おかえりなさい
次に目を開けた時、霧が薄くなっていて、東岸の発着場が、見えた。
灯が、いくつもついている。人が、たくさんいる。誰かが、こっちを指さして叫んでいる。発着場の少し手前の空に、ヘルダ号が浮かんでいた。
安定した、今の風路の上に。救護班の三人に囲まれて。
船体は、ぼろぼろだった。手すりは何か所も折れて、帆柱の索は千切れたまま垂れ下がっている。船腹の板が、何枚か浮いていた。
「やりました! やったんです! 私たち!」
ペトラさんだな。言葉はそんなに交わしてないはずだけど。それでも、そのお礼はしたいかな。真っ直ぐ、彼女たちがいる方に向かって拳を突き出した。
「まったく、来るなの一言なんて、冷たすぎやしないかい?」
よし。聞こえなかったことにしよう。
改めて船を見ると、甲板に人が見える。手すりに掴まって。帆柱に寄りかかって。座り込んで。こっちを見て、腕を振ってる人もいる。
一人、二人、と数えかけて、途中で分からなくなった。目が、まだうまく合わない。
発着場の端に、毛布を肩に掛けた魔女が、立っていた。リタさん……だっけ。
木箱から立ち上がって、手すりを両手で握りしめて、ヘルダ号を見ていた。毛布が肩から滑り落ちたのにも、気づいていないみたいだった。
アデルの箒が、発着場の床へ、半分落ちるみたいに着いた。
着いた途端、アデルの膝が折れた。私も一緒に、石の床へ転がる。
「ぐへっ!」
「ファルン! グランツ!」
グレイグ局長の声。誰かが駆け寄ってくる。何人も。起き上がろうとして、腕が、全然言うことをきかない。床に手をついても、肘から崩れる。立ち上がるのもままならないか。
それから、気づいた。自分の箒。落ちる時に、握っていたはずの箒が、私の腕の中にあった。アデルが、私ごと抱え込んだ時に、一緒に引き上げてくれたらしい。
持たなきゃ。これだけは。これだけは……。
柄を、握ろうとしたんだけど。指が、動かない。もう本当に空っぽなんだ。わかっていても、なんだか、悔しい。十分頑張ったとは、思うんだけど。嬉しいはずなんだけど。
横から、手が伸びてきた。リタさん?
膝をついて、私の腕から、箒をそっと抜き取っていく。穂先の、海水で濡れて固まったところを、指でほぐすみたいに撫でて。
「預かります」
とっても小さな声。少し前の自分なら、跳ねのけたかな。たぶん。まだやれます、ってところかな。
「……お願い、します」
リタさんは、箒を胸に抱えて、頷いた。
誰かが、私の肩の下に腕を差し入れて、身体を起こしてくれる。壁際へ運ばれて、背中を預けさせられる。毛布が掛けられる。リタさんの羽織っていた毛布かも。すごく温かい。
今は、されるがまま。私の仕事は、もう、終わってるんだから。
発着場に、ヘルダ号が、ゆっくり降りてきた。
救護班の三人が、帯で船体を最後まで支えて、石の床すれすれまで下ろす。船体が床に触れて、長く、低く軋んだ。
甲板から、人が降りてくる。一人ずつ。支えられながら。
グレイグ局長が、その前に立って、降りてくる人を一人ずつ数えていく。低くて、よく通る声だった。
最初に降りてきたのは、髭の白い船長さん。さっき手すりの外に足を出していた若い船員は、降りた途端に床へ座り込んで、また泣きながら笑っていた。
ペトラさんが、船の横で牽引帯を握ったまま、降りてくる人を目で追っている。唇が、局長と一緒に数を刻んでいた。
年かさの魔女が、帯を床に落として、大きく息を吐いた。
「――十一名!」
最後の一人が、床に足をついた。
局長は、少しのあいだ、何も言わなかった。
それから。
「全員、帰還」
発着場の誰かが、声にならない声を上げた。
ペトラさんが、帯から手を離して、両手で顔を覆った。年かさの魔女が、その頭を、ぐしゃぐしゃとかき回した。ルッツさんは、床に座り込んで、空を見上げていた。
「救護班、三名帰投」
局長が続ける。
「ファルン、グランツ、帰投。海峡上、残留者なし」
ハンネスさんが、記録紙に何か書き込む音がした。
「救助完了、ですな」
その声が、終わるのと同じくらいに。
鐘が、止んだ。
海峡の向こうから、ずっと交互に聞こえていた二つの鐘。東と西。ニルスさんが引いていた縄と、こっちの鐘守が引いていた縄。
最後の一打が、霧の中へ、長く、長く伸びて。消えていく。急に、静かになった。
波と風の音だけが騒がしい。毛布の下から、右手を、ほんの少し外へ出した。
冷たいな。
でも、さっきまでの、押し返してくるような冷たさじゃない。薄い。指の間を、すうっと、抜けていくだけ。
古い流れが、また眠りに戻っていく。ずっとそこにあるわけじゃない。今日、必要な間だけ。本当にありがとう。でも、誰に伝えればいいんだろう?
足音が、近づいてきた。……たぶん、校長先生かな。
予想的中。先生は、私の前で立ち止まって、それから、隣で壁に寄りかかって座り込んでいるアデルを見た。アデルは、片手で顔を覆って、肩で息をしている。もう片方の手は、まだ、私の手を握ったままだった。
いつから、繋いだままだったっけ。離すタイミングを、二人とも、逃したみたい。
先生は、それを見て、少しだけ目を細めた。それから、私の胸元に、目を落とした。吊り具に留めた、観測針。継ぎ目の光は、もう、消えてるや。ただの、古い道具に戻ってる。
観測針は、風路に残った向きを確かめるための道具。学校で習ったから知ってる。最新機器だろうと、霧の中に風路を光らせるような機能はない。
あれが、何だったのか。
私には、分からないんだけど。
先生は、たぶん何かを知ってる。あの時の顔を見れば、それぐらいはわかるよ。
先生は、しばらくを視線を動かさず。指を伸ばしかけて、触れずに、止まった。さっきも、だよね。
訊いても、いいのかな。さっき、あとでいいって言ったから。今が、その「あと」なのかもしれない。
でも、先生の顔を見て。
やめた。
今は、まだ、違う気がした。
先生は、筒から目を上げて、私を見た。
「……おかえりなさい」
それだけ。
声が、少しだけ、掠れていた。先生は、海峡のほうへ、顔を向けた。
霧が、晴れはじめてる。光の流星は、もう、一本も見えない。夕方の、くすんだ海の色だけが、どこまでも広がっている。
先生は、その何もない海を、長いこと見ていた。何を見ているのかは、分からないけど。
目を、閉じた。
身体中が、重い。指一本、動かすのも億劫で。あーもう、なんでこうなっちゃうかな。
また、無茶をした。魔力を使い切って、また、空から落ちた。
エルナさんに知られたら、たぶん、ものすごく怒られる。フィオナにも。支局長にも。今から報告書を書くのがさいっこーに嫌だ。
でも。
ニルスさんが、鐘を鳴らしてくれた。東の鐘守が、応えてくれた。救護班の三人が、船の横と後ろについてくれた。船長さんが、舵を切ってくれた。船員さんたちが、索を引いてくれた。アデルが、先生をここまで運んで。それから、私のところへ戻ってきてくれた。
霧の中に、誰かの光が、道を見せてくれた。
また、私一人じゃ一つも、届かなかった。
繋いだままの手に、少しだけ、力を込めた。
アデルの指が、何も言わずに、握り返してきた。
今度は。
最後まで、離さなかった。




