第六話 名前を足したのは、私です
「あの小刀、セレスティア様の物だって、私、放送で聞いたんです」
リリアの声は、ノーラへ問いかけたときよりずっと弱かった。
責める相手が決まっているときより、自分の中にあるものを一つずつ確かめながら喋るほうが、たぶんずっと怖いのだろう。
「放送?」
「三日前の、夕方の」
アルベルト殿下が眉を寄せ、ミレイは何も言わなかった。
言わなかったのではなく、言う前に、放送室の机と、右肩上がりの読みにくい字と、それを清書し直した自分の手元が、順番も何もなく一度に戻ってきていた。
「セレスティア・アルヴェイン嬢の小刀を探しています、って」
(名前を足したのは、私だ)
手元の進行表が、急に薄くなったような気がした。
さっき欠けた芯の粉まで同じ場所に残っている同じ紙なのに、自分の書いた字だけがやけに目について、どこに視線を置けばいいのか分からなくなる。
「君が読んだのか」
「……はい」
「放送で、そう流れたのか」
「流れました。ですが」
ミレイは一度だけ息を吸った。
「依頼文には、そう書かれていませんでした」
リリアが顔を上げ、セレスティアも今度ははっきりとこちらを見た。
「何と書いてあった」
殿下の声が低くなった。
探す必要はなかった。
一度思い出してしまえば、あの文面は最初からずっとそこにあったような顔で、頭の真ん中に居座っていた。
「アルヴェイン家の紋章入り裁縫小刀を一振り紛失しました、と」
「それを、君が」
「読みやすく直しました」
「どう直した」
ミレイは一瞬、口を閉じた。
言いたくないわけではなかったが、自分の声で自分の間違いを読み上げるのは、他人の言葉の順番を確かめるのとはまるで違って、喉の奥に何かが引っかかった。
「セレスティア・アルヴェイン嬢の小刀を探しています、と」
大広間が静かになった。
今夜は何度も静かになってきたが、今度の静けさだけは、司会台のすぐ周りに溜まっているように感じられた。
「なぜ名前を足した」
「誰の落とし物か分かったほうが、戻りやすいので」
「本人の物かどうかは」
「確かめていません」
リリアが俯いた。
「私、それで……」
続きが出てこず、ミレイは待った。
さっきまでのように、続きを促す言葉を差し出す資格が、今は少し目減りしている気がした。
「小刀を見たとき、やっぱりって思ったんです。放送で聞いてたから」
責める調子ではなかった。
だから余計に、拡声具を握る手のひらのあたりへ真っ直ぐ刺さった。
「申し訳ありません」
ミレイはリリアへ向けて頭を下げた。
「依頼文を変えたのは、私です」
リリアはすぐには返事をしなかった。
許すと言われても困るし、責められても困るし、どちらを待っているのか自分でも分からないまま、ミレイは頭を下げた姿勢でつま先の木目を数えていた。
やがてリリアは、小さく首を振った。
「私も……確かめませんでした」
殿下が何か言いかけたが、その前に別の声が割って入った。
「ここまでだ」
学院長だった。
さっきのように半歩ではなく、柱の陰から舞台袖の明かりの中まで歩み出てきて、大広間をゆっくりと見渡した。
「この件は、学院で正式に預かる。当事者から改めて話を聞き、記録を取り、関係者も呼ぶ。これ以上ここで続けることではない」
誰も異を唱えなかった。
リリアもノーラもセレスティアも口を閉じたままで、ミレイも、それがいちばん正しい判断だと思った。
少なくとも、そう思おうとした。
「ハーグローヴ嬢。閉会へ進めなさい」
その一言と一緒に、三日前の学院長室と、推薦状の話と、でかしたを三回書いた父の手紙と、目立たないようにと一度だけ書いてきた母の手紙が、まとめて胸の内側に戻ってきた。
ここで頷けば、あとは学院がやってくれるし、自分は自分の仕事に戻れる。
ミレイは拡声具を持ち直した。
「承知――」
「待ってくれ」
アルベルト殿下だった。
「調査を学院へ預けることに、異論はない」
「ならば」
「王家からの申し入れは、予定どおり出す」
殿下が手を差し出すと、従者の青年は今夜初めて少し迷ってから、懐の一枚を渡した。
殿下はそれに目を走らせ、従者の差し出した筆記具で末尾に署名を入れた。
