第七話 確認できたところまでに直す
「今日、決められることだけ?」
アルベルト殿下が、確かめるように繰り返した。
「はい」
「何を決める」
問われて、ミレイは反射的に進行表へ目を落としたが、もちろんそこに答えは書いていなかった。
婚約解消も教本も王家の申し入れも、三週間前の自分が書いた予定表には一文字も載っていないのだから、当然といえば当然だった。
「まず、ご婚約のことです」
セレスティアが、ほんのわずかに顔を上げた。
「殿下は、解消のご意思を示されています」
「ああ」
「公爵令嬢は」
拡声具を向けると、セレスティアはすぐには答えず、一度だけ殿下のほうへ目をやった。
ほんの一瞬で、それからすっと逸らした。
「望みません」
短い返事だった。
殿下の眉がかすかに動いたが、それ以上は何も起きなかった。
「では、お二人に解消のご意思があることだけを、今夜ここで伺ったことにします。正式なお手続きは、両家で」
「それならば、異論はない」
学院長はそう言ってから、少しだけ間を置いた。
「それから、公爵令嬢の卒業資格については、調査を終えるまで判断しない」
殿下は何も言わなかった。
ミレイは小さく頷いてから次へ移った。
「ノーラさんの件は」
ノーラの肩が、小さく揺れた。
「本人が認めている。学院で預かる」
「お願いします」
「セレスティアの黙認もだ」
殿下が続け、セレスティアは否定しなかったし、ミレイもそこには触れなかった。
「そちらも、正式な調査へ」
「当然だ」
「では、階段と、衣装について」
大広間の空気が、少しだけ変わった。
殿下の視線が従者の持つ文書へ落ち、リリアもそれを見たが、セレスティアだけは紙のほうを見ようともしなかった。
「階段は、モーレン嬢が押されるところをご覧になっていません」
リリアが、小さく頷いた。
「衣装のそばの小刀は、公爵令嬢個人の持ち物ではありません」
「公爵家の物ではある」
「はい。ですから、調べる必要はあります。ただ」
そこで言葉が詰まった。
頭の中では分かっているつもりのことが、口の手前でうまく形にならず、ミレイは拡声具を一度握り直した。
「調べてください、と、やりました、は……同じ欄に書くものでは、ないかと」
言ってから、今の言い方で合っていたのか自分でも少し不安になった。
それでも、階段から突き落とした、衣装を切り裂いた、と書いたまま王家の封蝋を押させるのは違う、ということだけは、さっき見た紙の二行がはっきり教えてくれていた。
殿下は黙ったまま、従者へ手を差し出した。
「貸せ」
「は」
紙を受け取った殿下は、しばらくそれを見下ろしていた。
誰も急かさなかったし、ミレイも懐中時計には触れなかった。
「……文面は、直す」
従者が顔を上げた。
「四件ともですか」
訊いたのはミレイだった。
殿下は、少しだけ嫌そうな顔をした。
「確認できたところまでに直す」
紙が従者の手へ戻ると、青年は懐から小さな筆入れを取り出し、さっきまで小刀を載せていた銀盆を裏返して机の代わりにした。
それから筆を構えたまま、少し迷った。
「どちらから」
「上から二つ」
「階段と、衣装と」
「そうだ」
「横線は二本にいたしますか。一本ですと、あとで下の字が読めてしまいますので」
「一本でいい」
殿下は即座に言った。
「消したことが、分かるように」
従者の筆が紙の上を走り、上の二行に、それぞれ一本ずつ細い線が引かれた。
線の下の字は、司会台からでも十分に読めた。
「代わりに、何と」
筆を止めたまま従者が訊くと、殿下は一度だけミレイを見て、それから紙へ目を戻した。
「東棟階段での転落。要調査」
「衣装のほうは」
「祝賀衣装の損壊。アルヴェイン家の裁縫小刀との関わりを要調査」
線を引いた二行のすぐ下に、名前の入っていない新しい二行が書き足された。
「書簡は」
従者が訊き、殿下の手が止まった。
従者も止まり、ミレイも思わず息を止めた。
