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聖者様は領収書をご所望です ~経理主任(33)、異世界の聖者になったら、この国の帳簿が三百年分の粉飾決算でした~  作者: とっとっととっとって


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Episode11_ふたつの運

第11話 ふたつの運


「お忍び、ですか?」


 アリスタが目を丸くした。


「はい。一度、普通に街を歩いてみたいんです。聖衣じゃなくて、普通の服で。司祭さんたちに囲まれずに」


 降臨から一か月。


 俺が見てきた聖都は、大聖堂と、聖者館と、謁見の間と、祝福の儀の広場だけだった。出向先の会社の、役員フロアしか見たことがないようなものだ。現場を見なければ、何もわからない。


「院長様のお許しが……」


「持ち帰って検討してもらっていいですか」


「……『持ち帰り、検め、討つ』、ですね」


 アリスタは少し考えて、いたずらっぽく笑った。


「では、検めて、討ちましょう。半日だけですよ」


*


 フードつきの外套を借りて、裏門から出た。


 聖都の街は、明るかった。


 石畳の通りの両側に、店が並んでいる。果物屋、布屋、鍛冶屋、パン屋。軒先には、俺の書いた「ハクシ」の領収書の写しが、あちこちに貼られていた。見なかったことにした。


「聖者様、あちらの果物屋さん、くじ引きをやっていますよ」


「くじ?」


「銅貨一枚で、一回引けるんです。当たりが出たら、籠いっぱいの林檎がもらえます」


 アリスタは銅貨を一枚払い、木箱の中から木の札を一枚引いた。


「当たりです!」


 果物屋の主人が、苦笑いしながら林檎の籠を差し出した。


「アリスタちゃんは引くたびに当てるからなあ。恩寵の子はかなわねえや」


 俺も一枚引いてみた。


 札には、何も書いていなかった。


*


 アリスタの運の良さは、本物だった。


 通りを歩いていると、暴れ馬が向こうから突っ込んできた。悲鳴が上がる。アリスタは避けもせず、きょとんと立っていた。馬は彼女の目の前でぴたりと止まり、鼻先を彼女の肩にすりつけて甘えはじめた。


 俺は馬を避けようとして横に跳び、側溝に落ちた。


 露店で串焼きを買うと、アリスタの串には肉が一切れ多くついていた。俺の串は、途中で折れて地面に落ちた。


 にわか雨が降った。アリスタが立っている軒下の一角だけ、なぜか屋根が厚く、一滴も漏らなかった。俺の頭上の屋根には穴が開いていて、溜まっていた雨水がまとめて落ちてきた。


