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聖者様は領収書をご所望です ~経理主任(33)、異世界の聖者になったら、この国の帳簿が三百年分の粉飾決算でした~  作者: とっとっととっとって


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Episode02_一円が合わない

第2話 一円が合わない


 一円が合わないとき、経理の人間がやることは決まっている。


 全部、見直す。


 一円だから適当に「雑損失」で処理してしまえ、という人もいる。実際、それで困ることはほとんどない。誰も気づかないし、誰も怒らない。


 でも俺には、それができなかった。


 釣り合わないときは、どこかで誰かが損をしている。


 父の声が、耳の奥に貼りついて剥がれないのだ。


*


 午前零時を回った。


 仕訳帳を一行ずつさかのぼる。三月の取引だけで、数千件ある。


 目が乾く。肩が鳴る。腰が、じわじわと重くなってくる。三十三歳の腰は、もう若者の腰ではない。


 俺はデスクの引き出しを開けた。


 中に、茶色く変色した大学ノートが一冊入っている。


 表紙には、ボールペンで「まことへ」と書いてある。


 父の字だ。


 父の「ま」は、最後の結びの輪が、普通とは逆向きに丸まる。字が下手だったわけではない。ただの癖だ。子どもの頃、真似をして書いたら、担任の先生に赤ペンで直された。


 ノートの中身は、父が俺のために手書きした簿記の教本だった。「仕訳とは」「借方とは」「貸方とは」。八歳の子どもに向けたとは思えない、几帳面な文字が並んでいる。


 父が最後に書いた頁の見出しは、「まちがえたとき」だった。


『まちがえた仕訳は、消しゴムで消してはいけません。その下に、正しい一行を書き足します。そうすれば、帳簿は、どこでまちがえて、どう直したのかを、ずっと覚えていてくれます』


 その先は、白紙のままだ。


 行き詰まると、俺はこのノートをめくる。


 別に、何かが書いてあるわけではない。ただ、めくる。


*


 二〇〇一年の春のことを、俺は今でもよく覚えている。


 父と、日曜日に花見に行く約束をしていた。熊谷の荒川の土手の、桜並木。父は「弁当はお母さんの唐揚げだな」と笑っていた。


 前の晩、父は帰ってくるなり言った。


「ごめんな、誠。日曜、仕事になった」


 信用金庫の年度初めは忙しい。今ならわかる。痛いほどわかる。


 でも八歳の俺には、わからなかった。


「お父さんなんか、いなくなればいい」


 そう言って、自分の部屋に閉じこもった。


 次の朝、父は布団の中で冷たくなっていた。


 突然死だった。原因はわからなかった。この国では、珍しいことではないらしい。テレビでは毎年のように「突然死の件数が過去最多」と報じられている。


 母は俺を責めなかった。誰も、俺を責めなかった。


 だから俺は、自分で責めることにした。


 ——俺が、いなくなればいいなんて言ったから。


 子どもじみた理屈だ。わかっている。三十三歳の大人として、ちゃんとわかっている。


 わかっているのに、二十五年、剥がれない。


*


 同じ年の秋、俺は高熱を出した。


 四十度を超える熱が、二週間下がらなかった。病院の先生は首をかしげ、点滴をいくつも替え、最後には母を廊下に呼んで、何か小さな声で話していた。


 あのとき俺は、たぶん、死にかけていた。


 ある夜、熱は嘘のように引いた。


 目を覚ますと、母がベッドの横で泣いていた。


「お父さんが、守ってくれたのよ」


 母はそう言って、俺の手を握った。


 信心深い人ではない。ただ、そう思いたかったのだろう。俺もそう思いたかった。思いたかったけれど、思えなかった。父を追い出した俺を、父が守る理由なんかない。


 それ以来、俺の人生は、地味に運が悪い。


 大きな不幸はない。ただ、財布をよく落とす。傘を持って出ると晴れ、持たないと降る。くじは当たらない。好きになった人には「いい人なんだけどね」と言われる。


 まあ、普通だ。


 この国の人間は、みんなだいたいこんなものだ。


*


 午前一時三十八分。


「……あった」


 見つけた。


 三月十八日、楠木が入力した振込手数料の仕訳。税込金額の端数処理を、一か所だけ切り捨てではなく四捨五入していた。


 一円。


 たった一円。


 修正を入れ、試算表を再計算する。


 借方合計と、貸方合計。


 ——釣り合った。


 俺は椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げて、長く息を吐いた。


 誰にも褒められない。誰も知らない。明日の朝、蛭田課長は「締め、終わった?」と聞き、俺が「終わりました」と答えれば、「あ、そう」で終わる。


 それでいい。


 どこかで誰かが損をしているよりは、ずっといい。


*


 ビルを出ると、夜の空気は冷たかった。


 終電はとっくにない。タクシー乗り場まで、日本橋川沿いを歩く。


 ふと、空を見上げた。


 何年ぶりだろう。見上げる余裕なんて、ずっとなかった。


 北斗七星が、ビルの隙間に見えた。柄のカーブをたどっていくと、オレンジ色の星がひとつ。アークトゥルスだ。


 その先は、なにもない。


 ぽっかりと、黒い空白があるだけだ。


「……寂しい空だな」


 声に出してから、少し笑った。黒板の空白を思い出したのだ。


 そうだ、母さんに返事をしないと。


 スマホを取り出し、LINEを開く。『腰が痛いよ』の下に、文字を打つ。


『大丈夫? 今度の週末、そっち』


 そこで、胸が、ぎゅっと縮んだ。


 心臓を、誰かの手が握りつぶそうとしている。そんな感じがした。


 息が吸えない。膝から力が抜ける。歩道に手をつく。スマホが手から滑り落ちて、画面が上を向いたまま、光っている。


 送信ボタンを、押していない。


 ——ああ、そうか。


 ぼんやりと、思った。


 これが、厄指数「非常に高い」か。


 視界の端が暗くなっていく。春の空の、アークトゥルスの先の、あの空白みたいに。


 遠くで、何かが傾く音がした。


 重い金属の皿が、ぎい、と軋むような。


 天秤が、片側に傾くような音だった。


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