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聖者様は領収書をご所望です ~経理主任(33)、異世界の聖者になったら、この国の帳簿が三百年分の粉飾決算でした~  作者: とっとっととっとって


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Episode08_自分には効かない

第8話 自分には効かない


 ぎっくり腰になった。


 朝、寝台から起き上がろうとして、床に落ちていた領収書の束を拾おうと、腰をかがめた瞬間だった。


 ぐきり、と。


 背骨の下のほうで、何かが外れる音がした。


「————っ」


 声が出なかった。息もできなかった。俺はそのまま、床に両手をついた四つん這いの姿勢で、石像のように固まった。


 三十三歳。


 異世界の聖者。


 四億穂の残高を持つ男。


 ぎっくり腰で、動けない。


*


「聖者様!?」


 朝食を運んできたアリスタが、悲鳴を上げた。


「どうなさったのですか! どこか、お怪我を!?」


「こ、腰が……」


「腰が!?」


「大丈夫です、ただの、ぎっくり腰で……っ」


「ぎっくり……天上の病でございますか!?」


「わりと地上の病です……」


 アリスタに肩を貸してもらい、這うようにして寝台に戻った。仰向けになろうとして、また激痛が走る。結局、横向きにえびのように丸まるのが、一番ましな姿勢だった。


 情けない。


 そうだ、と思った。


 俺は、聖者なのだ。ニコの折れた足を治したのだ。ぎっくり腰くらい、自分で治せばいい。


「……残高照会」


 帳簿が浮かんだ。


 俺は、理不尽な叱責の行に意識を向けた。千二百八回。十回分くらい使えば、腰の一つや二つ。


 ——この腰に。


 振り替える。


 何も起きなかった。


 代わりに、帳簿の下のほうに、赤い文字がにじみ出た。


 ※貸方は本人に充当できません


「……は?」


 もう一度試す。


 ※貸方は本人に充当できません


 もう一度。今度はサービス残業の行で。


 ※貸方は本人に充当できません


 俺は帳簿を見つめたまま、呆然とつぶやいた。


「自己取引禁止かよ……」


*


 自己取引。会社の役員が、自分の会社と取引して、自分に有利なように利益を移すこと。会社法では原則として禁止されている。


 まさか異世界の奇跡にまで、そのルールが適用されるとは思わなかった。


 他人の足は治せる。自分の腰は治せない。


 医者の不養生、みたいなものだろうか。いや、ちょっと違う。医者は自分を治そうと思えば治せる。俺は、治せない。仕組みとして、できない。


「聖者様の奇跡は、ご自身には及ばないのです」


 アリスタが、寝台の横に膝をついて言った。


「院でそう教わりました。聖者様の恩寵は、すべて他者のためのもの。ご自身を癒すことも、お守りになることもできないと」


「……そう、なんですか」


「はい。ですから、聖者様のお体は、私がお守りします」


 アリスタは袖をまくった。


「失礼いたします」


「え」


 小さな手が、俺の腰に置かれた。


*


 結論から言うと、アリスタは揉むのがうまかった。


 うまかったし、強かった。


「いっ、いだだだだだ」


「ここですね。ここが固まっています」


「そこっ、そこは、だめ、あっ」


「我慢してください、聖者様。恩寵院では、年寄りの修道士様たちの腰を、毎日揉んでいたんです」


 細い腕のどこにそんな力があるのかと思うほど、親指が腰の奥の筋に食い込んでくる。痛い。痛いが、痛みの奥のほうで、固まっていた何かが、少しずつほどけていく。


「私が代わりに痛くなって差し上げられたら、いいのですけれど」


「……そういうのは、ないほうがいいです」


 言ってから、なぜそんなに強く否定したのか、自分でもよくわからなかった。


 誰かの痛みを、知らないうちに誰かが代わりに背負う。そういうのは、なんだか、嫌だった。


「代わるなら、せめて、自分で選んで代わりたいですね」


「自分で、選んで」


「はい。……いだだだだ」


 三十分後、俺はなんとか仰向けになれるようになっていた。


「……ありがとうございます。生き返りました」


「よかった」


 アリスタは額の汗を袖で拭い、ふわりと笑った。


 近い。


 寝台の端に腰かけた彼女との距離が、思っていたより近い。麦の穂のような色の髪から、日向の匂いがした。


 ——懐かしい。


 また、だ。


 この人のそばにいると、ときどき、そう思う。理由はわからない。


「聖者様」


「は、はい」


「聖者様のお国は、どんなところなのですか」


*


 どんなところ。


 俺は天井を見上げた。


 満員電車があって、厄予報があって、締めがあって、一円が合わなくて、母さんが腰を痛めていて。


 どう説明すればいいのか、わからなかった。


「ええと、俺の国は、日——っくしゅん!」


 くしゃみが出た。腰に響いた。


「いっ……」


「せ、聖者様!」


「だ、大丈夫です。……俺の国の名前、言えないみたいで」


 アリスタは、少し目を丸くして、それから、くすくすと笑った。


「天上の国の御名は、地上の者には聞かせてはならない、ということなのかもしれませんね」


「そういうことなのかな……」


「では、名前はいいです」


 アリスタは膝の上で手を組んだ。


「いつか、あなたの故郷のお話を聞かせてください。名前は言えなくても、どんな空で、どんな人がいて、どんなものを食べていたのか。私、聞きたいです」


 俺は、少し考えた。


 話せることは、たくさんある。満員電車のこと。月末締めのこと。母さんの唐揚げのこと。熊谷の、荒川の土手の桜並木のこと。


 でも、たぶん、いくつかの言葉で、またくしゃみが出る。


「……いつか、話します」


「約束ですよ」


「はい。約束です」


 アリスタは、嬉しそうに笑った。


*


 その夜、腰の痛みで目が覚めた。


 月の位置からすると、真夜中を少し過ぎた頃だろう。


 水を飲もうと、そろそろと寝台を降り、壁伝いに廊下へ出た。


 廊下の先に、小さな灯りが揺れていた。


 燭台を持った、細い後ろ姿。麦の穂のような色の髪。


 アリスタだった。


 こんな時間に、どこへ行くのだろう。


 彼女は音を立てないように静かに歩き、聖者館の渡り廊下を抜けて、天秤院の本館のほうへ消えていった。


 あちらにあるのは、司祭たちの居住区と、礼拝堂と、最上階の院長室だ。


 ——祈りの務め、かな。


 恩寵の子には、夜の祈りの務めもあるのかもしれない。修道院とか、そういうところは、夜中にも祈りの時間があると聞いたことがある。


 俺は水を飲み、寝台に戻った。


 横向きに丸まりながら、帳簿のことを考えた。


 ※貸方は本人に充当できません。


 他人は救える。自分は救えない。


 ということは——と、ふと思った。


 この四億穂で、俺は、自分のためには何ひとつできないのだろうか。


 自分の腰も治せない。自分の身も守れない。


 だとしたら、一年後、帰任するときは、どうやって帰るのだろう。


 ——まあ、院がなんとかしてくれるんだろう。出向なんだし。


 そう思って、目を閉じた。


 腰が痛くて、なかなか眠れなかった。


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