繋いだ手
空白の手前で箒を止めて、手を伸ばしてみる。ヘルダ号をここまで運んできた古い流れは、私の指先のあたりで、ふつっと途切れていた。その向こう、手袋の先が届くか届かないかってところに、また冷たいのがある。東岸のほうへ続いていく、ちゃんと太い流れが。
間には、何もない。見事に、ぽっかり穴が開いてる。
私一人ならどうってことない。ペトラさんたちだって、たぶん少し無茶をすれば。船を置いていけば、全員それで帰れる。……そんなの、選べるわけないけど。
風路なんて、元を辿れば、魔力の吹き溜まり。こっちの端にも、向こうの端にも、まだ残ってる。だったら、その間の足りないところだけ。私の分で、埋めればいい。さっきからずっと、自分にそう言い聞かせてる。
船一隻分。
どれだけ要るのかなんて、知ったことではない。今やらなきゃ何のために、ここにいる。
……ペトラさんの気持ち、本当によくわかるんだよなぁ。
ここで止まっていたら、足元の流れが先に痩せていく。迷ってる時間のほうが、ずっと、ずーっと、高くつく。
思い切って飛び出してみる。支えが、消える。穂先が、がくんと下がる。自分の魔力で、自分の重さを持ち上げる。この感じ、今日、何回目だろう。
浮かせる分だけは、残しておく。それ以外はありったけ。両手を、空白へ向けて開く。全部全部、持っていけ!
手のひらから抜けていった魔力は、霧の中へ、溶けて消えていくだけだった。こっちの端にも、向こうの端にも、届かない。
もっと。
胸の奥から、手の先へ。押し出すみたいに。
まだまだ。
指先が、じんと痺れはじめた頃。右手の先に、何かが引っかかった。
こっち側の端だ。私が流したものと、残っていた古い流れが、触れた。触れたところから、細い光が、少しずつ向こうへ伸びていく。
左手の先にも。向こう側の端から。
二本の糸が、空白の真ん中で、ほんの一瞬、擦れ合った。
繋がった。
細い。頼りない。今にもほどけそう。
でも、ある。
振り返らずに、右手だけ上げた。進めの合図。
「来て!」
背中の向こうで、ヘルダ号の船体が軋む、そんな音が聞こえた。
船首が、私の繋いだところへ入ってきた。
その瞬間。全てが、来た。
手のひらからじゃない。肩に。腕に。箒を握った指の一本一本に。背骨に、真上からのしかかってくる。誰かに、巨大な手で、空ごと押しつぶされるみたいな。
「っ、あ……!」
息が、勝手に押し出された。
箒が、一段沈む。
船の重さが、私の流した魔力を伝って、そのまま私に返ってきてる。繋いだのは私だから。
腕が、震える。
――あれ。
この感じ、知ってる。
ラドナの、段丘の上。午後四時頃。
落ちてくる小さな搬送舟の下に、箒ごと潜り込んだ。自分の箒を浮かせながら、両手を船底へ向けて、叫んだ。
あの時も、こんなふうに肩が軋んで。腕が痺れて。落ちるのを、ほんの少し遅らせるだけで精いっぱいで。
あと十秒、ってアデルが言って。十秒は長い、って言い返したら。じゃあ八秒、って。
――今、支えてるのは。
あの搬送舟の、何倍だろう。
十倍? もっと?
