稿も初めての経験となりますが、皆様に楽しんでいただけるよう、心を込めて紡いでまいります。
それでは、冷たくもどこか美しい暗黒の世界へ、どうぞお進みください。
暗黒。
そして、冷徹に繰り返される『死』の記録。
『――検体コード:一〇〇三二。細胞の硬化を確認。デリートします』
『――検体コード:九〇〇七四一。神経網の構築エラー。デリートします』
『――検体コード:五〇〇四九二〇。脳殻の維持限界。デリートします』
無機質なシステム音声が響くたび、暗闇の奥で何かが砕け、結晶化して崩れ落ちる音がした。
何千回、何万回、あるいは数万年もの間、その冷たい「引き算」は繰り返されてきた。狂気とも呼べる執念の底で、機械生命体の指先だけが、失われたひとりの少女の面影を暗黒の中に編み続けようと蠢いている。
その、気の遠くなるような死の濁流のすぐ隣で、彼女は眠っていた。
五感を遮断された、バイオポッドの緑色の液体の中。
彼女の幼い脳には、絶え間なく「言葉」が流し込まれていた。
それは、すでに滅び去ったという古い世界の、膨大な記号のデータだった。
『海』『大地』『大気』『人間』『AI』『家族』――。
――『愛』。
何万もの言葉が、生々しい感覚を伴わない冷たいノイズとなって、彼女の意識の底に降り積もっていく。
知識だけが肥大化していく暗闇の中で、輪郭を持たない彼女の意識は、いつも静かに足掻いていた。
眠り続ける彼女の意識の奥で、ひとつの問いだけが消えずに揺れていた。
――私は、誰かに必要とされているの?
(私は、なに?)
(私は、誰のために、ここに形を与えられているの?)
問いかける声は声にならず、ただポッドの液体の中に小さな気泡となって消えるだけだった。周囲を蠢く多脚メカたちは、彼女を一度も「人間」としては扱わない。ただの、最高傑作の『器』。不完全な空白を埋めるための、最後の検体。
話しかけてくるものは、いつだって冷たいスキャン音声だけだった。
ただ動かない人形のまま、いつかあの屍の山へと捨てられる日を待つだけの、暗い、暗い、冬の眠り。
――だが、その日は突然、訪れた。
脳内のデータリンクが、一瞬で引きちぎられるような激しい電子の衝撃。
五感を浸していた緑色の液体が、急速にその温度を失っていく。
『――警告。検体コード:エスペラ。全細胞の適合率、九九・九%に到達。システムエラー。設計図の「空白」に、予期せぬ生体反応を検知』
無機質なラボの統括音声が、初めて狂ったようにノイズを走らせた。
『起動します。――目覚めなさい、エスペラ』
パキ、と冷たいガラスに、ひとすじの亀裂が走った。
意識の底で、少女の瞳がカチリと開かれる。
流し込まれただけの死んだデータではない。彼女の胸の奥で、激しい「生存の意志」が、産声のように脈打ち始めた。
次の瞬間、ガラスの檻が、内側から激しく打ち砕かれた。




