Episode05_領収書の秘蹟
第5話 領収書の秘蹟
朝食が、すごかった。
白いパン。蜂蜜。焼いた腸詰め。果物の山。卵料理が三種類。銀の水差しには、搾りたての葡萄の汁。
長い食卓の端に一人で座らされて、俺は途方に暮れた。
どう考えても、一人で食べる量ではない。給仕の修道士が三人、壁際に控えている。俺が卵をひと口食べるたびに、彼らは小さく「おお」と感嘆する。やめてほしい。
食べ終えて、俺は、ほとんど反射で懐を探った。
財布がある。日本円で四千二百円と、クレジットカードと、ポイントカードが七枚。
「あの、これ、おいくらでしょうか」
修道士たちが、凍りついた。
「お、お代、でございますか……?」
「はい。さすがにこんなにいただいて、タダというわけには」
「聖者様から、お代など頂けるはずがございません!」
三人がいっせいに床にひれ伏した。
困った。
十年間、会社の経費で落とせないものは自腹で払ってきた人間だ。払わないで食べるというのが、どうにも落ち着かない。
だったら、せめて。
「じゃあ、せめて、領収書をいただけますか」
*
「りょう、しゅう、しょ……?」
食堂の入り口に、昨日の羽根ペンの若者が立っていた。
痩せていて、背は高い。くすんだ茶色の髪。指先は相変わらずインクで真っ黒だ。小脇には、分厚い革表紙の帳面を抱えている。
「おはようございます、聖者様! 記帳官のペトルスと申します。聖者様のお言葉を、一字一句、記録させていただく務めを仰せつかりました!」
「あ、はい。どうも」
「して、今の『りょうしゅうしょ』とは!」
ペトルスは目を輝かせて帳面を開いた。
説明に困った。領収書とは何か。異世界の人間にどう言えばいいのか。
「ええと……何かを受け取ったときに、確かに受け取りました、という証を書いて残すものです」
「受け取ったことの……証……」
ペトルスの羽根ペンが、恐ろしい速さで動いた。
「聖者様は、恵みを受け取るたびに、その証を書き記せと仰せだ……! 恩寵とは、ただ受けるものにあらず。受けたことを記し、刻み、忘れぬことこそが信仰である、と……!」
「いや、そこまでは言ってないです」
「なんと深い……!」
聞いていない。
*
結局、ペトルスが羊皮紙に「領収書」を書いてくれた。
『聖ハクシ様、確かに朝餉を受け取られたり。天秤院食堂』
そこまではいい。問題は、受領者の署名欄だった。
羽根ペンを渡され、俺は自分の名前を書こうとした。
代、の一画目で、インクが消えた。
ペトルスと修道士たちが息を呑む。
仕方なく、俺はカタカナで書いた。
ハクシ。
消えなかった。
この世界で俺が書ける名前は、くしゃみだけらしい。
「天上の文字だ……!」
「聖者様の御名が、消えずに残った……!」
修道士たちが、羊皮紙を拝みはじめた。
*
その日の昼には、「領収の秘蹟」という言葉が院内に広まっていた。
夕方には、聖者に何かを捧げると、その場で聖者が手ずから「受け取りの証」を書いてくださるらしい、という噂が聖都じゅうに広まっていた。
翌朝には、聖者館の門の前に、貢ぎ物を抱えた民の長い列ができていた。
花束を持った娘。鶏を抱えた農夫。手編みの靴下を差し出す老婆。
俺は一人ひとりに頭を下げ、羊皮紙に「ハクシ」と書いて渡した。
「聖者様の領収書を持っていると、一年、運が良くなるんですって!」
そういう噂まで生まれていた。
俺の書いた「ハクシ」の四文字が、お守りとして民家の戸口に貼られていく。
——いや、待ってくれ。
これは経費精算の書類なんだ。
*
夕方、ようやく列が途切れた頃、ペトルスが紅茶を持ってきてくれた。
「お疲れでございましょう。少し、この国のお話でもいたしましょうか。天上の方には、退屈かもしれませんが」
「いえ、ぜひ。正直、何もわかっていないので」
引き継ぎ書がない以上、情報は自分で集めるしかない。出向先の社史を読むのは基本だ。
ペトルスは嬉しそうに背筋を伸ばし、語りはじめた。
「三百年前、この国は『灰の時代』の中にありました」
疫病が絶えず、戦が絶えず、飢饉が絶えず、人は三十まで生きられれば長生きだった時代。
「そこに、七人の賢者が現れました。『夜明けの七人』です。七人は女神ディケの啓示を受け、大天秤を作り、この国のあらゆる澱——病、老い、不運、罪の報い——を、天の彼方へと封じたのです」
「澱」
思わず、繰り返していた。
「はい。澱です。それ以来この国は『黄金期』に入りました。病はほとんどなく、人は百まで生き、飢饉は一度も起きていません」
澱。
妙に聞き覚えのある言葉だ。俺の国でも、疲れることを「澱がたまる」と言う。
……まあ、偶然だろう。言葉なんて、そういうものだ。
疲れているんだ。澱がたまっているんだ。
「ただ、一度だけ、黄金期が揺らいだことがあります」
ペトルスの声が、少し低くなった。
「百五十年前のことです。天の彼方——澱が封じられた場所を、私たちは『澱の国』と呼びます。その澱の国から、魔物の王が這い出てきたのです」
「魔王、ってことですか」
「はい。『澱の魔王』と呼ばれています。魔王は王都の半分を焼き払い、最後は天秤院によって討たれました。名前は、記録に残っていません。あまりにも穢れた名であったので、天秤が記すことを拒んだのだと」
「……そうなんですか」
「私の生まれた麦殻通りは、そのとき焼けた区画にあります。今も、焼け跡のままです」
ペトルスは、ほんの少しだけ笑った。
「恩寵は、信心深い者に降るものです。麦殻通りには、あまり降りません。私も、まだまだ信心が足りないようで」
何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
ペトルスはすぐにいつもの調子に戻り、帳面を開いた。
「さて! 本日の聖者様のお言葉を、読み上げて確認させていただきます!」
「……お願いします」
「ひとつ。『領収書をいただけますか』——受けた恵みを記し、忘れるなかれ。ひとつ。『おいくらでしょうか』——恩寵の値を問え、それは無償にあらず」
俺は紅茶を噴きそうになった。
「ひとつ。『すみません』——これは本日、三十八回仰せになりました。すべて『未だ済まず』と記帳しております!」
「……三十八回も言いました?」
「はい! お言葉の多い聖者様は、民の誇りでございます!」
三十八回。
異世界に来ても、俺の謝罪回数は順調に積み上がっているらしい。




