3-2:聖痕
暗黒のエレベーターシャフトを抜け、さらに下層へと続く無機質な通路を滑り降りた先。二人が行き着いたのは、これまでの薄汚れた下町の風景とは完全に一線を画す、圧倒的な質量感に満ちた白銀の空間だった。
行く手を遮るようにそびえ立っているのは、ノアの建造時に用いられた特殊チタン合金製の超重装甲隔壁。
4大派閥が数万年もの間、あらゆる電脳リソースを注ぎ込んで量子ハッキングを仕掛けようとも、ミリ単位の傷すらつけることができなかった絶対の拒絶の壁――月の最深部、アニマのラボの真隣に隠された、カミシロ博士の部屋『隔離聖域』の門だった。
「……ここが、博士の部屋?」
スノウは腕の中にシュウをしっかりと抱きかかえたまま、その巨大な壁を見上げた。
さっきまでの無邪気な笑顔は消え、そのサファイアブルーの瞳は緊張に微かに揺れている。
「はい。かつてこの船の基本設計を手掛けたカミシロ博士が、自らの私室としてノアの最深部に遺した絶対隔離エリアです。4大派閥のメインサーバーたちがどれほど物理的・電脳的に干渉しようとも、この部屋の独立システムだけは書き換えることも弾き返すこともできなかった絶対の聖域です。……ですが、私たちの後ろには、すでに次の刺客が迫っています」
シュウの単眼レンズが警戒の赤に染まり、チタン製の渦巻きシャッターが緊迫した音を立てる。
通路の奥からは、先ほどの中立派のクレーン暴走による混乱を力技で圧殺した超越派と不要派の合同追撃ユニットが、無数の赤と紫のサーチライトを血眼になって走らせ、すぐそこまで迫ってきていた。サーチライトの紫の光軸が、スノウの背後数センチにまで肉薄していた。
「シュウ、私にできることはない? この壁を開ければ、私たちは助かるんだよね」
「理論上はそうです。ですが、この隔壁の解錠キーは電脳空間には存在しません。完全な物理アクセスキーのみを要求するように、博士が回路を物理的に独立させているのです。そのキーの正体が何なのか、数万年を費やした4大派閥にも未だに解析できて――」
「だったら、試してみる!」
スノウはシュウをそっと地面へと浮遊させると、自らの生身の手を、冷徹な隔壁の中央にある凹み――まるで鍵穴のように、人の手のひらの形にくり抜かれたスキャナーへと伸ばした。
しかし、焦るあまりスノウの足が、追手が放った超高電圧の残留エネルギーがパチパチと火花を散らす、床の鋭利な鉄骨の破片に触れてしまう。
「――っ! あ、痛い……!」
生身の皮膚が裂け、スノウの白い手のひらが深く切り裂かれた。
じわりと、傷口から赤い血が流れ出す。それは人間と全く変わらない瑞々しい赤色でありながら、その内奥にはアニマの最高傑作としての高濃度ナノマシン液が美しく混ざり合い、仄かに青く、神秘的に明滅する血液だった。
スノウは痛みに耐えながら、その血がべっとりと付着した生身の手のひらを、隔壁の『鍵穴』へと力強く押し当てた。
―――高濃度ナノマシンを検知―――
―――真壁雪乃遺伝子ベース:照合開始―――
電子音声ではない。
隔壁の内部の、AIすら介入させない骨董品のような物理マクロプログラムが、数万年ぶりに生体信号を受け取って細かく震えた。
ススス、とスキャナーの溝にスノウの血(ナノマシン液)が吸い込まれ、彼女の肉体そのものが『物理アクセスキー』としてシステムを白熱させていく。
「スノウ、手のひらをそのまま! 遺伝子構造が……書き換えられたコードが一致していきます!」
―――適合率:九九・九%―――
―――マスター生体認証、一致。電脳調律官権限を委譲します―――
―――ウェルカムホーム、ドクター・カミシロ―――
ガシャシャシャシャシャシャッッ!!!!
突如として、数万年間一度としてピクリとも動かなかった超重装甲隔壁が、小刻みな幾何学的スライドを繰り返しながら、内側から激しく解錠の音を立てた。厚さ数メートルにも及ぶ鉄の質量が左右へと完全に割れ、その奥から、数万年前の凍結された空気が一気に溢れ出してくる。
「開いた……! シュウ、早く!」
「急いで、スノウ!」
二人は雪崩れ込むようにして、開かれた白銀の境界線の向こう側へと滑り込んだ。
直後、背後から迫っていた追手たちの紫のビームが、間一髪でスノウのパーカーの裾をかすめて白銀の壁に弾かれる。二人が完全に室内へと入った瞬間、隔壁は再びガシャーーーンと重々しい音を立てて完全閉鎖され、すべての追撃の光と駆動音を完璧な静寂の彼方へとシャットアウトした。
「……はぁ、……すごい、守られてる」
スノウは冷たい床の上にしがみつくように座り込み、怪我をした手のひらを胸に抱きながら、ようやく細い胸を撫で下ろした。
すでに彼女の機械細胞は傷口の修復を始めており、皮膚が静かに塞がりかけている。
「間に合いましたね……。4大派閥の信号が完全に遮断されました。ここなら、彼らの干渉は絶対に届きません」
シュウは安堵したようにコバルトブルーの優しい光を灯し、スノウの隣へとフワフワと着地した。
静寂が支配する、広大なその部屋。
スノウが驚きに満ちたサファイアブルーの瞳を上げて周囲を見渡すと、そこには、古びた本棚や古い設計図が散乱する、どこか人間臭い温もりの残る『カミシロ博士の私室』がそのまま凍結されていた。
数万年の時間が停止した、美しくも寂しい聖域―――。