「……送ったこと自体は、本人が認めている」
「はい」
「だが、脅迫ではない」
殿下は、苦いものでも飲み込むように顎へ手をやった。
「面談の申し入れを、申し入れの理由には書けんな。外せ」
従者の筆が、三行目にも線を引いた。
「教本焼却への関与、は」
「黙認です」
答えたのはセレスティアだった。
全員がそちらを振り向いたが、彼女は扇を閉じたまま、紙のほうを真っ直ぐ見ていた。
「関与ではありません。書くなら、事実のとおりに」
殿下は少し黙ってから、従者へ顎を引いた。
「そのとおりに直せ」
「承知いたしました」
筆先がまた紙を走り、四つの項目にはすべて線が引かれて、その下に、本人たちの口から出たとおりの言葉が三行だけ残った。
ミレイはその手元を、黙って見ていた。
(見られていても、私はたぶん、同じように直していた)
従者が筆を置き、紙を殿下へ差し出した。
殿下は目を通し、今度は何も言わずに頷いて、それを二つに折った。
紙の折れる乾いた音が、妙に大きく大広間に響いた。
「セレスティア様」
リリアの声だった。
セレスティアがそちらを見ると、リリアは胸の前で組んだ指を一度ほどき、それからまた組み直した。
「私、謝ってほしいです」
会場の何人かが、息を止めたのが分かった。
セレスティアは黙っていた。
「階段とか、小刀とかじゃなくて。手紙も……怖かったですけど、それだけでもなくて」
リリアは目を逸らしかけて、途中で踏みとどまった。
「ずっと、見下されてるみたいで。私がそこにいるだけで邪魔だって言われてるみたいなのが、嫌でした」
誰も口を挟まなかった。
ミレイも拡声具をリリアのほうへ向けたまま、助け舟になりそうな言葉は一つも出さなかった。
しばらくして、セレスティアが小さく息を吐いた。
「……そうですね」
またそれか、とミレイが思いかけたところで、今度は続きがあった。
「あなたのことは、嫌っていました」
「知ってます」
「そう」
セレスティアの口元が、ほんのわずかに歪んだ。
笑ったのではなく、どう返せばいいのか分からない顔だった。
「嫌っていたことと、ああ書いたことは、別の話でした」
少し間を置いてから、セレスティアはリリアのほうへ、ほんの浅く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
リリアはすぐには答えず、やがて小さく頷いた。
「私も」
今度はリリアのほうが言葉に詰まった。
「見てないことを、見たみたいに言いました」
殿下が何か言おうと口を開いたが、リリアはそちらを見て、先に首を振った。
「殿下に言われたから、じゃないです。私も、そうだと思ったから」
殿下の口が閉じた。
リリアはそれ以上何も言わず、セレスティアも何も返さず、二人はそのまま、互いの顔から少しだけずれたところへ視線を落とした。
「殿下」
「何だ」
「以上で、申し立ての確認を終えてもよろしいですか」
殿下はすぐには答えず、折った文書を見て、リリアを見て、最後にセレスティアを見た。
「……ああ」
「ありがとうございます」
ミレイは懐中時計を開いた。
21時12分。
鉛筆を進行表の余白に当てると、今度も芯は欠けなかった。
進行押し時間 二十七分。
書き終えたところで、舞台袖から咳払いが聞こえた。
「ハーグローヴ嬢」
「はい」
「私の挨拶は」
ミレイは時計を見た。
「三分でお願いします」
「十五分の予定だったはずだが」
「三分です」
学院長はしばらくミレイを見ていた。
推薦のことは何も言わなかったし、ミレイも訊かなかった。
「……分かった」
学院長が壇上へ歩いていく背中を見送りながら、ミレイはようやく進行表を表へ返した。
三週間かけて揃えた時刻はほとんどが役に立たなくなっていたが、いちばん下の一行だけは、まだ線を引かれずに残っていた。
21時50分 閉会の辞 王太子殿下
(そこだけは、守りたい)
たぶん無理だろうけれど。




