第三話 その小刀、誰の物ですか
「次は、衣装の件だ」
アルベルト殿下の声は、さっきより一段硬くなっていた。
階段の件で思ったほど押し切れなかったから、次はもっと動かしにくいものを出すつもりなのだろうと、顔を見ただけで分かる。
懐中時計は20時52分で、学院長挨拶の予定からはもう七分遅れ、自分で切った十五分の持ち時間も残り四分しかない。
(こういうときの次は、だいたい長い)
殿下が目配せすると、従者の青年が白い布をかけた銀盆を捧げ持って、妙に慎重な足取りで壇へ上がってきた。
布がめくられ、細身の小刀が一本、照明を受けて鈍く光った。
刃渡りは親指ほどしかない装飾用の裁縫小刀で、柄には蔓草と鳥を絡めた紋章が彫り込まれている。
大広間のあちこちで息を呑む音がして、ミレイにもそれが何の紋かはすぐに分かった。
アルヴェイン公爵家の紋章は、学院の礼拝堂の寄進者名簿でいちばん上に刻まれている。
「二日前の夜、リリアが祝賀会で着るはずだったドレスが切り裂かれた。これは、その衣装箱のそばに落ちていたものだ」
「正確には、箱の下でございました」
従者が小声で付け足した。
「台の脚と箱の隙間に挟まっておりまして、私が見つけたときには布地の糸くずが刃に――」
「いい」
「は。失礼いたしました」
従者は下がったが、ミレイは箱の下という言葉だけを、進行表の裏の丸の隣に小さく書き留めた。
何に使うのかは、やはりまだ決めていない。
「この紋章を見れば、誰の物かは分かるだろう」
殿下の言葉に、視線が一斉にセレスティアへ向いた。
正直に言えば、今度はかなりまずいとミレイも思った。
階段は見間違いや思い込みが入り込む余地のある話だったが、物は黙っているし、少なくとも人間よりは余計なことを言わない。
さっきの従者は例外として。
「アルヴェイン公爵令嬢」
「私の物ではありません」
拡声具を向けきる前に、返事が来た。
「紋章が入っている」
「家の紋章です」
「君の家の物だろう」
「はい。私の物ではありません」
話が一周して元の場所に戻り、殿下の眉間の皺が一本増えた。
(会話が噛み合っていないのではなく、片方が噛み合わせる気がない)
「同じ物を、お持ちでは」
「持っておりません」
「刺繍のときは」
「鋏を使います」
セレスティアはそこで初めて扇をわずかに持ち上げ、その陰からほとんど興味のなさそうな声で続けた。
「小刀は、侍女や従者が使う物です」
ざわめきが薄くなったが、完全には消えなかった。
本人の物でないとしても、公爵家の物であることに変わりはないのだから、それは当然の反応だった。
「家中に、同じ意匠の物が」
「数までは存じません」
「学院に持ち込まれていた物は」
「侍女控室に、裁縫箱が」
そこまで聞いたところで、ミレイの頭の奥で何かが引っかかった。
「あ」
声に出ていた。
「何だ」
「いえ」
三日前の夕方、放送室の机に置かれていた依頼の紙を思い出す。
公爵家の侍女頭の字は右肩上がりの癖が強くて読みにくく、読み上げる前に放送用の原稿へ清書し直したのを覚えている。
依頼文を読みやすく書き直すのは、放送委員なら誰でも毎日やっていることだ。
時計を見ると20時53分で、自分の記憶をのんびり掘り返している時間はどこにもなかった。
「三日前に、紛失の案内が出ています」
会場の何人かが顔を見合わせ、殿下も小刀へ視線を戻した。
「紛失?」
「放送委員会に、案内の依頼が」
「誰からだ」
「公爵家の侍女頭から」
「内容は」
「紋章入りの裁縫小刀を一振り、と」
殿下は銀盆の上の小刀と、ミレイの顔とを何度か見比べた。
「つまり、ドレスの件の前日には、もうなくなっていた」
「はい」
「だが、公爵家の物ではある」
「はい」
「セレスティアの周りの人間が使った可能性は残る」
「残ります」
ミレイは間を置かずに答えた。
ここで無理に崩す理由はなかったし、崩せるだけの材料も持っていない。
本人の物ではないと分かっただけで、公爵家と無関係になったわけではなく、さっきまでセレスティアへ一直線に傾いていた視線は、今度は行き場をなくして天井のシャンデリアのあたりを泳いでいた。
(片付けていいのか誰にも分からない皿が、卓の真ん中に一枚残ったような空気)
白でも黒でもないものは、司会者にとっていちばん扱いに困る。
何しろ、次の演目へ進みにくい。
「現時点で確認できるのは、この小刀が公爵家の物であること、公爵令嬢個人の――」
「十分だろう」
殿下が遮った。
「何がでしょう」
「公爵家の人間が関わった可能性がある」
「可能性は、あります」
「なら」
「殿下」
ミレイは壁の大時計を見た。
「可能性の話を始めますと、閉会に間に合いません」
楽団長だけでなく、その後ろの打楽器奏者まで頷いた。
(味方が増えた。たぶん全員、帰りたいだけ)
殿下は何か言い返しかけて、やめた。
代わりに従者から一枚の紙を受け取り、それを大広間中に見えるよう高く掲げた。
「では、これならどうだ。リリアへ送られた書簡だ。筆跡はセレスティア本人のものと確認されている」
ざわめきがまた膨らみ、ミレイは懐中時計を見た。
20時56分。
自分で切った十五分を、ちょうど使い切ったところだった。
なのに殿下はまだ終わる気配がないどころか、ようやく調子が出てきたような顔で紙を掲げている。
(最悪)
ミレイは進行表の余白に書き足した。
進行押し時間 十一分。




