Episode03_聖ハクシ
第3話 聖ハクシ
最初に聞こえたのは、鐘の音だった。
次に、歌。何百、何千という人間が、同じ旋律を口ずさんでいる。言葉はわからないのに、なぜか意味だけが頭に入ってくる。
——均しからんことを。均しからんことを。
まぶたの裏が、明るい。
「お目覚めですか、聖者様」
目を開けると、女の人の顔があった。
麦の穂のような色の髪が、肩の上でやわらかく揺れている。灰色がかった青い瞳が、まっすぐに俺を覗き込んでいた。
——懐かしい。
最初に浮かんだのは、なぜかその言葉だった。
どこかで会ったことがある。そんな気がした。いや、ない。断じてない。三十三年の人生で、こんな美人と知り合う機会は一度もなかった。会ったことがあれば絶対に覚えている。
「……あの」
「はい」
「ここは、どこでしょうか」
彼女は花が咲くように笑った。
「聖王国ディケ、聖都の天秤大聖堂でございます。ようこそお越しくださいました、天上の御方」
*
体を起こすと、背骨がばきりと鳴った。
痛い。腰が痛い。
見下ろせば、ヨレヨレのスーツ。ネクタイは緩んだまま。胸ポケットには会社の名刺入れ。どこからどう見ても、年度末の締めを終えた三十三歳の経理マンだ。
——転生って、もっとこう、若返ったりするんじゃないのか。
異世界転生というものの知識は、人並みにある。トラックに轢かれて、赤ん坊に生まれ変わって、なぜか最強で、なぜかモテる。そういうやつだ。
俺は、腰が痛いまま、スーツのまま、ここにいた。
顔を上げた瞬間、言葉を失った。
巨大な聖堂だった。天井ははるか上にあり、色ガラスの窓から朝の光が降り注いでいる。そして祭壇の真上には、黄金の天秤が吊るされていた。
大きい。家一軒ぶんはある。左右の皿は静かに釣り合っていて、片方の皿には、金でできた麦の穂の彫刻が載っていた。
俺が寝かされていたのは、その真下の祭壇だった。
祭壇の向こうに、人。
人、人、人。
聖堂を埋め尽くす群衆が、俺を見ていた。泣いている人がいる。祈っている人がいる。子どもを肩車して、俺を指さしている父親がいる。
「三百年目の聖者様だ!」
「穂祭の朝に、天から降りられた!」
歓声が、石の壁に反響して地鳴りのようになった。
*
「ようこそ、天上の御方」
群衆が静まった。
祭壇の脇から、灰色の法衣の男性が歩み出てきた。銀色の髪。年齢は五十代くらいだろうか。法衣の胸には金糸で天秤の紋が刺繍されている。
声は穏やかで、よく通った。
「私は天秤院の院長、エノクと申します。三百年目の春に、あなたをお迎えできたことを、女神ディケに感謝いたします」
「は、はあ……」
「聖者様。どうか、御名をお聞かせください。民があなたを讃えるために」
御名。名前か。
ここで俺の体は、十年間の社会人生活で叩き込まれた反射に従った。
背筋を伸ばす。胸ポケットに手を入れる。名刺入れを取り出す。両手で一枚を差し出しながら、軽く頭を下げる。
「申し遅れました。わたくし、穂積製粉の——っくしゅん!」
くしゃみが出た。
盛大に出た。名刺が手から飛んで、祭壇の階段をひらひらと落ちていった。
「……失礼しました。わたくし、しろ——っくしゅ!」
二発目。
鼻がむずむずする。花粉症ではないはずだ。いや、この世界にスギがあるかは知らないが。
「た、大変失礼を。わたくし、代——はっくしゅん!!」
三発目は、一番大きかった。
*
聖堂が、しんと静まりかえった。
祭壇の下で、羽根ペンを握りしめた若い男が、羊皮紙に何かを猛烈な勢いで書きつけている。痩せていて、指先がインクで真っ黒だ。
「は……く……し……」
若い男は顔を上げ、目を輝かせた。
「記帳いたしました! 聖者様の御名は、『ハクシ』様!」
「いや違う」
「聖ハクシ様!!」
エノク院長が、ゆっくりと両手を広げた。
「聖ハクシ様。三百年目の聖者の御名に、まことにふさわしい」
群衆が叫んだ。
「ハクシ様!」「聖ハクシ様!」「ハクシ! ハクシ!」
違う。
それはくしゃみだ。
俺の名前は代田誠だ。三十三年間、ずっとそうだった。役所の書類にも、給与明細にも、そう書いてある。
なのに、言おうとすると、鼻の奥が猛烈にむずがゆくなる。
聖堂を揺るがすハクシコールの中で、俺は呆然と立ち尽くし、そして、言った。
「す、すみません……」
その瞬間、群衆が水を打ったように静まった。
羽根ペンの若い男が、震える声で叫んだ。
「聖者様は仰せだ! 『まだ、済んでいない』と!」
え?
「三百年の祝福が来てなお、未だ済まず、と! さらなる恩寵を約束なさった!」
「おお……!」
「未だ済まず!」「未だ済まず!」
言ってない。
そんなことは、一言も、言ってない。
祭壇の脇で、エノク院長がわずかに目を細めたのが見えた。笑ったのか、別の何かなのか、俺にはわからなかった。
*
「聖者様」
さっきの麦の穂色の髪の女性が、俺の前に進み出て、深々と頭を下げた。
「本日より、聖者様のお世話を仰せつかりました。恩寵の子、アリスタと申します。なんなりとお申しつけくださいませ」
「あ、はい。代——いえ、その、よろしくお願いします」
顔を上げた彼女は、もう一度笑った。
やっぱり、懐かしい。
理由はわからない。わからないのに、胸の奥のどこかが、ほんの少しだけ温かくなった。
彼女は祭壇の階段を一段降りようとして、裾を踏み、盛大につまずいた。
「あっ」
転ぶ——と思った瞬間、彼女の手が、階段に落ちていた何かをつかんでいた。
俺の名刺だった。
「まあ。天上の文字が書かれた、聖なる札です!」
アリスタは名刺を、宝物のように胸に抱いた。転んだのに、なぜか一番いいものを拾っている。
「私、昔から運だけはいいんです」
俺は苦笑いをしながら祭壇を降り、最後の一段を踏み外して、足首をひねった。
*
その日の午後、エノク院長が、静かな声で教えてくれた。
「聖者様には、これから一年の間、この国に恩寵をもたらしていただきます」
「一年」
「はい。そして来年の穂祭の日、あなたは天へと還られる」
一年の務め。終わったら、天へ還る。
俺はその言葉を、頭の中で、慣れ親しんだ言葉に置き換えた。
——一年の、出向か。
会社の命令で、よその会社に一年間行かされる。任期が満了すれば、元の会社に戻る。経理部の先輩にも、子会社に出向した人がいた。
任期満了で帰任できるなら、悪くない。
一年。たった一年だ。それが終われば、帰れる。
母さんに、あのLINEの返事を、送ることができる。
俺は、そう思っていた。




