Episode09_朝の聖なる舞
第9話 朝の聖なる舞
ぎっくり腰の再発を防ぐには、日頃の運動が大事だ。
会社の健康診断で、産業医にそう言われたことがある。そのときは「はあ」と聞き流したが、異世界で動けなくなった今、身にしみて思う。
運動といっても、ジムもなければ、ランニングシューズもない。
だから俺は、子どもの頃から体に染みついている、唯一の運動をすることにした。
*
夜明け前。
聖者館のバルコニーに出ると、聖都の屋根が群青色に沈んでいた。東の空が、ほんのり白んでいる。
俺は肩幅に足を開いた。
頭の中で、ピアノの前奏が鳴る。
チャーンチャ、チャチャチャ、チャーンチャ、チャチャチャ。
夏休みの朝、近所の公園で、首から出席カードをぶら下げて。父さんに手を引かれて、眠い目をこすりながら。
「腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動から」
小声でつぶやきながら、両腕を上げる。
「いち、に、さん、し」
腕を振って、脚を曲げ伸ばし。腕を回す。胸を反らす。体を横に曲げる。前後に曲げる。体をねじる。
体が覚えている。三十三歳になっても、一つも順番を間違えない。
「腕を上下に伸ばす運動」
「斜め下に、胸を開く」
「体を回す運動。右から」
最後に、深呼吸。
ゆっくりと腕を広げ、冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、吐いた。
気持ちがいい。
腰も、ほんの少し軽くなった気がする。
満足して振り向くと、そこにペトルスが立っていた。
羽根ペンを握りしめ、帳面を開いたまま、震えていた。
「せ……聖者様……今のは……!」
「あ、いや、これはただの体操で」
「たいそう……!」
「ラ——っくしゅん!」
ラジオ体操、と言おうとしたら、くしゃみが出た。
固有名詞は、だめらしい。
「天上の……舞……!」
ペトルスの目から、涙がこぼれた。
「夜明けに、天へ向かって腕を伸ばし、体をねじり、回し、そして大いなる息を吸う……! これは、三百年前、夜明けの七人が女神に捧げたという、失われた『夜明けの舞』に違いありません……!」
「違うと思います」
「記帳いたします!!」
*
翌朝。
バルコニーに出ると、下の中庭に、修道士が十人ほど並んでいた。
みんな、俺のほうを見上げている。
期待に満ちた目で。
……やるしかない。
「腕を前から上にあげて——」
修道士たちが、いっせいに腕を上げた。
*
三日後には、中庭が修道士と司祭で埋まった。
五日後には、大聖堂前の広場に、民が集まりはじめた。
七日後には、聖都の夜明けの風景が変わっていた。
広場に、通りに、屋根の上に。パン屋も、鍛冶屋も、兵士も、修道女も、貴族の令嬢も。夜明けの鐘が鳴ると同時に、聖都じゅうの人間が外に出て、バルコニーの俺を見上げ、同じ動きをする。
何千人。いや、何万人かもしれない。
俺がいちと言えば、聖都がいちと言う。
俺が腕を回せば、聖都が腕を回す。
壮観だった。
そして、ものすごく恥ずかしかった。
「腕と脚の運動。……脚の曲げ伸ばしは、膝を痛めないように、無理せず」
聖都が、無理せず脚を曲げ伸ばした。
*
ペトルスによって、これは正式に「朝の聖なる舞」と名づけられた。
院の公式行事になった。
しかし、ひとつ問題があった。
俺の掛け声は、天秤を通して、直訳されて民に伝わっているらしい。
「腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動から」は、ほぼそのまま伝わる。問題ない。
問題は、「いち、に、さん、し」だった。
数字が、穂の単位で伝わっているらしいのだ。
「聖者様が、一穂、二穂、三穂、四穂と……!」
「舞うたびに、恩寵が積まれていく……!」
「八穂まで数えられた! 今朝は八穂だ!」
違う。それはリズムだ。
さらに、最後の「深呼吸」が、「深く呼び、吸え」と伝わっているらしく、民は全力で叫んでから息を吸っていた。
夜明けの聖都に、何万人もの「はあああああ!!」が響き渡る。
近所迷惑にもほどがある。
*
「聖者様の舞、私も覚えました!」
アリスタが、バルコニーの隣で、一緒に体操をしていた。
熱心だ。とても熱心だ。熱心なのだが、ところどころ間違っている。
「アリスタさん、それ、体を横に曲げる運動のときに、腕が逆です」
「えっ、こうですか?」
「逆の逆です」
「こう?」
「それは腕を回す運動です」
アリスタは「むずかしいです……」と眉を寄せながら、それでも楽しそうに腕を振り回した。
彼女が腕を大きく回した拍子に、バルコニーの手すりに止まっていた小鳥が、驚いて飛び立った。小鳥がくわえていた何かが落ちて、アリスタの手の中にすっぽりと収まった。
金の指輪だった。
「まあ。誰かの落とし物でしょうか」
「……すごいですね、本当に」
「運だけは、いいんです」
俺が感心して手すりにもたれると、同じ小鳥が戻ってきて、俺の肩にフンを落としていった。
*
七日目の朝のことだ。
広場は、いつものように人で埋まっていた。
「最後に、深呼吸」
俺は腕を広げ、ゆっくりと息を吸った。
広場の何万人が、「はあああああ!!」と叫んで、それから慌てて息を吸う。
その群衆の、一番端。
広場の隅の、日の当たらない路地の入り口に、白い無精髭の老人がひとり立っていた。
老人は、叫ばなかった。
静かに腕を広げ、ゆっくりと、正しい速さで息を吸い、正しい速さで吐いた。
それから、誰にも気づかれないうちに、路地の奥へと消えていった。
*
体操を終えて、部屋に戻る途中、ペトルスが帳面をめくりながら言った。
「聖者様。朝の聖なる舞を始めてから、聖都の民の腰痛の訴えが、三割減ったそうです!」
「……それは、よかったです」
本当によかった、と思った。
ラジオ体操は、たぶん、どこの世界でも体にいい。
俺の腰は、相変わらず痛かったけれど。