ほんっと、何やってんだろう、私。また、同じことばっか。あんなに痺れて、あんなに怒られて。それで、もっと大きいのを、もっと無茶なやり方で。
苦しい。息が、うまく吸えない。なのに、口の端が勝手に持ち上がった。
怒られる準備だけは、しておかないとね。
船首は、渡った。
向こう側の、本来の流れに乗った。乗ったところから、重さが少しだけ軽くなる。向こうの流れが、船首を受け持ってくれている。
でも、まだ。
船腹が、私の繋いだ細いところの、真上にある。一番重いところだ。
艫は、まだ完全にこっち側。
手のひらから、魔力が抜けていく。さっきまでとは比べものにならない速さで。流し込んでも流し込んでも、細い糸は、船腹の重さに引き伸ばされて、今にもちぎれそうに軋む。
このままじゃ、足りない。もう、わかった。わかったから。あわよくば、は諦めないと駄目だよね。箒を浮かせるために残していた分。それまで流さないと、この船は、最後まで渡れない。
――残すの、やめよう。
決めたのは、一瞬。怖くなかったわけじゃないけど。でも、考えている間に糸が切れたら、全部が終わる。
箒の柄から、魔力を引き抜いた。残っていた分を、全部。浮くための分も、帰るための分も。
空白へ。
足の下で、箒が、ふっと一瞬軽くなった。沈みはじめる。ゆっくりと。
代わりに、船腹の下の糸が、太くなった。軋んでいた音が、止まって。ヘルダ号の船体が、ほんの少しだけ、持ち上がった。
これでいい。
「――郵便魔女さん!」
左のほうから、声。ペトラさんだ、絶対、そう。
霧の切れ間に、年かさの魔女がこっちを振り向いているのが見えた。目が、見開かれている。私の箒が、船より低いところへ沈んでいくのを、見てる。
ルッツさんの箒が、艫の後ろから、こっちへ傾きかけた。
ペトラさんの穂先も。年かさの魔女でさえ。でも、それだけは絶対に駄目。
「来るな!」
喉が裂けるかと思ったよ。
「進め!」
ペトラさんの箒が、空中で、びくっと止まる。
本当にわかるんだ。ペトラさんの気持ち。
だから、ごめん。でも、あなたがそこにいてくれないと、万が一に後手を踏んじゃうんだ。
ペトラさんの唇が、何か言おうとして、震えた。
それから。
ぎゅっと結んだ。
帯を握り直して、右舷へ戻っていく。こっちを見ないように、顔を船のほうへ向けたまま。肩が、小さく揺れていた。
「……堪えろよ!」
年かさの魔女の声が、霧の中で割れた。その声も、震えてる。
ルッツさんの箒も、艫の後ろへ戻った。
三人とも、船と一緒に、進んでいく。
ありがとう。
声は、もう出なかった。視界の縁が、暗くなってきて。霧の白さが、端のほうから、黒く塗りつぶされていく。
光の流星は、もうほとんど見えない。消えたのか、私の目がもうまともに開いてないのか。どっちなのかも、分からない。
でも、重さで分かるの。肩に来ていた重さが、少しずつ、前のほうへ抜けていく。船腹が、渡っていく。
腕にかかっていた重さが、ふっと楽になった。向こうの流れが、船の真ん中を受け止めてくれたんだとわかる。
あとは、艫だけ。
指の先に、最後の重さ。
ぎりぎりまで、引き伸ばされた糸。
渡れ。
渡れ! 渡れ!! 渡れ!!!
わ
た
れ
!
