第五話 そこは本当に知っていました
「目撃者の話では、現場から出てきたのはアルヴェイン家の侍女だそうだ」
アルベルト殿下がそう言った途端、会場じゅうの視線が、壁際に控えた濃紺の侍女服の列へ一斉に流れていった。
侍女たちは互いに目を合わせないまま、少しずつ身を寄せ合って、誰が名指しされても自分ではないという顔を作ろうとしている。
その列のなかで、さっき顔を伏せた一人だけが、伏せた顔をもう上げられなくなっていた。
ミレイが懐中時計を開くと針は21時1分を指していて、さっき書き直したばかりの十五分が、もう古い数字になっていた。
(数字が腐るのが早すぎる)
「ノーラ」
殿下が誰かに命じるより先に、セレスティアが口を開いた。
この人が自分から誰かの名前を呼ぶのを、ミレイは今夜初めて聞いた。
「前へ」
顔を伏せていた侍女が、ゆっくりと顔を上げた。
二十歳を少し過ぎたくらいの女で、侍女服は周りの者と同じなのに、胸元のリボンだけがわずかに曲がっていて、さっきからそこを直そうとしては途中で手を止めている。
周りの侍女がすっと道を空けたせいで、立ち止まっているほうがかえって目立ってしまい、ノーラは仕方なくといった足取りで壇の前まで歩いてきた。
ミレイはその指先を見てから、セレスティアのほうを見た。
公爵令嬢の顔は少しも変わらなかったが、扇を持つ手だけが、いつの間にか腰の高さまで下りていた。
「先週、リリアの教本が焼かれた。旧講義棟の裏手で、焼け残った紙と革表紙が見つかっている」
殿下の言葉に、リリアが唇を噛んだ。
階段のときも書簡のときも、怯えたり戸惑ったりはしていたが、はっきりと嫌そうな顔をしたのは、今夜これが初めてだった。
ミレイは理由を訊きかけてやめ、それより先に壇の前で立ち尽くしている侍女のほうへ目をやった。
「その裏手から出てくるところを――」
「存じません」
ノーラの声が、途中で裏返った。
ミレイは拡声具を持ったまま、一度だけ瞬きをした。
「まだ、何も伺っていません」
ノーラの顔から、すっと血の気が引いていった。
さっきまでの流れなら、どこかの卓からくすりと笑いが漏れていたかもしれないが、今度は大広間の誰ひとり笑わなかった。
殿下も何も言わず、セレスティアだけが一度、ほんの一瞬だけ目を閉じて、開いたときにはもういつもの顔に戻っていた。
ミレイは舞台袖の柱のほうを窺ったが、学院長はそこに立ったまま、さっきのように半歩前へ出てくる気配はなかった。
「ノーラさん。先週、旧講義棟の裏手へ行かれましたか」
「……行っておりません」
「そうですか」
ミレイはそれ以上は重ねなかった。
追及できるだけの材料は手元にないし、目撃者がいると言い出したのは殿下なのだから、その先を出すのも殿下の側の仕事だ。
案の定、殿下が目配せすると、例の従者がこの瞬間を待っていたかのように一歩前へ出てきた。
「目撃いたしましたのは庭師見習いの少年でございます。ちょうど裏庭の薪置き場へ鍬を戻しに参りまして、その際に煙が見えましたので、近づいたところ――」
「本人は」
「本日は非番でございまして」
(呼んでないんだ)
「まさか卒業祝賀会で証言が必要になるとは、誰も」
従者は心から申し訳なさそうな顔をしていて、そこはさすがに責める気になれなかった。
卒業祝賀会に証人を待機させておくような学院だったら、ミレイは入学案内を読んだ時点で別の学校を探している。
「証言書がある」
殿下が従者の懐から折り畳んだ紙を受け取り、ざっと目を走らせた。
「18時過ぎ、旧講義棟の裏手から煙が上がるのを見た。近づく途中、ノーラとすれ違った。一人だった。顔も服装も確かめた、とある」
ノーラはもう何も言わず、さっきまで弄っていた胸元のリボンからも、いつの間にか手が離れていた。
「ノーラ」
セレスティアが呼んだ。
返事はなかった。
「こちらを見なさい」
少し間があって、ノーラが顔を上げ、二人の視線が合った。
そこで何かが伝わったのか、何も伝わらなかったのか、司会台のミレイには分からなかった。
主従というものは、放送委員会よりずっと少ない言葉で仕事を回しているらしい。
「焼きました」
ノーラの声は小さかったが、拡声具は要らなかった。
大広間が、それほど静かだった。
「私が、モーレン様の教本を焼きました」
リリアの肩が小さく揺れ、殿下が一歩前へ出た。
「なぜだ」
ノーラは答えなかった。
「誰に命じられた」
「私ではありません」
割り込んだのはセレスティアだった。
「君には訊いていない」
「ですから、申し上げました」
「黙っていろ」
空気がひやりと冷えた。
ここまでの殿下は、苛立ってはいても、声を荒らげる一歩手前で必ず踏みとどまっていたのに、今のはその一歩を越えていた。
ミレイは拡声具を握り直したが、口は挟まなかった。
