Episode10_幕間② 報告
第10話 幕間② 報告
天秤院の最上階は、夜になると、ほとんど音がしなくなる。
石の廊下に、燭台の灯りがひとつ揺れていた。
アリスタは院長室の扉の前で足を止め、小さく息を整えてから、二度、扉を叩いた。
「入りなさい」
穏やかな声が返ってくる。
扉を開けると、院長室はいつものように薄暗かった。壁一面の書棚。窓辺の大きな机。机の上には、手のひらに乗るほどの小さな天秤がひとつ置かれている。
エノクは机の向こうで羽根ペンを置き、顔を上げた。
「遅くまでご苦労だね、アリスタ」
「いいえ。これも、恩寵の子の務めですから」
アリスタは机の前に進み、深く一礼した。
毎晩のことだった。聖ハクシが降臨した夜から、一日も欠かさず。
「今日の聖者様のご様子を、聞かせてもらえるかな」
「はい」
*
アリスタは、指を折りながら話しはじめた。
「今朝も、夜明けとともに聖なる舞をなさいました。聖都の民は、もう舞の順番をほとんど覚えています。体を横に曲げる運動で、私は腕を逆にしてしまって、聖者様に三回も直されました」
エノクは、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「昼は謁見で、二十四件の陳情をお聞きになりました。そのうち十一件を持ち帰りの間へ。『すみません』は、本日四十二回です」
「四十二回か」
「はい。昨日より四回多いです。ペトルスさんが、とても喜んでいました」
「彼らしい」
「それから、聖者様の腰は、まだ少しお痛みのようです。夕方に、私がお揉みしました。聖者様は『そこはだめ』と何度も仰いましたが、そこが一番固まっていましたので、念入りに」
アリスタはそこで、少し頬を赤くした。
「……聖者様は、とてもお優しい方です。領収書の列にも、最後のお一人まで、ちゃんと頭を下げて。ご自分の体のことより、いつも他の人のことを先に」
「そうだね」
エノクは静かにうなずいた。
「では、残高を」
*
アリスタは、懐から小さな布包みを取り出した。
中に入っていたのは、薄い金の板だった。指の先ほどの大きさで、表面に細かな目盛りが刻まれている。聖者付きの侍祭だけが持つことを許される、「小秤」と呼ばれるものだ。
聖者のそばに一日いると、その日の聖者の重さが、この小さな板に写し取られる。
アリスタは小秤を、机の上の小さな天秤の皿に、そっと置いた。
天秤が、かすかに傾いた。
目盛りの上を、細い針が滑っていく。
「……四億千百三十万穂、です」
「降臨のときから、どれくらい減ったかな」
「広場で、パン屋の男の子の足をお治しになった分と、その後、施療院を訪ねられたときに、熱病の娘さんを二人お治しになった分が。合わせて、百五十万穂ほどです」
エノクは目を閉じた。
長い沈黙のあとで、彼は言った。
「奇跡は、なるべく、お控えいただくように」
「はい。院長様のお言葉は、お伝えしています。でも」
アリスタは、うつむいた。
「聖者様は、人を救わずにはいられない方なのです。目の前で誰かが苦しんでいたら、手順も、申請も、全部忘れて、走っていってしまう」
「……知っている」
エノクは、目を開けた。
「だから、困るのだ」
*
アリスタは、しばらく黙っていた。
それから、顔を上げた。
「院長様。お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだい」
「穂祭の日には、私が聖者様をお見送りするのですよね」
「そうだ」
「先代の聖者付きの方々も、みんな、そうしてきたのでしょう?」
「そうだ。皆、立派に見送った」
「私も、立派にお見送りできるでしょうか」
アリスタの声は、わずかに震えていた。
「聖者様が天に還られる日に、泣かずに、笑って。恩寵の子として、ちゃんと、最後まで」
エノクは、彼女をじっと見つめた。
灰色の目の奥で、何かが動いたように見えた。それが何なのかは、燭台の灯りの暗さのせいで、わからなかった。
「できるとも」
院長は、静かに言った。
「君は、誰よりも立派に、聖者様をお見送りするだろう」
「……はい」
アリスタは深く一礼し、小秤を布に包み直して、懐にしまった。
「おやすみなさいませ、院長様。均しからんことを」
「均しからんことを」
*
扉が閉まり、足音が遠ざかっていった。
エノクは、しばらく扉を見つめていた。
やがて、書棚の陰の小さな扉が開き、主計官が入ってきた。最初から、そこで話を聞いていたのだ。
「聖ハクシ様、降臨から二十日で百五十万穂の減少です」
「わかっている」
「この調子で奇跡をお続けになれば、穂祭の日までに、収穫は二割近く目減りします」
「わかっている」
「三百年祭の年です。今年は、三人刈らねばなりません」
エノクは、机の上の小さな天秤を指先でつついた。皿が揺れて、また、ゆっくりと釣り合った。
「受け皿は、もう、ほとんど持たない」
低い声だった。
「澱の国の水位は、年々上がっている。あと数十年で溢れる。溢れれば、逆流が始まる。三百年分の澱が、この国に戻ってくる。それを止めるには、天秤を回し続けなければならない。天秤を回すには、燃料が要る」
「はい」
「澱の国の魂は、実りがいい」
エノクは窓の外を見た。
聖都の夜空に、青白い一等星が光っていた。
「澱を背負わされた魂ほど、重く実る。三百年、ずっとそうだった。……聖ハクシは、その中でも、とびきりだ」
「穂祭の日には」
「昇天の日、彼の残高は国に還る」
院長は、燭台の火を見つめながら言った。
「一穂、残らず」
*
主計官が去ったあと、エノクは一人で、机の引き出しを開けた。
中には、古い羊皮紙の束が入っていた。
一枚目の端に、色あせたインクで、こう書かれている。
『第百九代 聖クシャ 在位半年』
エノクはその羊皮紙を、長いあいだ眺めていた。
それから、引き出しを閉め、燭台の火を吹き消した。
院長室は、暗くなった。
窓の外の青白い星だけが、変わらずに光っていた。




