↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖者様は領収書をご所望です ~経理主任(33)、異世界の聖者になったら、この国の帳簿が三百年分の粉飾決算でした~  作者: とっとっととっとって


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/11

Episode04_名前:■■■■

第4話 名前:■■■■


 聖者館、と呼ばれる建物が、俺の新しい住まいだった。


 大聖堂の奥にある石造りの館で、俺ひとりのために部屋が六つある。寝室、書斎、浴室、応接間、祈祷室、それから用途のわからない部屋がひとつ。寝台は、川口の1Kの部屋がまるごと入りそうなほど広い。


 天蓋つきの寝台に横たわって、俺は天井を見上げた。


 眠れない。


 当たり前だ。今朝まで日本橋で一円を探していた人間が、夜には異世界の聖者になっている。脳の処理が追いつかない。


 胸ポケットのスマホを取り出す。画面は生きていた。電池残量四十一パーセント。電波は、もちろん圏外だ。


 LINEを開くと、母とのトーク画面がそのまま残っていた。


『腰が痛いよ』


 その下の入力欄には、送れなかった文字。


『大丈夫? 今度の週末、そっち』


 送信ボタンを押してみる。くるくると回るだけで、届かない。


 俺は電源を長押しして、スマホを切った。一年後に帰任したとき、電池が残っていなかったら困る。そう自分に言い聞かせて、枕元に置いた。


*


 さて。


 異世界に来たのなら、まずやることがある。三十三年の人生で、漫画とアニメから得た知識がそう言っている。


「……ステータス」


 小声で唱えてみた。


 何も起きない。


「ステータス・オープン」


 何も起きない。


「メニュー。……ウィンドウ。……ヘルプ」


 何も起きない。天蓋の布が、夜風にそよいだだけだ。三十三歳の男が、真夜中に一人で虚空に話しかけている。誰にも見られていなくてよかった。


 そりゃそうか、と思った。ここはゲームじゃない。


 ため息をついて、寝返りを打つ。明日からの仕事のことを考えなければ。いや、仕事ってなんだ。聖者の業務内容ってなんだ。引き継ぎ書はないのか。前任者はどこだ。


 職業病みたいに、頭の中で今日一日の出来事を整理しはじめる。何が入ってきて、何が出ていったか。収支はどうか。残高はいくらか。


 ——残高照会。


 そう思った瞬間だった。


 目の前に、半透明の紙が一枚、ふわりと浮かんだ。


*


「…………は?」


 紙だ。羊皮紙のような質感の、光る紙。


 そこには罫線が引かれ、見慣れた形式で文字が並んでいた。


――――――――――――――――

 名前:■■■■

 区分:聖者(第百三十一代)


