第八話 もう過ぎました!
「――以上をもって、卒業生諸君へのはなむけとする」
壇上の学院長が言い終えて一度こちらを見たので、ミレイは懐中時計に目を落とした。
21時15分、きっかり三分で、この人は約束を守る人だったらしい。
拍手が起こった。
ついさっきまで婚約が壊れ、侍女が罪を認め、王太子が正式文書に横線を引いていた場所とは思えないほど、ちゃんと卒業の日らしい拍手で、人間というのは驚くほど切り替えが早い。
(祝宴で生き残るには必要な才能なのだと思う。私にはあまりない)
ミレイは間を空けずに拡声具を取った。
「続きまして、卒業生代表謝辞です」
壇の脇で待っていた卒業生代表の男子生徒が、明らかにほっとした顔で原稿を広げて進み出た。
ところが三行ほど読んだところで、彼はふと顔を上げ、大広間を見渡してから咳払いをひとつした。
「ええ……本日の、その、色々を踏まえまして」
(原稿にない。また増える)
ミレイが進行表の該当箇所に指を置いて身構えていると、代表は手元の原稿を何枚かまとめてめくり、そのまま束の後ろへ回した。
「予定より長くなっておりますので、私からは一つだけ」
会場のあちこちから小さな笑いが漏れ、ミレイは思わず顔を上げた。
三週間前、謝辞の長さは二十分で足りるかと三回も確かめに放送室へ来た人だった。
壇から下りてきた学院長が、司会台の脇で足を止めた。
「三分だったな」
「はい」
「本当に三分だった」
「お願いしましたので」
学院長はそこで黙り、ミレイも黙った。
推薦のことか、さっきのことか、進行以上のことをするなと言われていながら堂々と越えたことか、何を言われても困るものばかりで、ミレイは拡声具の柄を握ったまま次の言葉を待った。
学院長は、ミレイの手元の進行表へ目を落とした。
「次は」
「謝辞のあと、歓談です」
「謝辞は、予定では21時からだったな」
「存じています」
「そうか」
それだけ言って、学院長は職員の列のほうへ歩いていった。
推薦の話は出なかったし、出なかったことをどう受け取ればいいのかも分からなかったが、ミレイは追いかけなかった。
(訊いたら、決まってしまう気がする)
決まっていないものは、ひとまず進行表の外へ置いておくことにした。
今夜まさにそれで一度痛い目を見た気もしたが、自分の進路については別勘定ということにしておく。
「ハーグローヴ嬢」
背後から呼ばれて振り返ると、セレスティアが立っていた。
少し離れた壁際ではノーラが学院の職員に付き添われていて、リリアは殿下のそばにいたが、さっきまでのように殿下の背中の半歩後ろではなく、隣に並んでいた。
「先ほどは――」
「申し訳ありません」
セレスティアが止まった。
「……何が、ですか」
「歩きながらお願いします。楽団と歓談の時間を詰めないといけませんので」
ミレイは進行表と拡声具を抱え直し、壁沿いに楽団の陣取る一角へ向かって歩き出した。
数歩遅れて、セレスティアの靴音がついてくる。
「お礼を申し上げようと思ったのですが」
「伺っています」
「こちらを見ずに?」
「聞くのに目は要りませんので」
「そうですか」
「はい」
楽団員たちは最後の一曲の譜面を広げ直していて、例の楽団長と目が合うと、彼は無言で自分の懐中時計を指さした。
ミレイも自分の時計を見た。
21時21分で、一つだけと宣言した謝辞は21時半には畳まれそうだったし、歓談を二十分に詰めれば、閉会の辞はちょうど元の時刻に戻る。
たぶん間に合う。
今夜一晩で、たぶん、という言葉の信用はずいぶん目減りしていたが、ほかに使える言葉もない。
「歓談を十分削ります。撤収は予定どおり、22時でお願いできますか」
「十分」
「はい」
楽団長はそれきり何も言わずに部下へ顎をしゃくり、譜面の束から一枚が抜かれた。
今夜いちばん話の早い人だった。
「それで」
隣でセレスティアが言った。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
「ずいぶん軽いのですね」
「重く受け取ると、何か追加でお仕事が来そうなので」
「来ますよ」
ミレイの足が止まり、セレスティアの足も止まった。
「何がですか」
「お仕事です。公爵家の」
「嫌です」
「まだ内容を申していません」
「今夜を見る限り、公爵家から来るお仕事に平穏なものがあるとは思えません」
セレスティアは少しのあいだ黙った。
ミレイは否定の言葉を待ったが、それはいつまで経っても来なかった。
「揉め事は、多いでしょうね」
「では嫌です」
二人はまた歩き出した。
セレスティアは扇を閉じたまま指に提げていて、今夜ずっと盾のように使っていたそれを、もう開く気がないのか、単に開く気力も残っていないのかは、横顔からは分からなかった。
「卒業後の進路は、お決まりで?」
ミレイの足が、ほんの少しだけ遅くなった。
「……たぶん、今夜なくなりました」
「たぶん?」
「まだ何も言われていませんので」
「では」
「嫌です」
「まだ何も」
「公爵家でしょう」
「ええ」
セレスティアの口元が、ほんの少しだけ持ち上がった。
さっきの、返し方に困っていた顔とは違ったから、たぶん笑ったのだと思う。
笑ったのを見たからといって何か言う必要もないので、ミレイは何も言わなかった。
司会台の近くまで戻ったところで、セレスティアがもう一度だけ足を止めた。
「ハーグローヴ嬢」
「はい」
「今のお返事、覚えておきます」
「忘れてください」
セレスティアはそれには答えず、銀髪を揺らして公爵家の侍女たちのいる壁際へ戻っていった。
壇上では卒業生代表が、宣言どおり一つだけ話し終えて深々と頭を下げているところで、壁の大時計は21時半を少し回っていた。
拍手が起こり、楽団が最後の一曲を奏で、二十分に詰めた歓談の時間がグラスの触れ合う音のなかでみるみる溶けていった。
ミレイは楽団の撤収と給仕の片付けの順番を確かめ、学院長に一礼し、ノーラが職員と大広間を出ていくのを目の端で見送った。
進行表を表に返すと、いちばん下の一行が目に入った。
21時50分 閉会の辞 王太子殿下
(あの人、まだ原稿を持っているんだろうか。婚約者の名前が入っていたりしないだろうか)
確かめに行こうかと迷ったところで、給仕頭に下げる皿の順番を訊かれ、それに答え終えたとき、壇の下から声が飛んできた。
「ミレイ!」
アルベルト殿下だった。
ミレイは手を止め、大広間も、今夜何度目か分からないほど律儀に止まった。
「はい」
「閉会の挨拶は、いつだ!」
ミレイは懐中時計を開いた。
21時51分。
「もう過ぎました!」




