第四話 書簡には続きがあります
「筆跡は、照合を済ませてある」
アルベルト殿下が掲げた紙は、折り目のところだけ白く毛羽立っていた。
何度も開いては閉じたのだろうし、その回数ぶん殿下の中で確信が固まっていったのだろうということも、紙の傷み方を見ればなんとなく想像がつく。
ここまでの話は人の記憶と、記憶よりは口の堅い小刀だったが、今度は本人の手で書かれた文字が丸ごと残っている。
ミレイは懐中時計を見かけて、やめた。
見たところで20時56分が55分に戻るわけではないし、時間というものは、こちらが困っているときほど妙に律儀に進む。
「リリア、読んでも構わないな」
「……はい」
リリアは少し迷ってから殿下の隣へ出たが、階段の件で自分の記憶を言い直したばかりのせいか、最初に壇へ上がったときより足取りがずっと重かった。
殿下は紙へ目を落とし、大広間の隅まで届くようにはっきりと読み上げた。
「王太子殿下との距離を、これ以上縮めることはお控えなさい。ご自身のお立場を、今一度お考えになるように」
そこで殿下は読むのをやめ、紙を下ろした。
大広間の空気が、今度は誰の目にも分かるほどはっきりとセレスティアの側へ傾いていった。
ミレイも、拡声具を握る指に少しだけ力が入った。
(これは、怖い)
脅迫かどうかはさておき、受け取って嬉しい手紙ではないし、寝る前に読んだら翌朝まで枕の位置が決まらない種類の文面だった。
「セレスティア。これは君が書いたものだな」
「はい」
返事があまりに早くて、ざわめきのほうが一拍遅れた。
「認めるのか」
「私が書きました」
「リリアに、私から離れろと」
「その部分は」
セレスティアはそこで言葉を切り、扇の陰で小さく息をついた。
「全部、お読みになればよろしいかと」
今度は殿下が黙った。
ほんの短い沈黙だったが、司会台から見ていると、その沈黙の間に殿下の視線が紙の下半分へ一度だけ落ちたのがよく見えた。
「殿下。続きは」
「……ある。だが、後ろは面談の日取りだ。中身には関係ない」
「では、そちらも」
「関係ないと言っている」
(関係ないなら、読んでも困らないはず)
「一部だけで終えますと、あとで長引くかと」
「君は――」
殿下は言いかけて口を閉じた。
さすがに二度目の、庇っているのか、は使わないらしく、言葉にも順番待ちのようなものがあるのだと、ミレイはどうでもいいことに感心した。
殿下は不本意そうに紙を持ち直し、一度読んだところをもう一度、さっきより少し早口で読み、そのまま先へ進んだ。
「学院内でも、殿下とあなたについて不用意な噂が広がっています。これ以上続けば、あなた自身の名誉にも関わります。一度、私と話をする時間を設けてください。日時については――」
殿下の声がそこで止まり、さっきとは違う種類のざわめきが、大広間の床を薄く這うように広がっていった。
リリアは紙を見つめていたが、セレスティアは紙のほうを一度も見ていなかった。
「日時の候補が三つと、あとは追伸でございます」
壇の端から、例の従者が控えめに口を添えた。
「お茶の銘柄をお好みで選べるようにと、東方の白茶と――」
「いい」
「は。失礼いたしました」
従者が下がり、どこかの卓で誰かが堪えきれずに小さく笑った。
ミレイは笑わなかったが、進行表の裏の、さっき箱の下と書いた場所の隣に、白茶とだけ書き足した。
殿下は咳払いをひとつして、紙を胸の前で軽く叩いた。
「文面がどうであれ、リリアに私から距離を取れと言っていることに変わりはない」
「はい」
ミレイがあっさり頷いたので、殿下のほうが少し拍子抜けした顔になった。
「……認めるのか」
「書いてありますので」
ミレイはそれ以上は言わず、拡声具をリリアのほうへ向けた。
「モーレン嬢。この面談には、行かれましたか」
リリアはすぐには答えなかった。
紙を見て、セレスティアのほうへ視線を向けかけ、途中でやめて自分の靴の先に落とした。