「聖者様、大丈夫ですか!?」


「……大丈夫です。慣れてるので」


 濡れた前髪をかき上げながら、俺は言った。


 本当に、慣れている。


 財布をよく落とす。傘を持つと晴れる。くじは当たらない。


 この世界に来ても、何も変わらない。


*


 昼過ぎ、広場の噴水の縁に並んで座り、林檎をかじった。


 通りを行き交う人々を眺めているうちに、俺はあることに気づいた。


「アリスタさん」


「はい」


「この国って、病気の人、見かけませんね」


 大通りを歩く人は、みんな健康そうだった。咳をしている人がいない。顔色の悪い人がいない。杖をついている老人すら、ほとんどいない。


「はい。黄金期に入ってから、この国では病が封じられていますから。院の施療院もありますし」


「この前、施療院に行ったら、熱病の娘さんがいましたけど」


「あれは、珍しいことです。本当に、たまにしか」


 アリスタは林檎を両手で持ったまま、少し遠くを見た。


「私も、その『たまに』だったんです」


*


「私は、捨て子でした」


 アリスタは、なんでもないことのように言った。


「生まれてすぐ、大聖堂の門の前に置かれていたそうです。名前も、親のことも、何もわかりません。院の恩寵院で育てられました」


「……そうだったんですか」


「一歳になる前の夏に、私、重い病にかかったんです。死病でした。お医者様も、もう助からないと」


 二十五年前の、夏です、と彼女は言った。


「そのとき、私を救ってくださったのが、先代の聖者様の、聖クシャ様でした」


「聖クシャ」


「はい。第百九代の聖者様です。在位はたった半年でしたけれど、その間に、恩寵院で死にかけていた赤子を一人、救ってくださったんです。それが、私です」


 アリスタは胸の前で手を組んだ。


「それ以来、私は、恩寵の子として育てられました。恩寵の子は、聖者様のお恵みを受けた子です。みんな、運がいいんですよ。私は、特別ですけど」


「みんな?」


「はい。恩寵院には、私の他にも何人か恩寵の子がいます。みんな、病気をしないし、怪我もしないし、くじもよく当たります」


 恩寵の子は、みんな運がいい。


 なぜだか、その言葉が、喉の奥に引っかかった。


*


「聖クシャ様は、最後に、預言を遺されたんです」


 アリスタは、大切なものを取り出すように、ゆっくりと言った。


「天秤にお還りになる直前、天上の文字で、大元帳にお書きになったのだと聞いています。『まことに、すまない』と」


 俺は、林檎をかじりかけたまま固まった。


「……まことに、すまない?」


「はい。真に、未だ済まず。三百年の祝福は、まだ終わらない、という意味です。聖クシャ様は、この国にさらなる恩寵が降ることを、預言なさったのです」


「いや、あの」


 俺は言いにくそうに、口を開いた。


「それ、普通に、謝ってるだけじゃ……」


「えっ」


「俺の国の言葉だと、『まことにすまない』は、ちょっと重めの謝罪なんですよ。本当にごめんなさい、くらいの」


 アリスタは目をぱちぱちさせた。


「聖者様のお国では、そういう意味なのですか?」


「たぶん……。でも、聖クシャさんが誰に謝ったのかは、わかりませんけど」


「……天に還られる前に、誰かに謝りたかったのでしょうか」


 アリスタは、少しだけ寂しそうに首をかしげた。


「私、ずっと、あの言葉は預言だと思っていました。でも、謝罪だったとしたら、聖クシャ様は、何をそんなに謝りたかったのでしょう」


 俺は答えられなかった。


 まことに、すまない。


 どこかで、聞いたことのある響きだった。いや、日本人なら誰でも聞いたことがある。ありふれた言葉だ。ただ、それだけのことだ。


*


 帰り道、俺たちは道を一本間違えた。


 大通りから外れた細い路地を抜けると、急に景色が変わった。


 石畳が割れていた。建物の壁が黒く煤けていた。屋根の落ちた家が、そのまま放置されている。


 そして、人がいた。


 路地の隅にうずくまって、ひどく咳き込んでいる老人。痩せこけた子どもを抱いた母親。片足を引きずって歩く男。


 大通りでは一人も見かけなかった、病人と怪我人が、ここにはいた。


「ここは……」


「麦殻通りです」


 アリスタの声が、小さくなった。


「百五十年前に、澱の魔王に焼かれた区画で……」


「ペトルスさんの生まれたところ、ですよね」


「はい」


「恩寵は、ここには降らないんですか」


 アリスタは、しばらく黙っていた。


「……あちらの方々は、信心が足りないのだと、教わりました」


 そう言った彼女の顔は、自分の言葉を信じていない人の顔だった。


 咳き込んでいた老人と、目が合った。


 俺は、外套の下で拳を握った。


 ——恩寵は、均しく降るんじゃないのか。


 この国の挨拶は、「均しからんことを」だ。毎日、何百回と聞いている。


 でも、少なくともこの通りは、まったく均しくなかった。


 俺はもう一度帳簿を開きかけて、アリスタに袖を引かれた。


「聖者様。もう、日が暮れます。院長様に知られたら、叱られてしまいます」


「……はい」


 俺は、路地を振り返りながら、大通りへ戻った。


 戻る途中、アリスタは石畳のくぼみに足を取られて転んだ。転んだ先に、誰かが落とした銀貨が三枚落ちていた。


 俺は、何もないところで転んだ。


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