 貸方残高:412,876,300穂

 借方残高:0穂


 ──貸方内訳(抜粋)──

 満員電車       5,280回

 サービス残業     3,412時間

 理不尽な叱責     1,208回

 謝罪(自分に非のないもの) 9,871回

 月末締め       132回

 財布の紛失      17回

 「いい人なんだけどね」 1回

 八歳・原因不明の高熱 1回

            ……ほか多数


 ※明細は大元帳を参照

――――――――――――――――


 俺は、しばらく黙ってそれを見ていた。


「ステータスじゃなくて、残高照会なのかよ」


 思わず声が出た。


 いや、確かに、俺の人生で一番唱えてきた呪文は「ステータス」ではなく「残高照会」だ。ネットバンキングで、月に何度も。そういうことなのか。そういうことでいいのか。


 形式は、帳簿だった。


 借方と貸方。残高。内訳。経理の人間なら一目でわかる。ただ、単位が「円」ではなく「穂」になっていて、桁が冗談のように大きい。


 そして、一行目。


「名前、文字化けしてる……」


 ■■■■。


 黒い四角が四つ並んでいる。


 Shift_JISとUTF-8の不一致か? いや、異世界に文字コードの概念はないだろう。たぶん。ないと思いたい。


*


 内訳を、上から読んでいく。


 満員電車、五千二百八十回。


 大学を出て十年。往復で一日二回。年に二百四十日ほど。……計算は、だいたい合う。


 サービス残業、三千四百十二時間。


 これも、たぶん合っている。合っているのが悔しい。


 理不尽な叱責、千二百八回。謝罪(自分に非のないもの)、九千八百七十一回。


 九千八百七十一回、俺は自分のせいではないことで頭を下げてきたらしい。一日あたりに直すと、たぶん二、三回。毎日、二、三回。


 そして。


「『いい人なんだけどね』、一回……」


 これを数えるな。


 頼むから、これを帳簿に載せるな。七年前のあの夜、駅の改札前で言われたあの言葉を、異世界の公式記録として残さないでくれ。


 俺は両手で顔を覆った。


 笑えばいいのか、泣けばいいのか、わからない。


 これは全部、俺の三十三年だ。


 誰にも褒められず、誰にも気づかれず、ただ黙って積み上げてきたものが、ここでは「貸方」として一円——いや、一穂単位で記録されている。


 そしてどうやら、それがこの世界では、ものすごい額になるらしい。


 四億千二百八十七万六千三百穂。


 これが多いのか少ないのか、俺にはまだわからなかった。


*


 ためしに、机の羽根ペンで、紙に自分の名前を書いてみた。


 代、と書いた瞬間、インクがすうっと紙に吸い込まれて、消えた。


 もう一度。今度はひらがなで、しろた、と。


 し、の字の途中で、消えた。


「……マジか」


 言おうとすると、くしゃみが出る。書こうとすると、インクが消える。


 俺は、この世界で、自分の名前を名乗れないらしい。


*


 扉が控えめに叩かれた。


「聖者様、まだ起きていらっしゃいますか」


 アリスタだった。銀の盆に、湯気の立つ杯を載せている。


「眠れないのではないかと思って。月見草のお茶です。よく眠れますよ」


「あ、ありがとうございます。すみません、こんな夜中に」


 言ってから、しまったと思った。また「済んでいない」と聞こえたのではないか。


 だがアリスタは、少し首をかしげただけで、にこりと笑った。


「お気になさらず。これも私の務めですから」


 彼女は盆を卓に置こうとして、絨毯の端に爪先を引っかけた。


「きゃっ」


 盆は、無事だった。杯の一滴もこぼれていない。


 代わりに、転んだ拍子に寝台の下を覗き込む形になった彼女が、目を丸くした。


「まあ……!」


 手を伸ばし、寝台の下から何かを拾い上げる。青い宝石のついた、耳飾りだった。


「これ、三年前に王妃様がこちらにお泊まりになったとき、なくされた耳飾りです! 院じゅうで探しても見つからなかったのに!」


「……すごいですね」


「私、昔から運だけはいいんです」


 アリスタは嬉しそうに耳飾りを掲げた。


 俺は立ち上がって彼女に手を貸そうとし、寝台の脚に、小指をぶつけた。


「っ——!!」


 声にならない声が出た。


 この世界に来ても、俺の運の悪さは健在らしい。


*


 ——同じ頃。


 天秤院の最上階、院長室の灯りは、まだ消えていなかった。


「大天秤の計量が出ました」


 主計官が、羊皮紙を差し出した。


「聖ハクシ様の残高、四億一千二百万穂。歴代最高です」


 エノクは羊皮紙を受け取り、長いあいだ、黙ってそれを眺めていた。


「三百年祭にふさわしい実りだ」


「はい」


「一年、よく肥やせ。奇跡は、なるべく控えていただくように」


「心得ております。……それと、院長」


 主計官は、声をひそめた。


「恩寵の子の線が、わずかに揺らいでいます。聖ハクシ様の降臨と同時に」


 エノクは窓の外を見た。聖都の夜空に、青白い一等星がひとつ、静かに光っていた。


「構わん。一年はもつ」


 院長は羊皮紙を丁寧に畳み、燭台の火を吹き消した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。