「ノーラ。誰の命令だ」
「誰にも」
「では、なぜ」
ノーラの唇が震えた。
「……我慢、できなかったからです」
「何が」
「お嬢様が、笑われるのが」
セレスティアの眉が、ほんのわずかに動いた。
ノーラはそれを見ないまま、一度ほどけてしまった口がもう閉じられなくなったように、言葉を継いだ。
「廊下でも食堂でも、皆、殿下とモーレン様のことばかり話していました。お嬢様が婚約者なのに、まるで邪魔な置物みたいに。お嬢様が何も仰らないから、皆、好き勝手に」
「ノーラ。もういいわ」
「よくありません」
侍女が主人の言葉を遮ったのを見て、会場の何人かが息を呑んだ。
「ずっと黙っておられたじゃありませんか。何を言われても、どうせ、って。それで――」
「ノーラ」
今度の声は、さっきより少し低かった。
ノーラは口を閉じ、閉じてから、目元を手の甲で乱暴にこすった。
ミレイは時計を見なかった。
今見たら、何かを雑に扱ってしまいそうな気がした。
「どうして、教本だったんですか」
訊いたのはリリアだった。
全員がそちらを振り向き、リリア自身も自分の声が出たことに驚いたように、胸の前で手を握った。
「……私、あれ、大事だったんです」
「存じておりました」
ノーラは俯いたまま答えた。
「どうして」
「いつも、抱えておられたので」
リリアの顔が歪んだ。
泣くほどではなく、怒鳴るほどでもなく、そのどちらにもなりきれない嫌な歪み方だった。
「だから、あれにしたんですか」
ノーラは返事をしなかった。
ミレイも、何も挟めなかった。
見たのはいつか、誰の持ち物か、手紙に続きはあるか、と順番に揃えていけば形が変わったものが、今度はどこをどう揃えても、焼いたという一点から一歩も動かない。
「セレスティア」
殿下の声が、静かになっていた。
「君は、知っていたのか」
セレスティアはすぐには答えず、扇を閉じた。
細い骨が重なる乾いた音が、大広間のいちばん奥まで聞こえた気がした。
「いつからだ」
「事件の翌日から」
「知っていて、黙っていた」
「はい」
リリアが顔を上げ、今度こそ会場の空気が完全に止まった。
ミレイもセレスティアを見た。
(そこは、知らないでいてほしかった)
味方をしているつもりはなかったし、時間を庇っているだけだと自分で言ったばかりだったのに、三件続けて形が変わったあとだったから、四件目もどこかで違うのだろうと、勝手に期待していたらしい。
鉛筆を握る指に余計な力が入って、進行表の上で芯の先が小さく欠けた。
「なぜ報告しなかった。学院にも、公爵家にも」
セレスティアは黙っていた。
「君が黙っていたせいで、リリアがまた狙われたかもしれないんだぞ」
そこで初めて、セレスティアが殿下を見た。
「そうですね」
「そうですね、で済むと思っているのか」
「思っておりません」
「なら、なぜ黙った」
セレスティアはしばらく殿下を見ていた。
書簡のことを問われたときよりずっと長く、言葉を探しているようには見えず、言うか言わないかを最後まで決めかねているような顔だった。
やがて、視線が外れた。
「言って、変わりますか」
殿下が止まった。
「……何?」
「何でもありません」
「セレスティア」
返事はなかった。
ノーラだけが俯いたまま唇を噛んでいて、殿下はその二人を見比べたまま、次に何を言えばいいのか分からなくなったように立ち尽くしていた。
ミレイは進行表に目を落とした。
裏面は丸や線や、箱の下や白茶や、意味の決まっていない走り書きでいっぱいになっていて、表に返すと、三週間かけて揃えた時刻が行儀よく並んでいた。
「確認します」
ミレイは言った。
「教本を焼いたのは、ノーラさんご本人。公爵令嬢からの指示はなかった」
「ありません」
ノーラが答えた。
「公爵令嬢は翌日にそれを知り、学院へは報告しなかった」
「はい」
今度はセレスティアだった。
ミレイはそこで止め、理由までは並べなかった。
言って変わりますか、という一言が何を指しているのか、ミレイには分からなかったし、分かったような顔をできるほどこの人と親しくもない。
「ならば、君にも責任がある」
殿下が言った。
「違うのか」
「……そうかもしれません」
あまりにあっさりした返事に、殿下はほんのわずかに顔をしかめた。
怒ったというより、殴るつもりで振りかぶった拳が空を切ってしまったときのような顔だった。
ミレイはようやく懐中時計を開いた。
21時5分で、数字はこれまでと同じように増えただけだったが、欠けた芯で書いた字は、さっきまでより少し掠れていた。
進行押し時間 二十分。
書き終えたところで、リリアが小さく息を吸った。
「殿下」
アルベルトが振り返った。
「あの……小刀のこと、なんですけど」
ミレイの手が、進行表の上で止まった。
(戻るの?)
口には出さなかった。




