第二話 押すところは見ていません
「最初は、東棟の階段だ」
アルベルト殿下はそう言ってリリア・モーレンを振り返り、名前を呼ばれた本人は小さく肩を跳ねさせた。
さっきまで殿下の背中に半歩隠れていたのに、視線が集まった途端に隠れる場所がなくなったらしく、ドレスの裾を握ったり離したりしている。
懐中時計は20時47分を指していて、始まってからもう六分が過ぎていた。
十五分と言い出したのは自分だが、王族に持ち時間を守らせる係まで放送委員の仕事だと聞いた覚えはない。
「四日前、リリアは東棟の階段から突き落とされた」
ざわめきが戻ってきたが、さっきより音が低い。
面白がるざわめきから、聞き逃すまいとするざわめきに変わったのが、司会台からだとよく分かった。
「幸い大きな怪我にはならなかった。だが、そこにいたのはセレスティアだ」
何人かの視線が、銀髪の公爵令嬢へ移る。
ミレイは拡声具をそちらへ向けた。
「アルヴェイン公爵令嬢。この件について、何か」
「押していません」
声の温度も、扇を持つ指先の角度も、何ひとつ変わらなかった。
「白々しい」
殿下が吐き捨てたが、セレスティアは殿下のほうを見もしなかった。
少しくらい嫌そうな顔をしてくれたほうがこちらも進めやすいのに、あの人は自分の弁明すら他人事みたいな顔でやる。
(司会者は、顔色までは進行できない)
「モーレン嬢」
ミレイは拡声具を胸の高さまで下げ、できるだけ柔らかい声を選んだ。
「いくつか確認しても?」
「……はい」
「四日前の放課後で、間違いありませんか」
「はい」
「東棟の、三階から二階へ下りる階段」
「そうです」
「そのとき、公爵令嬢をご覧になった」
「見ました」
答えは早かった。
殿下がわずかに顎を上げ、会場の何人かも、ほら見ろと言いたげに隣の顔を窺った。
ミレイは進行表の裏に小さな丸を一つ書いたが、それが何の丸なのかは自分でもまだ決めていなかった。
「どちらで」
「え?」
「上か、途中か、下か」
リリアは二度瞬きをしてから、ようやく質問の形を掴んだようだった。
「……私が、下で」
「公爵令嬢は」
「上に」
「どのくらい」
「どのくらいって……」
リリアは段数を数えるように視線を床へ落とし、その間に会場の空気がほんの少しだけ緩んだ。
まだ何も崩れていないことは、ミレイがいちばんよく分かっている。
女の子が階段から落ちて、その上に仲の悪い女が立っていたなら、それだけで十分に嫌な絵になる。
ミレイだって廊下でそんな場面を見たら、たぶん友人に話すし、声を落とすくらいの良識は残すにしても、話すこと自体はやめないと思う。
「三段……いえ、もっと上だったと思います」
ミレイは丸の横に短い線を引いた。
「落ちる前にも、見えていましたか」
リリアの目が、そこで止まった。
「何を確認している」
口を挟んだのは殿下だった。
来るとは思っていたが、質問のたびに王子様の許可が要るなら、十五分どころか夜明けまでかかる。
「順番です」
「順番?」
「見たことと、あとで分かったことを」
「同じことだろう。落ちた直後、そこにセレスティアがいた」
「はい」
「なら――」
「殿下」
ミレイは壁の大時計へ一度だけ目をやった。
「残り九分です」
壇の下で、楽団長がまた頷いた。
(なぜあの人だけ味方なのか。たぶん帰りたいから)
殿下は口を閉じ、不満そうな顔のまま腕を組んだ。
それでも黙っただけ偉いと思ったが、王族に向ける評価としてはどう考えても失礼なので、顔には出さないでおく。
ミレイはリリアへ向き直った。
「落ちる前、お顔は」
「……いいえ」
「姿は」
「見て、いません」
「声は」
「いいえ」
「名前を呼ばれたりは」
「ありません」
答えるたびにリリアの声が細くなっていき、ミレイはそこで一度質問を止めた。
このまま畳みかければ確認ではなく尋問になるし、そもそもここは卒業パーティーであって取り調べ室ではなく、壁にはご丁寧に白百合まで飾ってある。
さっきからその白百合の前で、婚約がひとつ死んでいるだけだ。
「では、落ちたあとに振り返って、公爵令嬢をご覧になった」
「……はい」
「そこまでは」
「間違いありません」
今度はリリアのほうから先に言い切り、ミレイも頷き返した。
「待て」
殿下の声が飛んできた。
「リリアは背中を押されたと言っている。自分で足を滑らせたわけではない」
「そこも伺います」
殿下はまだ何か言いたそうだったが、ミレイはもうリリアのほうを見ていた。
「押された感覚は」
「ありました」
そこだけは迷いがなかった。
「手で?」
「たぶん」
「たぶん」
「手だと、思います。背中に何か当たって、それで前に」
リリアは自分の肩甲骨のあたりへ手を回そうとして、少し届かずに肘のところで止めた。
妙に生々しいその仕草を笑う者は、大広間に一人もいなかった。
「その直前に、足音は」
「覚えてません」
「誰かが近づいてくる気配は」
「……分かりません」
「押されて、すぐ振り返った」
「はい」
「上に、公爵令嬢がいた」
「はい」
ミレイはそこで口を閉じた。
答えはもう全部並んでいて、ここから先を司会者が繋げてしまえば、確認ではなく誘導になる。
できれば本人の口から出てほしいと思って待ったが、待っている間にも時計の針は遠慮なく進み、20時49分を回った。
リリアは自分の手元を見つめたまま、何かを数えるように親指で人差し指の爪を押していた。
「……私」
声が小さすぎて拡声具が拾わず、ミレイは黙って少しだけ彼女のほうへ向けた。
「私、押すところは見てません」
今度は届いた。
大広間の奥で誰かがグラスを卓へ置き、硬い音がひとつ鳴ってから、少し遅れて別の卓でも同じ音がした。
セレスティアはまだ何も言わず、殿下だけがリリアを見ていた。
「だが、あの場にはセレスティアしか――」
「殿下」
「何だ」
「それは、どなたが」
「……どなたが、とは」
「他に誰もいなかったと、どなたが確かめたのですか」
「リリアがそう言っている」
ミレイはリリアを見て、リリアは殿下を見た。
ほんの一瞬だったが、その一瞬だけで足りた。
「私……誰もいなかったとは、言ってません」
殿下が今度こそ黙り、ミレイは時計を見た。
20時51分で、話は一歩進んだのに、時間は勝手に三歩進んでいる。
「この件は、ここまでとします」
「待て。まだ――」
「次をお願いします」
「ミレイ」
名前で呼ばれた。
開宴のときに司会として一度名乗ったのを覚えていたらしいが、距離が縮まったわけではなく、たぶん単純に怒っているだけだ。
「はい」
「君は、セレスティアを庇っているのか」
大広間の視線がまとめてこちらへ向き、ミレイは反射的に半歩下がりかけた。
司会者は映る側ではないし、映るつもりで袖に立っている放送委員など一人もいない。
ちらりとセレスティアを見ると、銀髪の公爵令嬢もこちらを見ていたが、そこに助けを求める色は欠片もなく、なぜ司会者が巻き込まれているのかと怪訝に思っているような顔だった。
少し腹が立った。
「いいえ」
ミレイは拡声具を持ち直した。
「時間を庇っています」
今度は誰かが本当に吹き出し、それが学院長のいる柱の陰からではないことだけを祈りながら、ミレイは進行表の余白に書き足した。
進行押し時間 六分。