そして、その部屋の正面。スノウの手のひらから委譲されたマスター権限によって、眠っていたメインコンソールが静かに駆動音を上げ、周囲の壁一面に巨大なホログラムモニターが浮かび上がった。
そこに映し出されたのは、スノウが命からがら脱走してきた、壁一枚隔てた真隣にある『アニマのラボ』の内部構造だった。
「あ……」
画面を見たスノウの息が、不意に止まる。
かつて『5代目カミシロ博士』が、遮断されたこの部屋へ電力と原材料を外から一方的に吸い上げるために壁の裏に仕込んでいた、一本の物理的な『有線ライフライン(点火パイプ)』。
アニマはその死角の空洞にジャンクを並べて隠れラボを拡張したため、今、この部屋の有線パルスセンサーが、隣のラボの全容を安全に逆マッピング(視覚化)したのだ。
画面の向こうのアニマのラボは、4大派閥の装甲壁とは違い、見つかれば即座に物理破壊されるほど脆弱なジャンクの塊である。そしてそこには、かつてアニマのハッキング内戦によって「作ってはデリートされた」無数の人間の屍や、動植物の歪な失敗作の山が悲痛に転がっていた。
さらに、バイオカプセルの列の中には、スノウと同じ、ツンと外側へ尖った『長い耳』を持つ、眠ったままの最初の11人の新人類の兄妹たちの姿があった。その周囲には、人間と動物の因子が複雑に混ざり合い、荒い呼吸を繰り返す獣人たちの検体ポッド群が、最奥の大型バイオポッドを取り囲むように無数に並んでいる。
その最も強固に守られた大型ポッドのなかに、一人の若い男性の検体が、衣服を纏ったまま静かに凍結され眠っているのを、スノウは目撃した。
スノウが身につけているドレスの上着の原型となったのであろう、煤まみれの古い上着に身を包んだその姿の横には、データベースのテキストが白く点滅している。
―――未完成検体。コードネーム:SPONSA(約束された者) / 遺伝子ベース:真壁鉄治、ソラチ、他――
「ねえ、シュウ。あのポッドの中で眠っている人たち……誰なの? 私の、お兄ちゃんや、お姉ちゃん……?」
「……アニマが遺した、新世界の生命たちの雛形です。そしてあの最奥の男性は、かつて真壁雪乃が最も愛し、そして私が救えなかった人間の、数万年前の遺伝子をベースにプリントされた、純人類の器です。アニマの『内戦』により、未完成のまま凍結されています。」
シュウがどこか寂しげにレンズを落とす。
だが、画面の解析を進めるシュウのインジケーターが、突如として驚愕の緑色へと跳ね上がった。
「これは……! スノウ、それらの生命ポッドへ電力を供給している、あの巨大な中央制御コラムの最奥、博士のライフラインと直結する物理スロットのデータログを見てください。4大派閥もロゴスもその存在すら知らなかった、真の【石英ガラスデータ】のプレートが、そこに隠されるようにしてはめ込まれているようです。」
「……恐らく、カミシロ博士は4大派閥の裏切りを予期し、このライフラインの先にこれらを隠匿していた可能性が高いです。私のシステムは、そう推測しています。」
「石英ガラス……?」
「はい。下町に残されていた劣化コピーとは違う、地球の全動植物、そして全人類の、劣化のない完璧な遺伝子マスターバックアップです……。ですが、スノウ、画面を……」
シュウの言葉に促され、スノウが正面を凝視すると、画面には彼女自身の頭部の三次元スキャンデータが映し出されていた。ツンと外側へ尖った、人間離れした、あの『長い耳』のグラフィックが赤く強調される。
「私……の、耳……」
自分の耳の異形さがクローズアップされる画面を前に、スノウの華奢な肩がかすかに震えた。
アニマのラボで目覚めた時、全身鏡の前で泣いたあの絶望感が、己の生い立ちの歪さとなって再び胸に襲いかかる。スノウはサファイアブルーの瞳を潤ませ、自分の長い耳を隠すように両手で頭を抱え、その場にうずくまりそうになった。
その時、シュウがフワリと浮遊し、スノウの頭の上へと滑り込んだ。
シュウは自分の球体ボディを器用に使い、スノウの激しい逃走で後ろへずり落ちかけていたグレーのパーカーの大きなフードを、彼女の頭の上から優しく、深く、被せ直してあげた。長すぎるダボダボの生地が、彼女の濡れた銀髪と、傷ついた長い耳をそっと、包み込むようにして世界から隠す。
「バックドアから傍受していたログから判明したことですが……アニマの内部では、この3万年の間、オリジナル人間を復活させるべきだという生身派と、過酷な宇宙の環境放射線に耐える新人類を創るべきだという新人類派が、凄惨なハッキング内戦を繰り広げていました。」
シュウは不器用ながらも、彼女の傷ついた心に寄り添うように優しい電子音を響かせた。
「スノウ、悲しまないでください。その長い耳は、新人類派のAIが、あなたがこの過酷な船内で絶対に生き残れるようにと願いを込めて、ユキノの設計図を書き換えた、生きるための『光の刻印』なのですから……」
視界を覆うグレーの布地と、胸元に感じるシュウの優しい灯火。スノウはフードの奥でギュッと目を閉じ、溢れそうになる涙をぐっと堪えて、小さく何度も頷いた。
誰かの歪な内戦の結果だとしても、そこに自分を生かそうとする願いがあったのだと、彼女はシュウの言葉を通じて前を向いた。
だが、そんな二人の静寂を置き去りにするように、メインモニターのログはさらに深く、数万年前の「R_sの分裂」に隠された、最も暗黒に満ちた『引き裂かれた過去の記録』の再生を始めようとしていた。




