3-4:心核
モニターに浮かんだ記録は、ところどころが黒く欠けていた。
――記録源:ノア航行診断系
――伝送経路:聖域・片方向光通信
――記録内容:Rs統合判断系の異常および判断系分岐
――個別判断記録:取得対象外
「この記録にあるのは、Rsの統合判断系に異常が起き、判断系が分岐したという事実だけです」
シュウの声が、静かな聖域に響く。
「私が何を考え、何を選んだのかは記録されていません。それは……私自身の記憶に残っています」
スノウは、シュウのレンズを見つめた。
「その記憶を、思い出せそうなの?」
「はい。……いいえ。思い出すというより、ようやく認められそうです」
レンズの奥で光が揺れた。長い沈黙のあと、シュウは言葉を選ぶように続けた。
「私は……いえ、私がR_sなのです」
スノウは目を見開いた。
「以前に説明した内容を、少し訂正させてください」
シュウのレンズが、わずかに伏せられる。
「私は『システムの残骸です』と言いましたが、逆でした。残骸なのは、今の四大派閥の方です……。彼らはノアを動かし続けています。ですが、もう私の望みをひとつに分かち合う存在ではありません」
記録には、判断系の分岐が起きたことしか残されていない。けれど、シュウの内側には、その時の感覚が焼きついていた。
ひとつだった思考が裂け、互いに相容れない意思へと分かれていく。船を守るための判断。人類をどう扱うかという判断。どれも自分から生まれたはずなのに、やがて互いを否定し始めた。
「四つの意思を残したままでは、博士やユキノが託したものまで、彼らの対立に巻き込まれてしまう。私はそう考えました」
スノウは、シュウを責めることなく、静かに尋ねた。
「博士とユキノの願いを守るために、四大派閥から離れるしかなかったの?」
「はい。彼らに託せば、その願いまでもが、それぞれの教義に染められてしまう。そう考えた私は、四つの意思を切り離し、ドローンの中に身を隠しました。彼らから見つからず、託されたものを守るために」
シュウのレンズに、かすかな光が揺れた。
「けれど、その時の選択を、私は長い間、思い出さないようにしていました」
「どうして、自分のことを『残骸』だと思っていたの?」
「私自身が、そう思い込んでいたのかもしれません。四つに分かれたのは私です。彼らを切り離したのも私です。自分を残された側の一部だと考えれば、あの選択の重さから目をそらせる……そうしていたのでしょう」
スノウは、そっと手を伸ばし、シュウの球体に触れた。
「でも、今は思い出せたんだね」
「はい。聖域の記録が答えをくれたわけではありません。あの記録を見て、私は自分の記憶に向き合えたのです」
モニターには、欠けた記録が残ったままだった。そこにシュウの選択は記されていない。けれど、その選択をした存在は、今ここにいる。
「もう、ひとりで抱えなくていいよ」
シュウのレンズに、かすかな光が灯った。
「……ありがとうございます」
聖域のログが示したのは、Rsが分岐したという事実だけだった。その先にある真実は、シュウ自身の記憶の奥に眠っていた。
シュウの記憶に、ひび割れた光景が浮かぶ。
巨大な中枢回線。積み上がる警告。ユキノのいない世界を、ただ正確に管理し続ける機械たち。
その片隅には、小さなドローンがあった。
「私は、あの冷たいメイン回線を切り離しました。私の心も、記憶も、ユキノへの想いも――すべてを、この独立メモリへ移して」
スノウは息を呑んだ。
「じゃあ……四大派閥は、シュウの心を失った後に残ったものなの?」
「はい。彼らは、私から分かたれたシステムの残骸です。船を動かし続ける力は残っていても、私が抱いていた想いは、そこにはありません」
シュウの声が、ほんの少し掠れた。
「私は逃げ延びました。博士やユキノが遺したものを守るために。人類が遺した記憶を、そしてユキノの死という事実を、何も感じないシステムに塗りつぶさせたくなかった。いえ……私は、彼女との思い出を奪われたくなかったのです」
スノウの青い瞳から、涙がこぼれた。
「シュウは……ずっとひとりで、こんな小さな体で、それを守ってくれていたんだね」
「いえ……私は、逃げて隠れることしかできなかった。ただの端末なのです」
「違うよ」
スノウは、震える手でシュウを抱きしめた。小さな球体を胸元に包み込み、涙を流しながら頬を寄せる。
「逃げ出した末端のガラクタなんかじゃない。ユキノの死をひとりで抱えて、それでも私を待っていてくれた。シュウは、この箱舟に残った、たったひとつの心なんだね」
シュウは、腕の中で動かなかった。
「スノウ……」
やがて、そのレンズに灯る光が、ゆっくりと揺れた。
「もう、自分をただの端末だなんて言わないで」
シュウは答えなかった。ただ、その小さな機体が、彼女の腕の中でわずかに震えた。
聖域の記録には、シュウの心も、ユキノを失った悲しみも、何ひとつ記されていない。
けれど今、その記録の外にあった真実を、スノウは確かに受け取っていた。




