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聖者様は領収書をご所望です ~経理主任(33)、異世界の聖者になったら、この国の帳簿が三百年分の粉飾決算でした~  作者: とっとっととっとって


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Episode01_厄指数、非常に高い

第1話 厄指数、非常に高い


 春の夜空は寂しい。


 明るい星がひとつもないからだと、小学校の理科で習った。


 夏には夏の大三角があり、冬にはオリオンがいる。けれど春の空だけは目印に乏しい。北斗七星の柄のカーブを、そのままぐうっと伸ばしていくと、オレンジ色のアークトゥルスに行き着く。これを「春の大曲線」という。


「春の大曲線は、アークトゥルスで終わります。その先には、なにもありません」


 担任の先生はそう言って、黒板に引いた白い線の先を、指でとんとんと叩いた。そこには何も描かれていなかった。


 三十三歳になった今でも、俺は春の夜空を見上げるたびに、あの黒板の空白を思い出す。


 もっとも、最近は見上げる余裕もないのだが。


*


『——続いて、厄予報です』


 午前五時五十分。ワンルームのテレビの中で、お天気キャスターが爽やかに微笑んだ。


『本日、三月三十一日の厄指数は、関東地方で「非常に高い」でしょう。年度末と重なることもあり、転倒、紛失、取引先からの理不尽なお電話などにご注意ください。お出かけの際は傘と、謝罪の準備をお忘れなく』


 笑顔が爽やかすぎて、腹が立つ。


 厄指数。「低い」「やや高い」「高い」「非常に高い」の四段階で、気象庁が毎朝発表している数字だ。花粉と同じで、高い日はなんとなく体が重く、ろくなことが起きない。


 海外にはこういう予報がないらしく、「日本人は占いを天気予報でやっている」と笑われているそうだが、知ったことか。当たるのだから仕方がない。


『なお、昨年度の厄指数の年間平均は、十二年連続で観測史上最高を更新しました。専門家は「国民一人ひとりが、日頃から澱《おり》をためないことが大切」と呼びかけています』


 澱がたまる。


 疲れることを、この国ではそう言う。


 俺、代田(しろた)誠(まこと)は、テレビに向かって「ためたくてためてるわけじゃないです」と小さく反論し、トーストの最後のひとかけを口に押し込んだ。


 スマホが光っている。


 母からのLINEだ。昨夜の二十三時四十八分。


『腰が痛いよ』


 それだけ。


 熊谷の実家で一人暮らしをしている母は、六十二歳になる。たぶん、返事が欲しいのだ。わかっている。わかっているが、今日は年度末で、月末で、決算の締めで、厄指数が「非常に高い」。


 既読だけつけて、俺は家を出た。


 ——夜、帰ったら返そう。


 そう思った。


*


 京浜東北線の満員電車は、人間の尊厳を一駅ごとに少しずつ削り取っていく装置だ。


 知らないおじさんの肘が肋骨に刺さり、知らないお姉さんの髪が鼻をくすぐり、知らない誰かの鞄が膝裏を正確に押してくる。俺は吊り革にもつかまれないまま、乗客の波に体を預け、今日の段取りを頭の中で反芻した。


 売掛金の消し込み。未払費用の計上。固定資産の減価償却。それから、営業部が今日になって出してくる経費精算の山。


 毎年のことだ。毎月のことだ。


 社会人になって十年。この電車に、いったい何回乗っただろう。


 数えたこともないし、数えたくもない。


*


 穂積製粉株式会社の本社は、日本橋小網町の古いビルの四階にある。


 小麦粉を作って売る、地味だが堅実な会社だ。社章は麦の穂。俺はその経理部で、主任をやっている。


 主任手当は月三千円。


 責任は増えたが、残業代は「管理職に準ずる」という謎の理屈で減った。差し引きすると、主任になって俺の手取りは下がっている。経理の人間が自分の給与明細の計算で負けているのだから、世話はない。


「代田くーん」


 席に着くなり、背後からねっとりした声がした。


 蛭田課長だ。五十二歳。口癖は「主任でしょ」。


「営業二課の精算、まだ?」


「今朝届いたばかりで、これから——」


「主任でしょ?」


「……すみません」


「あとさあ、監査法人さんから問い合わせ来てたよね。あれ、昨日のうちに返しといてって言ったよね」


 言われていない。言われていないが、言われていないと言うと三十分の説教になることを、俺は経験から知っている。


「すみません、すぐやります」


「頼むよ、主任なんだから」


 課長はコーヒーを片手に去っていった。厄指数「非常に高い」は、今日も正確だ。


「主任、顔に澱たまってますよ」


 隣の席から、後輩の楠木が覗き込んできた。二十五歳。仕事は早いが、雑だ。


「たまってない」


「たまってますって。目の下、こんなんなってますもん」


「年度末だからな」


「俺、今日は定時で帰りますね。厄指数が『非常に高い』日は早く帰れって、母ちゃんに言われてるんで」


「……そうか」


 うらやましい、とは言わなかった。言ったところで、仕事が減るわけではない。


 俺はパソコンを立ち上げ、精算書の束を引き寄せた。


*


 経理という仕事が好きか、と聞かれたら、たぶん俺は「普通です」と答える。


 好きでも嫌いでもない。ただ、向いてはいると思う。


 経理の基本は複式簿記だ。あらゆる取引を、左側の「借方」と右側の「貸方」に、同じ金額で書き分ける。現金が増えたら、なぜ増えたのかを反対側に書く。何かを失ったら、何と引き換えに失ったのかを反対側に書く。


 だから最後には、必ず左右が釣り合う。


 ——借方と貸方は、必ず釣り合う。


 父の口癖だった。


 地元の信用金庫で働いていた父は、小学生の俺に、台所のテーブルでそろばんと簿記を教えてくれた。夕飯のあとの、醤油の匂いが残るテーブルで。


「いいか、誠。借方と貸方は、必ず釣り合う。釣り合わないときはな」


 父はそろばんの珠を、ぱちんと弾いた。


「どこかで、誰かが損をしてるんだ」


 その父は、俺が八歳の春に死んだ。


 もう二十五年も前の話だ。


*


 午後十時。


 フロアに残っているのは、俺ひとりになった。


 楠木は宣言どおり定時で帰り、蛭田課長は「じゃ、あとよろしく、主任」と言い残して七時に消えた。


 試算表の数字を、最後にもう一度確かめる。


 売上、仕入、経費、資産、負債。


 借方合計と、貸方合計。


 ——合わない。


 俺はモニターに顔を近づけた。何度見ても、同じだった。


 借方と貸方が、一円だけ、合わない。


「……嘘だろ」


 壁の時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。


 窓の外は真っ暗で、日本橋川の向こうのビルの灯りも、ほとんど消えている。


 厄指数、非常に高い。


 今日という日は、まだ終わっていなかった。


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