「……行ってません」
「理由を伺っても」
「家柄のことを言われるんだと、思いました。殿下に近づくなって、そういう話なんだって」
ミレイは頷き、それ以上は訊かなかった。
指定された日に、あの人は白茶を用意して待っていたのだろうかと考えかけて、その考えは進行表には関係がないので脇へ置いた。
訊いたところで、たぶん答えないだろうし。
「言葉を柔らかくしただけだ」
殿下が言った。
「そうかもしれません」
ミレイはそこを争わなかった。
文字の裏にある本心まで司会台から拾い上げる気はないし、そんなものまで拾い始めたら、本当に楽団の撤収どころか朝食の時間まで食い込んでしまう。
「アルヴェイン公爵令嬢」
セレスティアは返事をしなかった。
呼ばれていることは分かっているはずなのに、扇の骨を親指で一度なぞっただけで、視線すらこちらへ寄越さない。
「公爵令嬢」
「聞こえています」
「でしたら」
「何を言えと」
初めて、その声にほんの少しだけ棘が混じった。
ミレイは一瞬、次の言葉を探して迷った。
謝罪を促すのは司会の仕事ではないし、感想を求めるのも違うし、かといってこのまま黙って次へ進めば、あの紙は殿下が最初に読んだ二行だけで皆の記憶に残ることになる。
「今も、同じ文面を送られますか」
セレスティアがこちらを見た。
卒業パーティーが始まってから、いや、たぶん学院に入ってから初めて、ミレイはこの人と正面から目を合わせた。
冷たいと噂の目は、近くで見ると冷たいというより、三日続けて徹夜した上級生のそれによく似ていた。
「……いいえ」
リリアが、少しだけ顔を上げた。
「書き方は、悪かったと思っています」
「……怖かったです」
リリアが言った。
拡声具を向けたわけでもないのに、その声は不思議と大広間の奥まで届いた。
「そうでしょうね」
セレスティアの返事は、それだけだった。
謝りもせず、言い訳もせず、ミレイはその先に何か続くのを待ったが、扇の陰からはもう何も出てこなかった。
(そこで終わるの)
正しいのか間違っているのかは分からないが、この人は本当に、会話を自分からは一行も延ばさない。
「では、この書簡について確認できたのは――」
「ハーグローヴ嬢」
声は舞台袖から来た。
さっきまで柱の陰にいた学院長が、今は半歩だけ明かりの中へ出てきていて、それだけで会場のざわめきがすっと細くなった。
「はい」
「これ以上は、式典の範囲を越える」
低い声だった。
叱りつける調子ではなく、だからこそ余計に重く、ミレイは拡声具を胸の高さまで下ろした。
手のひらが少し汗ばんでいるのに、そこで初めて気がついた。
(正しい。たぶん、最初から)
「承知しました」
ミレイはそれだけ答えた。
学院長も何も返さず、また柱の陰へ戻っていったが、殿下だけが不満そうに鼻から息を吐いた。
「だが、まだ終わっていない」
「……まだ、ございますか」
「ある」
(やっぱり長い)
殿下が目をやると、従者の青年が今度は紙ではなく、会場の後方、侍女たちが固まって控えている壁際のあたりへ視線を走らせた。
何を探しているのかは分からなかったが、壁際の侍女のうち一人が、反射のように顔を伏せたのだけは見えた。
「教本の件だ。焼かれたのは先週で、これには目撃者がいる」
リリアの肩が、また小さく強張った。
ミレイは今度こそ懐中時計を見た。
20時59分で、ついさっき式典の範囲を越えると言われたばかりなのに、殿下は次の証言を始めようとしていて、それを止めるべきなのはたぶん自分なのだろう。
だが殿下は止まる気がないし、何より、目撃者がいると言った。
(それ、いちばん最初に出してほしかった)
ミレイは進行表の余白に鉛筆を滑らせた。
押し十四分、と書き終える前に、壁の大時計が21時を打ちはじめた。
ミレイは一本だけ線を引いて、その横に書き直した。
進行押し時間 十五分。




