Episode07_満員電車三年分
第7話 満員電車三年分
聖都に来て、二週間が過ぎた。
その日は「祝福の儀」だった。月に一度、聖者が大聖堂前の広場に出て、民の前に姿を見せる行事だという。
広場は人で埋まっていた。
石畳の上に、色とりどりの布の天幕。パンを焼く匂い。子どもたちの笑い声。屋台では、俺の書いた「ハクシ」の領収書の写しが、なぜか売られていた。
「著作権……」
「ちょさくけん?」
「なんでもないです」
隣を歩くアリスタが首をかしげた。
俺は白い聖衣を着せられ、広場の中央に設けられた壇へと歩いていた。前後を司祭たちが固めている。民が道の両側から手を伸ばし、聖衣の裾に触れようとする。
こうして見ると、この国の人々は、みんな健康そうだった。
顔色がいい。腰の曲がった老人がいない。咳をしている人もいない。百歳近いという老婆が、背筋を伸ばして花を売っている。
三百年、病がほとんどない国。
本当に、黄金期なのだと思った。
*
悲鳴が上がったのは、俺が壇に上がろうとした、そのときだった。
広場の端で、荷車が横倒しになっていた。
小麦粉の袋を山積みにした、大きな荷車だ。車輪が石畳の溝にはまったらしい。崩れた袋の下から、小さな足が見えた。
「ニコ! ニコ!」
女の人が叫んでいる。
俺は、走っていた。
聖衣の裾を踏みそうになりながら、人垣をかき分けて。後ろで司祭が何か叫んでいたが、聞こえなかった。
男たちが袋をどけている。その下から、子どもが引きずり出された。七歳くらいの男の子だ。右足が、ありえない方向に曲がっている。膝の下が裂けて、血が石畳に広がっていく。
男の子は、声も出ていなかった。白い顔で、浅い息をしている。
「ニコ……ニコ……!」
母親が男の子を抱きしめて、泣き叫んでいる。
俺は、周りを見た。
司祭たちが、追いついてきていた。
「誰か、医者は」
「聖者様、お下がりください」
年配の司祭が、俺の腕をつかんだ。
「この者への恩寵は、院の分配の手順に従って、後日——」
「後日?」
耳を疑った。
「この子、今、血が」
「恩寵には手順がございます。申請を受け、院で審議し——」
申請。審議。
そんなもの、待っていたら、この子は死ぬ。
*
どうすればいいのか、わからなかった。
俺は医者じゃない。応急処置の講習を、会社の研修で一度受けただけだ。それだって、心臓マッサージのやり方しか覚えていない。
でも、俺は聖者らしい。
聖者なら、何かできるはずだ。何か。
——残高照会。
目の前に、半透明の帳簿が浮かんだ。
貸方残高、四億千二百八十七万六千三百穂。
これが、俺の持っているものだ。
これを、使えるのか。
使い方なんて、誰にも教わっていない。でも、帳簿だ。帳簿なら、わかる。残高があって、それを何かに振り替える。仕訳を切る。左から右へ。
俺は、ニコという子の、血まみれの足を見た。
そして、自分の帳簿の一行目を見た。
満員電車、五千二百八十回。
——これを。
毎朝毎晩、知らない肘に肋骨を押され、知らない鞄に膝裏を押され、ただ黙って揺られてきた十年間を。
——この子の足に。
振り替える。
そう念じた瞬間、帳簿の数字が動いた。
満員電車 5,280回 → 3,780回
千五百回分。三年分くらいか。
手のひらが熱くなった。いや、手のひらだけではない。体の内側から、何かが流れ出していく。ぎゅうぎゅうに押しつぶされた朝の電車の、あの圧迫感が、ほどけて、温かい光になって、俺の手からニコの足へと流れていく。
曲がっていた足が、ゆっくりと、まっすぐになった。
裂けた皮膚が、閉じていく。
血が、止まる。
*
ニコが、目を開けた。
ぱちぱちと瞬きをして、自分の足を見下ろし、それから、俺を見上げた。
「……おじちゃん、だれ?」
「ニコ!」
母親が、男の子を抱きしめて、声を上げて泣いた。
一拍おいて、広場が、爆発した。
「奇跡だ!」
「聖者様の奇跡だ!」
「聖ハクシ様! ハクシ様!」
歓声が、地面を揺らした。人々が泣きながら膝をつき、両手を組み、俺に向かって祈りはじめる。
その中で、俺は、見た。
司祭たちの顔が、真っ青になっていた。
喜んでいる顔ではなかった。
何かとんでもない損をした人間の顔だった。年度末に巨額の特別損失が出たと知らされたときの、役員たちの顔に、よく似ていた。
年配の司祭が、震える声で言った。
「せ、聖者様……奇跡は、どうか、院の許しを得てから……」
——ああ。
俺は、勝手なことをしたのだ。
手順を飛ばした。申請も審議も通さず、独断で。会社なら、始末書ものだ。
「……出過ぎた真似をしました。すみません」
頭を下げた。
広場が、一瞬で静まった。
そして、誰かが叫んだ。
「聖者様は仰せだ! 『まだ、済んでいない』と!」
「まだ足りぬと! もっと救うと!」
「聖者様は、我らをもっと救ってくださる!!」
歓声が、さっきの倍になって返ってきた。
司祭たちの顔色は、真っ青を通り越して、白くなっていた。
*
騒ぎが収まった頃、ニコが母親の手を離れて、とことこと俺のところへ来た。
さっきまで折れていた足で、ちゃんと歩いている。
「おじちゃん、ありがと」
「……どういたしまして」
「おじちゃん、パン好き? うち、パン屋なんだ。こんど持ってくね」
「ありがとう。楽しみにしてる」
ニコは満面の笑みで手を振り、母親のところへ戻っていった。母親は何度も何度も、俺に頭を下げていた。
俺は、もう一度だけ、帳簿を開いた。
満員電車、三千七百八十回。
十年分の、誰にも褒められなかった通勤が、三年分減っている。
その三年分が、あの子の足になった。
——悪くない取引だ。
経理の人間として、心の底からそう思った。
あの電車の中で潰されていた時間に、意味があった。誰かの足一本ぶんの意味が。
ふと横を見ると、アリスタが、両手を胸の前で組んで、俺を見ていた。
目に、涙がたまっていた。
「聖者様は……人を、救わずにはいられない方なのですね」
その声がどこか寂しそうに聞こえたのは、たぶん、俺の気のせいだった。




