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聖者様は領収書をご所望です ~経理主任(33)、異世界の聖者になったら、この国の帳簿が三百年分の粉飾決算でした~  作者: とっとっととっとって


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Episode07_満員電車三年分

第7話 満員電車三年分


 聖都に来て、二週間が過ぎた。


 その日は「祝福の儀」だった。月に一度、聖者が大聖堂前の広場に出て、民の前に姿を見せる行事だという。


 広場は人で埋まっていた。


 石畳の上に、色とりどりの布の天幕。パンを焼く匂い。子どもたちの笑い声。屋台では、俺の書いた「ハクシ」の領収書の写しが、なぜか売られていた。


「著作権……」


「ちょさくけん?」


「なんでもないです」


 隣を歩くアリスタが首をかしげた。


 俺は白い聖衣を着せられ、広場の中央に設けられた壇へと歩いていた。前後を司祭たちが固めている。民が道の両側から手を伸ばし、聖衣の裾に触れようとする。


 こうして見ると、この国の人々は、みんな健康そうだった。


 顔色がいい。腰の曲がった老人がいない。咳をしている人もいない。百歳近いという老婆が、背筋を伸ばして花を売っている。


 三百年、病がほとんどない国。


 本当に、黄金期なのだと思った。


*


 悲鳴が上がったのは、俺が壇に上がろうとした、そのときだった。


 広場の端で、荷車が横倒しになっていた。


 小麦粉の袋を山積みにした、大きな荷車だ。車輪が石畳の溝にはまったらしい。崩れた袋の下から、小さな足が見えた。


「ニコ! ニコ!」


 女の人が叫んでいる。


 俺は、走っていた。


 聖衣の裾を踏みそうになりながら、人垣をかき分けて。後ろで司祭が何か叫んでいたが、聞こえなかった。


 男たちが袋をどけている。その下から、子どもが引きずり出された。七歳くらいの男の子だ。右足が、ありえない方向に曲がっている。膝の下が裂けて、血が石畳に広がっていく。


 男の子は、声も出ていなかった。白い顔で、浅い息をしている。


「ニコ……ニコ……!」


 母親が男の子を抱きしめて、泣き叫んでいる。


 俺は、周りを見た。


 司祭たちが、追いついてきていた。


「誰か、医者は」


「聖者様、お下がりください」


 年配の司祭が、俺の腕をつかんだ。


「この者への恩寵は、院の分配の手順に従って、後日——」


「後日?」


 耳を疑った。


「この子、今、血が」


「恩寵には手順がございます。申請を受け、院で審議し——」


 申請。審議。


 そんなもの、待っていたら、この子は死ぬ。


*


 どうすればいいのか、わからなかった。


 俺は医者じゃない。応急処置の講習を、会社の研修で一度受けただけだ。それだって、心臓マッサージのやり方しか覚えていない。


 でも、俺は聖者らしい。


 聖者なら、何かできるはずだ。何か。


 ——残高照会。


 目の前に、半透明の帳簿が浮かんだ。


 貸方残高、四億千二百八十七万六千三百穂。


 これが、俺の持っているものだ。


 これを、使えるのか。


 使い方なんて、誰にも教わっていない。でも、帳簿だ。帳簿なら、わかる。残高があって、それを何かに振り替える。仕訳を切る。左から右へ。


 俺は、ニコという子の、血まみれの足を見た。


 そして、自分の帳簿の一行目を見た。


 満員電車、五千二百八十回。


 ——これを。


 毎朝毎晩、知らない肘に肋骨を押され、知らない鞄に膝裏を押され、ただ黙って揺られてきた十年間を。


 ——この子の足に。


 振り替える。


 そう念じた瞬間、帳簿の数字が動いた。


 満員電車 5,280回 → 3,780回


 千五百回分。三年分くらいか。


 手のひらが熱くなった。いや、手のひらだけではない。体の内側から、何かが流れ出していく。ぎゅうぎゅうに押しつぶされた朝の電車の、あの圧迫感が、ほどけて、温かい光になって、俺の手からニコの足へと流れていく。


 曲がっていた足が、ゆっくりと、まっすぐになった。


 裂けた皮膚が、閉じていく。


 血が、止まる。


*


 ニコが、目を開けた。


 ぱちぱちと瞬きをして、自分の足を見下ろし、それから、俺を見上げた。


「……おじちゃん、だれ?」


「ニコ!」


 母親が、男の子を抱きしめて、声を上げて泣いた。


 一拍おいて、広場が、爆発した。


「奇跡だ!」


「聖者様の奇跡だ!」


「聖ハクシ様! ハクシ様!」


 歓声が、地面を揺らした。人々が泣きながら膝をつき、両手を組み、俺に向かって祈りはじめる。


 その中で、俺は、見た。


 司祭たちの顔が、真っ青になっていた。


 喜んでいる顔ではなかった。


 何かとんでもない損をした人間の顔だった。年度末に巨額の特別損失が出たと知らされたときの、役員たちの顔に、よく似ていた。


 年配の司祭が、震える声で言った。


「せ、聖者様……奇跡は、どうか、院の許しを得てから……」


 ——ああ。


 俺は、勝手なことをしたのだ。


 手順を飛ばした。申請も審議も通さず、独断で。会社なら、始末書ものだ。


「……出過ぎた真似をしました。すみません」


 頭を下げた。


 広場が、一瞬で静まった。


 そして、誰かが叫んだ。


「聖者様は仰せだ! 『まだ、済んでいない』と!」


「まだ足りぬと! もっと救うと!」


「聖者様は、我らをもっと救ってくださる!!」


 歓声が、さっきの倍になって返ってきた。


 司祭たちの顔色は、真っ青を通り越して、白くなっていた。


*


 騒ぎが収まった頃、ニコが母親の手を離れて、とことこと俺のところへ来た。


 さっきまで折れていた足で、ちゃんと歩いている。


「おじちゃん、ありがと」


「……どういたしまして」


「おじちゃん、パン好き? うち、パン屋なんだ。こんど持ってくね」


「ありがとう。楽しみにしてる」


 ニコは満面の笑みで手を振り、母親のところへ戻っていった。母親は何度も何度も、俺に頭を下げていた。


 俺は、もう一度だけ、帳簿を開いた。


 満員電車、三千七百八十回。


 十年分の、誰にも褒められなかった通勤が、三年分減っている。


 その三年分が、あの子の足になった。


 ——悪くない取引だ。


 経理の人間として、心の底からそう思った。


 あの電車の中で潰されていた時間に、意味があった。誰かの足一本ぶんの意味が。


 ふと横を見ると、アリスタが、両手を胸の前で組んで、俺を見ていた。


 目に、涙がたまっていた。


「聖者様は……人を、救わずにはいられない方なのですね」


 その声がどこか寂しそうに聞こえたのは、たぶん、俺の気のせいだった。


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