Episode11_ふたつの運
第11話 ふたつの運
「お忍び、ですか?」
アリスタが目を丸くした。
「はい。一度、普通に街を歩いてみたいんです。聖衣じゃなくて、普通の服で。司祭さんたちに囲まれずに」
降臨から一か月。
俺が見てきた聖都は、大聖堂と、聖者館と、謁見の間と、祝福の儀の広場だけだった。出向先の会社の、役員フロアしか見たことがないようなものだ。現場を見なければ、何もわからない。
「院長様のお許しが……」
「持ち帰って検討してもらっていいですか」
「……『持ち帰り、検め、討つ』、ですね」
アリスタは少し考えて、いたずらっぽく笑った。
「では、検めて、討ちましょう。半日だけですよ」
*
フードつきの外套を借りて、裏門から出た。
聖都の街は、明るかった。
石畳の通りの両側に、店が並んでいる。果物屋、布屋、鍛冶屋、パン屋。軒先には、俺の書いた「ハクシ」の領収書の写しが、あちこちに貼られていた。見なかったことにした。
「聖者様、あちらの果物屋さん、くじ引きをやっていますよ」
「くじ?」
「銅貨一枚で、一回引けるんです。当たりが出たら、籠いっぱいの林檎がもらえます」
アリスタは銅貨を一枚払い、木箱の中から木の札を一枚引いた。
「当たりです!」
果物屋の主人が、苦笑いしながら林檎の籠を差し出した。
「アリスタちゃんは引くたびに当てるからなあ。恩寵の子はかなわねえや」
俺も一枚引いてみた。
札には、何も書いていなかった。
*
アリスタの運の良さは、本物だった。
通りを歩いていると、暴れ馬が向こうから突っ込んできた。悲鳴が上がる。アリスタは避けもせず、きょとんと立っていた。馬は彼女の目の前でぴたりと止まり、鼻先を彼女の肩にすりつけて甘えはじめた。
俺は馬を避けようとして横に跳び、側溝に落ちた。
露店で串焼きを買うと、アリスタの串には肉が一切れ多くついていた。俺の串は、途中で折れて地面に落ちた。
にわか雨が降った。アリスタが立っている軒下の一角だけ、なぜか屋根が厚く、一滴も漏らなかった。俺の頭上の屋根には穴が開いていて、溜まっていた雨水がまとめて落ちてきた。
「聖者様、大丈夫ですか!?」
「……大丈夫です。慣れてるので」
濡れた前髪をかき上げながら、俺は言った。
本当に、慣れている。
財布をよく落とす。傘を持つと晴れる。くじは当たらない。
この世界に来ても、何も変わらない。
*
昼過ぎ、広場の噴水の縁に並んで座り、林檎をかじった。
通りを行き交う人々を眺めているうちに、俺はあることに気づいた。
「アリスタさん」
「はい」
「この国って、病気の人、見かけませんね」
大通りを歩く人は、みんな健康そうだった。咳をしている人がいない。顔色の悪い人がいない。杖をついている老人すら、ほとんどいない。
「はい。黄金期に入ってから、この国では病が封じられていますから。院の施療院もありますし」
「この前、施療院に行ったら、熱病の娘さんがいましたけど」
「あれは、珍しいことです。本当に、たまにしか」
アリスタは林檎を両手で持ったまま、少し遠くを見た。
「私も、その『たまに』だったんです」
*
「私は、捨て子でした」
アリスタは、なんでもないことのように言った。
「生まれてすぐ、大聖堂の門の前に置かれていたそうです。名前も、親のことも、何もわかりません。院の恩寵院で育てられました」
「……そうだったんですか」
「一歳になる前の夏に、私、重い病にかかったんです。死病でした。お医者様も、もう助からないと」
二十五年前の、夏です、と彼女は言った。
「そのとき、私を救ってくださったのが、先代の聖者様の、聖クシャ様でした」
「聖クシャ」
「はい。第百九代の聖者様です。在位はたった半年でしたけれど、その間に、恩寵院で死にかけていた赤子を一人、救ってくださったんです。それが、私です」
アリスタは胸の前で手を組んだ。
「それ以来、私は、恩寵の子として育てられました。恩寵の子は、聖者様のお恵みを受けた子です。みんな、運がいいんですよ。私は、特別ですけど」
「みんな?」
「はい。恩寵院には、私の他にも何人か恩寵の子がいます。みんな、病気をしないし、怪我もしないし、くじもよく当たります」
恩寵の子は、みんな運がいい。
なぜだか、その言葉が、喉の奥に引っかかった。
*
「聖クシャ様は、最後に、預言を遺されたんです」
アリスタは、大切なものを取り出すように、ゆっくりと言った。
「天秤にお還りになる直前、天上の文字で、大元帳にお書きになったのだと聞いています。『まことに、すまない』と」
俺は、林檎をかじりかけたまま固まった。
「……まことに、すまない?」
「はい。真に、未だ済まず。三百年の祝福は、まだ終わらない、という意味です。聖クシャ様は、この国にさらなる恩寵が降ることを、預言なさったのです」
「いや、あの」
俺は言いにくそうに、口を開いた。
「それ、普通に、謝ってるだけじゃ……」
「えっ」
「俺の国の言葉だと、『まことにすまない』は、ちょっと重めの謝罪なんですよ。本当にごめんなさい、くらいの」
アリスタは目をぱちぱちさせた。
「聖者様のお国では、そういう意味なのですか?」
「たぶん……。でも、聖クシャさんが誰に謝ったのかは、わかりませんけど」
「……天に還られる前に、誰かに謝りたかったのでしょうか」
アリスタは、少しだけ寂しそうに首をかしげた。
「私、ずっと、あの言葉は預言だと思っていました。でも、謝罪だったとしたら、聖クシャ様は、何をそんなに謝りたかったのでしょう」
俺は答えられなかった。
まことに、すまない。
どこかで、聞いたことのある響きだった。いや、日本人なら誰でも聞いたことがある。ありふれた言葉だ。ただ、それだけのことだ。
*
帰り道、俺たちは道を一本間違えた。
大通りから外れた細い路地を抜けると、急に景色が変わった。
石畳が割れていた。建物の壁が黒く煤けていた。屋根の落ちた家が、そのまま放置されている。
そして、人がいた。
路地の隅にうずくまって、ひどく咳き込んでいる老人。痩せこけた子どもを抱いた母親。片足を引きずって歩く男。
大通りでは一人も見かけなかった、病人と怪我人が、ここにはいた。
「ここは……」
「麦殻通りです」
アリスタの声が、小さくなった。
「百五十年前に、澱の魔王に焼かれた区画で……」
「ペトルスさんの生まれたところ、ですよね」
「はい」
「恩寵は、ここには降らないんですか」
アリスタは、しばらく黙っていた。
「……あちらの方々は、信心が足りないのだと、教わりました」
そう言った彼女の顔は、自分の言葉を信じていない人の顔だった。
咳き込んでいた老人と、目が合った。
俺は、外套の下で拳を握った。
——恩寵は、均しく降るんじゃないのか。
この国の挨拶は、「均しからんことを」だ。毎日、何百回と聞いている。
でも、少なくともこの通りは、まったく均しくなかった。
俺はもう一度帳簿を開きかけて、アリスタに袖を引かれた。
「聖者様。もう、日が暮れます。院長様に知られたら、叱られてしまいます」
「……はい」
俺は、路地を振り返りながら、大通りへ戻った。
戻る途中、アリスタは石畳のくぼみに足を取られて転んだ。転んだ先に、誰かが落とした銀貨が三枚落ちていた。
俺は、何もないところで転んだ。




