Episode04_名前:■■■■
第4話 名前:■■■■
聖者館、と呼ばれる建物が、俺の新しい住まいだった。
大聖堂の奥にある石造りの館で、俺ひとりのために部屋が六つある。寝室、書斎、浴室、応接間、祈祷室、それから用途のわからない部屋がひとつ。寝台は、川口の1Kの部屋がまるごと入りそうなほど広い。
天蓋つきの寝台に横たわって、俺は天井を見上げた。
眠れない。
当たり前だ。今朝まで日本橋で一円を探していた人間が、夜には異世界の聖者になっている。脳の処理が追いつかない。
胸ポケットのスマホを取り出す。画面は生きていた。電池残量四十一パーセント。電波は、もちろん圏外だ。
LINEを開くと、母とのトーク画面がそのまま残っていた。
『腰が痛いよ』
その下の入力欄には、送れなかった文字。
『大丈夫? 今度の週末、そっち』
送信ボタンを押してみる。くるくると回るだけで、届かない。
俺は電源を長押しして、スマホを切った。一年後に帰任したとき、電池が残っていなかったら困る。そう自分に言い聞かせて、枕元に置いた。
*
さて。
異世界に来たのなら、まずやることがある。三十三年の人生で、漫画とアニメから得た知識がそう言っている。
「……ステータス」
小声で唱えてみた。
何も起きない。
「ステータス・オープン」
何も起きない。
「メニュー。……ウィンドウ。……ヘルプ」
何も起きない。天蓋の布が、夜風にそよいだだけだ。三十三歳の男が、真夜中に一人で虚空に話しかけている。誰にも見られていなくてよかった。
そりゃそうか、と思った。ここはゲームじゃない。
ため息をついて、寝返りを打つ。明日からの仕事のことを考えなければ。いや、仕事ってなんだ。聖者の業務内容ってなんだ。引き継ぎ書はないのか。前任者はどこだ。
職業病みたいに、頭の中で今日一日の出来事を整理しはじめる。何が入ってきて、何が出ていったか。収支はどうか。残高はいくらか。
——残高照会。
そう思った瞬間だった。
目の前に、半透明の紙が一枚、ふわりと浮かんだ。
*
「…………は?」
紙だ。羊皮紙のような質感の、光る紙。
そこには罫線が引かれ、見慣れた形式で文字が並んでいた。
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名前:■■■■
区分:聖者(第百三十一代)
貸方残高:412,876,300穂
借方残高:0穂
──貸方内訳(抜粋)──
満員電車 5,280回
サービス残業 3,412時間
理不尽な叱責 1,208回
謝罪(自分に非のないもの) 9,871回
月末締め 132回
財布の紛失 17回
「いい人なんだけどね」 1回
八歳・原因不明の高熱 1回
……ほか多数
※明細は大元帳を参照
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俺は、しばらく黙ってそれを見ていた。
「ステータスじゃなくて、残高照会なのかよ」
思わず声が出た。
いや、確かに、俺の人生で一番唱えてきた呪文は「ステータス」ではなく「残高照会」だ。ネットバンキングで、月に何度も。そういうことなのか。そういうことでいいのか。
形式は、帳簿だった。
借方と貸方。残高。内訳。経理の人間なら一目でわかる。ただ、単位が「円」ではなく「穂」になっていて、桁が冗談のように大きい。
そして、一行目。
「名前、文字化けしてる……」
■■■■。
黒い四角が四つ並んでいる。
Shift_JISとUTF-8の不一致か? いや、異世界に文字コードの概念はないだろう。たぶん。ないと思いたい。
*
内訳を、上から読んでいく。
満員電車、五千二百八十回。
大学を出て十年。往復で一日二回。年に二百四十日ほど。……計算は、だいたい合う。
サービス残業、三千四百十二時間。
これも、たぶん合っている。合っているのが悔しい。
理不尽な叱責、千二百八回。謝罪(自分に非のないもの)、九千八百七十一回。
九千八百七十一回、俺は自分のせいではないことで頭を下げてきたらしい。一日あたりに直すと、たぶん二、三回。毎日、二、三回。
そして。
「『いい人なんだけどね』、一回……」
これを数えるな。
頼むから、これを帳簿に載せるな。七年前のあの夜、駅の改札前で言われたあの言葉を、異世界の公式記録として残さないでくれ。
俺は両手で顔を覆った。
笑えばいいのか、泣けばいいのか、わからない。
これは全部、俺の三十三年だ。
誰にも褒められず、誰にも気づかれず、ただ黙って積み上げてきたものが、ここでは「貸方」として一円——いや、一穂単位で記録されている。
そしてどうやら、それがこの世界では、ものすごい額になるらしい。
四億千二百八十七万六千三百穂。
これが多いのか少ないのか、俺にはまだわからなかった。
*
ためしに、机の羽根ペンで、紙に自分の名前を書いてみた。
代、と書いた瞬間、インクがすうっと紙に吸い込まれて、消えた。
もう一度。今度はひらがなで、しろた、と。
し、の字の途中で、消えた。
「……マジか」
言おうとすると、くしゃみが出る。書こうとすると、インクが消える。
俺は、この世界で、自分の名前を名乗れないらしい。
*
扉が控えめに叩かれた。
「聖者様、まだ起きていらっしゃいますか」
アリスタだった。銀の盆に、湯気の立つ杯を載せている。
「眠れないのではないかと思って。月見草のお茶です。よく眠れますよ」
「あ、ありがとうございます。すみません、こんな夜中に」
言ってから、しまったと思った。また「済んでいない」と聞こえたのではないか。
だがアリスタは、少し首をかしげただけで、にこりと笑った。
「お気になさらず。これも私の務めですから」
彼女は盆を卓に置こうとして、絨毯の端に爪先を引っかけた。
「きゃっ」
盆は、無事だった。杯の一滴もこぼれていない。
代わりに、転んだ拍子に寝台の下を覗き込む形になった彼女が、目を丸くした。
「まあ……!」
手を伸ばし、寝台の下から何かを拾い上げる。青い宝石のついた、耳飾りだった。
「これ、三年前に王妃様がこちらにお泊まりになったとき、なくされた耳飾りです! 院じゅうで探しても見つからなかったのに!」
「……すごいですね」
「私、昔から運だけはいいんです」
アリスタは嬉しそうに耳飾りを掲げた。
俺は立ち上がって彼女に手を貸そうとし、寝台の脚に、小指をぶつけた。
「っ——!!」
声にならない声が出た。
この世界に来ても、俺の運の悪さは健在らしい。
*
——同じ頃。
天秤院の最上階、院長室の灯りは、まだ消えていなかった。
「大天秤の計量が出ました」
主計官が、羊皮紙を差し出した。
「聖ハクシ様の残高、四億一千二百万穂。歴代最高です」
エノクは羊皮紙を受け取り、長いあいだ、黙ってそれを眺めていた。
「三百年祭にふさわしい実りだ」
「はい」
「一年、よく肥やせ。奇跡は、なるべく控えていただくように」
「心得ております。……それと、院長」
主計官は、声をひそめた。
「恩寵の子の線が、わずかに揺らいでいます。聖ハクシ様の降臨と同時に」
エノクは窓の外を見た。聖都の夜空に、青白い一等星がひとつ、静かに光っていた。
「構わん。一年はもつ」
院長は羊皮紙を丁寧に畳み、燭台の火を吹き消した。




