第一話 婚約解消は予定にありません
「セレスティア・アルヴェイン。今日この場で、君との婚約を解消する」
王太子殿下の声が大広間の天井に跳ね返り、グラスの触れ合う音が端の卓から順に途切れていった。
楽団の第二ヴァイオリンだけが一小節ぶん遅れて、尻尾を踏まれた猫みたいな音で弓を止める。
そのとき舞台袖のミレイ・ハーグローヴが見ていたのは、壇上の殿下でも銀髪の令嬢でもなく、手の中の懐中時計だった。
20時41分。学院長挨拶まで、あと四分。
(違う。時計は動いている。死んだのは進行表のほう)
三週間かけて詰めた予定表は、握りしめていたせいで端が少し波打っていた。
20時45分 学院長挨拶
21時 卒業生代表謝辞
21時20分 歓談
21時50分 閉会の辞 王太子殿下
22時 楽団撤収
どこをどう読み返しても婚約解消の文字はないし、書いてあったらあったで、それはそれで嫌な学院だと思う。
会場中の視線が、壇上の殿下と、その正面に立つ公爵令嬢セレスティア・アルヴェインへ吸い寄せられていく。
当の本人は扇を口元の高さで開いたまま、まばたきの間隔すら変えずに殿下を見返していた。
学院でいちばん近寄りがたい人というのが下級生の間の評判で、ミレイも廊下ですれ違うたびに壁際へ半歩寄る程度には、その評判に同意している。
顔色を変えたのはむしろ殿下の背後に控えた男爵令嬢リリア・モーレンのほうで、胸の前で組んだ指の関節が白く浮いていた。
「君がリリアに行ってきた数々の仕打ちを、今ここで明らかにする。そのうえで学院には卒業資格の取り消しを、王家からは公爵家へ正式な調査を申し入れる」
ざわめきが一段太くなり、壁際の給仕が銀盆を持ったまま置き場所を見失って立ち尽くした。
ミレイは進行表を二つに折りながら、三日前に学院長室で聞いた声を思い出していた。
「何が起きても、司会者は進行以上のことをするな。君の仕事は式典を止めないことだ」
推薦状の話が出たのは、そのあとだ。
宮廷儀典局の書記見習いで、男爵家の次女に回ってくる席としてはこれ以上のものがない。
まだ決まってもいないのに父は手紙にでかしたと三回書き、母は一度だけ、目立たないように、と書いてきた。
だから今夜やるべきことは、何事もなかった顔で次の演目を呼ぶことだけで、殿下の恋愛事情は進行表の外にある。
外にあるはずのものが壇の真ん中で拡声具を握っている場合の手順は、放送委員会の手引きのどこにも載っていなかった。
ミレイは司会台の拡声具を取った。
「恐れ入ります、殿下」
自分で思ったより声は隅まで届き、殿下が金の前髪を揺らして振り返った。
「……何だ」
「何分ほどのご予定でしょう」
「何?」
「お時間です。何分ほど」
誰かが吹き出しかけて、慌てて咳でごまかした。
(祝宴で乾杯の前に長話を始める伯父と同じ顔。悪い人ではない。時計を持っていないだけ)
「このあと学院長のご挨拶がございますので」
「すぐ終わる」
「では十分で」
「待て」
「十五分」
「そういう話ではない」
「二十分を越えますと、楽団の撤収に障ります」
壇の下で、楽団長がチェロの弓を持ったまま深々と頷いた。
殿下はしばらくミレイを睨んでいたが、睨む先がただの放送委員だと気づいたのか、やがて肩で息を吐いた。
「司会」
「はい」
「続けろ。君は放送委員だろう。この場を取り仕切るのが役目のはずだ」
ミレイは舞台袖の奥へ目をやった。
学院長は柱の陰に立ち、頷きもせず首も振らず、自分の懐中時計の蓋を開けては閉めていた。
(取り仕切れ、と殿下。進行以上のことをするな、と学院長。どちらに従っても、怒られるのはたぶん私)
どちらかを選ぶ時間はなかったし、選ばずに済む方法を探す時間はもっとなかった。
ミレイは時計の竜頭を一度だけ押し込んだが、それで針が止まるわけもなく、考えごとをするときの癖でしかない。
「承知しました」
拡声具を持ち直す。
「それでは予定を一部変更いたしまして、王太子殿下より、アルヴェイン公爵令嬢への申し立てを伺います。持ち時間は十五分です」
十五分という言葉に、大広間がはっきりとざわめいた。
学院長挨拶を削れば閉会の辞にはまだ間に合う計算で、削られる側の学院長がどんな顔をしているかは、今は見ないことにした。
ミレイは折った進行表の余白に、鉛筆で小さく書き込んだ。
進行押し時間 0分。