ふっ、と。
何もかもが、消えた。
肩からも、腕からも、指先からも。さっきまで背骨を押しつぶしていた巨大な重さが、いきなり、全部。
よかった、と思うより、先に。
足の下からの跳ね返りが、消えていることに気付く。箒の柄を踏んでいた足に、何も返ってこない。魔力を流そうとしても、胸の奥から、何も出てこない。からっぽ。底をさらっても、何も残ってない。
ああ、またか。本当に自分が情けない。落ちていく。霧の中を、背中から。
風の音が、耳元で、ケタケタ笑っている。まるで、私のこと、馬鹿にしてるみたい。前にも、こうやって落ちたのに、そりゃ笑われもするよね。
あの時は、ずっと、アデルの背中を見てたな。
戻ってきてほしいのに。戻ってきちゃ駄目だって。何を偉そうに言ってんだか。
今は。
霧の切れ間に、ずんぐりした影が見えた。
ぼやけてる。輪郭が、二重にも三重にも滲んでる。でも、分かる。ヘルダ号だ。帆柱がまっすぐ立ってる。その両脇と後ろに、小さな影が三つ。
東のほうへ、進んでいく。
よかった。戻ってこなくて、いい。そのまま、行って。
指に、力が入らない。
箒の柄から、手が離れかけている。目を開けているだけで、瞼が重くて仕方ない。身体中が、泥の中に沈んだみたいにだるい。
下には、海。あの時は森だったっけ。だから何とか衝撃をやわらげられたけど。
落ちたら、今回はもう駄目だろうな。箒は、もう浮かない。私には、もう何も残ってない。自分では、どうにもできない。
怖い。
怖いよ、そりゃ。
でも。
前みたいに、私がどうにかしなきゃ、とは、思わなかったんだ。
――これは、博打。
分の悪い賭けじゃないの。絶対、大丈夫。信じてるから。
霧の白さも、もうほとんど分からない。それでも。聞こえた。
風を切る音。
ものすごい速さで。たぶん、霧を紙みたいに裂いて。まっすぐこっちへ、近づいてくる。姿なんてもう、見えないよ。でも、分かるんだ。
あの音を、私は何度も聞いてきたから。養成学校で。別のクラスのくせにいつも比べられて。支局の発着場で。私より先に飛び出していって。ラドナの段丘で。帆柱すれすれを抜けていった。
穂の細い、速く飛ぶためだけの箒の音。
先生を東岸へ置いて、救護班に合流するって言ってたのにさぁ。
……ほら。
こういう時、絶対に来てくれるんだよね。
「リン――ッ!!」
声が、上から降ってくる。近い。どんどん近くなる。
聞こえてるってば。
風切り音と、私の名前。それだけで、十分。
――だから。
腕を、持ち上げた。
重い。鉛みたい。肘から先が、自分のものじゃないみたいに言うことを聞かない。
それでも、上へ。音のするほうへ。手を、伸ばした。
――言わなきゃ。だって、約束したから。
「……助けて」
手袋越しに、熱い手。
掴まれた。
ぎゅっと。骨が軋むくらい、強く。
私も掴んで、繋がった。がくん、と身体が引っぱられて、すっごく痛い。
腕が抜けるかと思った。肩に、さっきの船とは違う、でも、ずっしりした重さが来る。
アデルの箒が、私の重さで、一気に沈んだ。
「っ、ぐ……!」
アデルの喉から、変な声が漏れた。
穂先が、海のほうへ向いてる気がする。二人ぶんの重さで、細い箒が軋む。
それに、アデルだって、今日はもう何回飛んだんだろう。東部まで呼びに来て、東岸まで戻って、先生を乗せて海峡まで来て。先生を東岸へ届けて、それから、また。
余力なんて、残ってるわけがない、よね。
それでも。繋いだ手は、離れなかった。
アデルは、私の手首を掴み直した。もう片方の手で、私の外套の襟首を掴む。力任せに、引き寄せる。私の身体が、アデルの箒の柄の上へ、半分乗り上げる。
「――っ、の……!」
アデルが、柄に全身で覆いかぶさるようにして、私ごと箒を抱え込んだ。
沈むのが、止まった。
ゆっくりと。本当に、ゆっくりと。
アデルの肩が、私の頬に押しつけられていた。荒い息が、耳元で聞こえる。心臓の音まで、伝わってくる。速い。ものすごく、速い。
「……最ッ低!」
息の合間に、アデルが言った。
「ほんっと、最低。何回目よ、これ」
「えへへ、でも」
「喋んなくていい」
アデルが、私の手首をもう一度、強く握った。
「ぶん殴るのは、あとにしてあげる」
うん。でも、信じてたんだ。絶対間に合うって。だから、賭けは私の勝ち。
声の代わりに、繋いだままの指を、少しだけ動かした。
アデルの指が、それに応えるみたいに、ぎゅっと締まった。