「殿下。調査の結果を待たれては」
「待っている間にも、被害を受けた者はいる」
「学院内のことは、私が預かると申し上げております」
「公爵家も関わっている。学院の中だけで済ませれば、結局、内々で終わる。私はそれが嫌だった」
学院長は黙った。
黙ったのは言い負かされたからではなく、殿下の言っていることにも筋が通っているからで、ノーラが教本を焼いたことも、セレスティアがそれを知って黙っていたことも、もう本人たちの口から出てしまっている。
「申し入れは、この四件で出せ」
「承知いたしました。今夜のうちに写しを三通、宮廷書記局と学院と公爵家へ。正本は王家の文書庫に納めまして、それから控えを――」
「いい」
「は」
従者が紙を胸元へ引き寄せようとしたとき、ちょうど司会台の角度から、その文面が見えた。
大きく書かれた四つの項目。
セレスティア・アルヴェインによる東棟階段での傷害
セレスティア・アルヴェインによる祝賀衣装の損壊
セレスティア・アルヴェインによる脅迫書簡の送付
セレスティア・アルヴェインの教本焼却への関与
ミレイの目が、上の二行で止まった。
階段も、衣装も、まだあの人の名前の後ろに並んでいた。
「殿下」
声が出ていた。
学院長も殿下も、そろってこちらを向いた。
「その文書は、今夜」
「出す」
「四件とも」
「そう言った」
「ハーグローヴ嬢」
学院長の声が低く落ちた。
止まれ、という意味だけは、言葉より先に分かった。
「調査は学院で行う。君の仕事は、もう終わりだ」
終わり、という言葉が、思っていたよりずっと近くに落ちてきた。
ミレイはいつもの癖で懐中時計へ手を伸ばしかけて、やめた。
代わりに、俯いたまま自分の指を握りしめているリリアを見て、泣いた跡を隠そうともしないノーラを見て、いつもの無表情に戻っているくせに扇だけは閉じたままのセレスティアを見た。
それから、従者の胸元にある紙へ視線を戻した。
(放送は、取り消しても、聞いた人の耳からは消えない)
三日前に自分が流した一行は、今夜ここで、リリアのやっぱりになって戻ってきた。
従者の胸元の紙には、まだ二行が残っている。
「ハーグローヴ嬢」
学院長が、もう一度呼んだ。
今ならまだ戻れるし、戻ったところで誰もミレイを責めはしないだろう。
ミレイは進行表に目を落とした。
学院長挨拶も卒業生代表謝辞もとっくに過ぎていて、三週間かけて守ろうとした順番は、もうどこにも残っていなかった。
「申し訳ありません」
学院長の眉が、わずかに動いた。
ミレイは拡声具を持ち直した。
「司会として、今のまま次へは進めません」
学院長は何も言わず、アルベルト殿下がゆっくりとこちらへ向き直った。
「どういう意味だ」
「その四件です」
「何が」
「確かめられていないものが、混じっています」
「だから調査する」
「調査の前のものを、申し入れの理由に残されるのですか」
殿下の顔が険しくなった。
「君は、何も決めるなと言うのか」
その声は、今夜聞いた殿下の声のなかでいちばん静かだった。
「誰かが傷ついた。教本は焼かれた。セレスティアは知っていて黙っていた。それでも、全部調べ終わるまで、何もするなと?」
ミレイは、すぐには答えられなかった。
ノーラのしたことは消えないし、リリアが怖かったことも消えないし、手続きという言葉をいくら丁寧に並べたところで、それで何かがきれいに片付くわけでもない。
「待っている間にも、傷つく者はいるんだぞ」
リリアが顔を上げた。
セレスティアは動かず、学院長も黙ったまま、誰ひとりミレイに答えを手渡してはくれなかった。
これまでなら、確認します、と言えばよかったし、権限のある誰かに訊けばよかった。
今は、その先を自分の口で言わなければならなかった。
「……はい」
ミレイは言った。
「ですから」
一度、息を継ぐ。
「今日、決められることだけ決めませんか」
殿下の眉が寄り、学院長は、今度は止めなかった。
ミレイは懐中時計を開いた。
21時9分。
欠けた芯の先を進行表の余白に当てると、今度は芯は折れず、字も掠れずに最後まで書けた。
進行押し時間 二十四分。




