2-5:奇跡
過電圧によってバグった桜のピンク色のホログラム光と、タワーから放射された青白い放電の火花。
それらが網膜の裏にストロボのような残像を結ぶなか、ゴォォォォォッという烈風の風切り音が、耳元で狂ったように鳴り響いていた。
眼下に迫る日本街区のコンクリートの地面が、驚異的な速度でスノウの視界を埋め尽くしていく。
臨界熱に達したシュウの機体が、スノウのパーカーの袖とドレスの繊維をジリジリと焼き焦がし、生身の肉を灼く悍ましい熱線を放っていた。
しかし、スノウはその激しい苦痛に顔を歪めることすらなく、ただ愛おしそうに、腕の中の物言わぬ小さな球体をさらに強く抱きしめていた。
(このまま、地面に激突する――でも、絶対に離さない)
スノウが静かにそのサファイアブルーの瞳を閉じた、まさにその刹那だった。
ギギギギギギギギギギガガガアンッッ!!!!
突如として、幽霊都市の全大域を激しく震わせるほどの、地響きのような金属摩擦音が轟いた。
直後、スノウの身体は強烈な浮遊感に包まれる。本来、持ち主である【完全中立派】の制御下で、船体維持の単純作業以外には絶対に動くはずのない下町の「巨大自動貨物クレーン」が、深刻なシステムエラーを起こしたかのように唐突に作動していた。
クレーンの巨大な鉄製アームは、自由落下するスノウたちの速度と同調するように猛スピードで下方へと旋回し、その先端にある広大なスチール製の貨物パレットで、二人の身体を滑り込ませるようにして包み込んだのだ。
重力に逆らうのではなく、落下の慣性を強引に並行方向へと逃がす、奇跡的な制動コントロールだった。
「――え……?」
恐る恐るスノウが目を開けると、クレーンの超重量級アームはなおも狂ったように旋回を続けていた。EMPの激甚な電圧負荷によって完全な機能暴走を起こしたその巨大な鉄の質量は、タワーの放電から逃れようと降下してきた4大派閥のオプティカル・アイの残党たちを、蝿でも叩き落とすかのように物理的に薙ぎ払い、次々と木っ端微塵に粉砕していく。
ドガァァァン! ボゴォォン! と、鉄屑となって下町の闇へと沈んでいく敵ドローン群。
4大派閥のシステムにとって、それは人間(生体エラー)の出現に加えて発生した、最悪なタイミングでの「大規模な重機システムのバグ障害」でしかなかった。その計算外の混乱の隙を突くようにして、クレーンのアームは静かに動きを止め、二人を追手のサーチライトが絶対に届かない巨大なコンテナの影へと下ろした。
完全な静寂が、再び街を包み込む。
スノウはきしむ身体を起こし、すぐさま自身の胸元へと視線を落とした。
腕の中のシュウは、完全に沈黙していた。
煤まみれになったチタン製の渦巻きシャッターは不格好に半開きになったままで、正面の大きな単眼レンズからは、あの温かな琥珀色の光が完全に失われている。
「シュウ……? 嘘、でしょう……?」
スノウは震える手で、彼の冷え切り始めた球体ボディーに触れた。
衣服が焦げ、肌が灼けた痛みなど、今の彼女には感じられなかった。
この果てしない孤独な宇宙船内で、私を数万年もの間ずっと待っていてくれたと告げてくれた、たった一人の相棒。絶望に満ちていた私の心に名前という光をくれ、居場所をくれた彼が、このまま動かなくなってしまう。その事実の方が、何百倍も、何千倍も恐ろしかった。
「嫌だよ、シュウ。目を覚まして……! 私を置いていかないで……っ!」
ぽたぽたと、スノウのサファイアブルーの瞳から、大粒の透明な雫が零れ落ちる。
アニマのラボで目覚めてから、初めて流す『本物の涙』。それがシュウの傷ついたレンズの表面に触れ、半開きのシャッターの隙間から、彼の電子脳の奥深くへと染み込んでいった。
―――高濃度ナノマシンを検知―――
ジジ……、ジジジッ……。
―――マスター生体認証、一致―――
シュウの機体の内奥で、小さな、だけど確かな起動音が鳴り響いた。カシャ、カシャシャッとチタンのシャッターがゆっくりと螺旋を巻いて開き、そのレンズの奥に――どこか懐かしく、優しいコバルトブルーの灯火が、奇跡のように再点灯した。
『……スノウ。……泣かないで、ください。私の、大切な……』
シュウはそれ以上、言葉を紡がなかった。システムのエラーによるものか、あるいは彼自身の回路が抱いた名付けようのない感情のバグによるものか。ただ、そのレンズはかつてないほど温かく明滅していた。
「シュウ……! シュウ、シュウ……!!」
スノウは声をあげて泣きじゃくりながら、再起動したシュウを再びその胸に強く、壊れんばかりに抱きしめた。
だが、生きている彼の温もりを感じた瞬間、安堵は激しい感情の激流となって、少女の唇から溢れ出した。
「シュウのバカ! こんなこと、二度としないで……っ! 私だけ助けようなんて、そんなの絶対に許さない……! 私を、私をもう一人にしないで……!」
小さな拳で錆びついた装甲を弱々しく叩きながら、スノウは子供のように声を震わせて怒った。自分を置いていこうとした彼の優しさが、たまらなく悲しくて、怖かったのだ。
叩かれたシュウのレンズが、ハッとしたように微かに丸くなる。数万年間、誰かのために自らを犠牲にすることを「最適解」としてきた電脳に、彼女の涙ながらの叱責が、新しい意味を刻み込んでいく。
シュウはフワリと微弱な電磁浮遊を浮かせ、激しい落下風に吹き飛ばされていたグレーのパーカーのフードを再びそっと持ち上げると、彼女の濡れた銀髪と尖った耳の上に、優しく被せてあげた。
『……ひどく心配をさせてしまいましたね。すみません。私はもう、あなたを一人になんてさせません。』
今度ははっきりと、迷いのない音声だった。それはかつてないほど深い愛着を帯びて、風の冷たいコンテナの陰に響いた。
「うん……っ!絶対……だからね!」
スノウは長すぎる袖で涙を強く拭い、シュウをしっかりと抱えたまま立ち上がった。
二人は手を取り合うようにして、クレーンの影から、さらに上層へと続く未知の暗い連絡通路へと足を踏み出した。
幽霊都市の亡霊たちを背後に残し、少女とドローンの、世界の真実を巡る本当の旅が、今ここから始まるのだった。




