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風待ちの魔女郵便  作者: Loui.Sue
Lettr11 霧の向こうの手紙
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繋いだ手

 空白の手前で箒を止めて、手を伸ばしてみる。ヘルダ号をここまで運んできた古い流れは、私の指先のあたりで、ふつっと途切れていた。その向こう、手袋の先が届くか届かないかってところに、また冷たいのがある。東岸のほうへ続いていく、ちゃんと太い流れが。


 間には、何もない。見事に、ぽっかり穴が開いてる。


 私一人ならどうってことない。ペトラさんたちだって、たぶん少し無茶をすれば。船を置いていけば、全員それで帰れる。……そんなの、選べるわけないけど。


 風路なんて、元を辿れば、魔力の吹き溜まり。こっちの端にも、向こうの端にも、まだ残ってる。だったら、その間の足りないところだけ。私の分で、埋めればいい。さっきからずっと、自分にそう言い聞かせてる。


 船一隻分。


 どれだけ要るのかなんて、知ったことではない。今やらなきゃ何のために、ここにいる。


 ……ペトラさんの気持ち、本当によくわかるんだよなぁ。


 ここで止まっていたら、足元の流れが先に痩せていく。迷ってる時間のほうが、ずっと、ずーっと、高くつく。


 思い切って飛び出してみる。支えが、消える。穂先が、がくんと下がる。自分の魔力で、自分の重さを持ち上げる。この感じ、今日、何回目だろう。


 浮かせる分だけは、残しておく。それ以外はありったけ。両手を、空白へ向けて開く。全部全部、持っていけ!


 手のひらから抜けていった魔力は、霧の中へ、溶けて消えていくだけだった。こっちの端にも、向こうの端にも、届かない。


 もっと。


 胸の奥から、手の先へ。押し出すみたいに。


 まだまだ。


 指先が、じんと痺れはじめた頃。右手の先に、何かが引っかかった。


 こっち側の端だ。私が流したものと、残っていた古い流れが、触れた。触れたところから、細い光が、少しずつ向こうへ伸びていく。


 左手の先にも。向こう側の端から。


 二本の糸が、空白の真ん中で、ほんの一瞬、擦れ合った。


 繋がった。


 細い。頼りない。今にもほどけそう。


 でも、ある。


 振り返らずに、右手だけ上げた。進めの合図。


「来て!」


 背中の向こうで、ヘルダ号の船体が軋む、そんな音が聞こえた。


 船首が、私の繋いだところへ入ってきた。


 その瞬間。全てが、来た。


 手のひらからじゃない。肩に。腕に。箒を握った指の一本一本に。背骨に、真上からのしかかってくる。誰かに、巨大な手で、空ごと押しつぶされるみたいな。


「っ、あ……!」


 息が、勝手に押し出された。


 箒が、一段沈む。


 船の重さが、私の流した魔力を伝って、そのまま私に返ってきてる。繋いだのは私だから。


 腕が、震える。


 ――あれ。


 この感じ、知ってる。


 ラドナの、段丘の上。午後四時頃。


 落ちてくる小さな搬送舟の下に、箒ごと潜り込んだ。自分の箒を浮かせながら、両手を船底へ向けて、叫んだ。


 あの時も、こんなふうに肩が軋んで。腕が痺れて。落ちるのを、ほんの少し遅らせるだけで精いっぱいで。


 あと十秒、ってアデルが言って。十秒は長い、って言い返したら。じゃあ八秒、って。


 ――今、支えてるのは。


 あの搬送舟の、何倍だろう。


 十倍? もっと?


 ほんっと、何やってんだろう、私。また、同じことばっか。あんなに痺れて、あんなに怒られて。それで、もっと大きいのを、もっと無茶なやり方で。


 苦しい。息が、うまく吸えない。なのに、口の端が勝手に持ち上がった。


 怒られる準備だけは、しておかないとね。


 船首は、渡った。


 向こう側の、本来の流れに乗った。乗ったところから、重さが少しだけ軽くなる。向こうの流れが、船首を受け持ってくれている。


 でも、まだ。


 船腹が、私の繋いだ細いところの、真上にある。一番重いところだ。


 艫は、まだ完全にこっち側。


 手のひらから、魔力が抜けていく。さっきまでとは比べものにならない速さで。流し込んでも流し込んでも、細い糸は、船腹の重さに引き伸ばされて、今にもちぎれそうに軋む。


 このままじゃ、足りない。もう、わかった。わかったから。あわよくば、は諦めないと駄目だよね。箒を浮かせるために残していた分。それまで流さないと、この船は、最後まで渡れない。


 ――残すの、やめよう。


 決めたのは、一瞬。怖くなかったわけじゃないけど。でも、考えている間に糸が切れたら、全部が終わる。


 箒の柄から、魔力を引き抜いた。残っていた分を、全部。浮くための分も、帰るための分も。


 空白へ。


 足の下で、箒が、ふっと一瞬軽くなった。沈みはじめる。ゆっくりと。


 代わりに、船腹の下の糸が、太くなった。軋んでいた音が、止まって。ヘルダ号の船体が、ほんの少しだけ、持ち上がった。


 これでいい。


「――郵便魔女さん!」


 左のほうから、声。ペトラさんだ、絶対、そう。


 霧の切れ間に、年かさの魔女がこっちを振り向いているのが見えた。目が、見開かれている。私の箒が、船より低いところへ沈んでいくのを、見てる。


 ルッツさんの箒が、艫の後ろから、こっちへ傾きかけた。


 ペトラさんの穂先も。年かさの魔女でさえ。でも、それだけは絶対に駄目。


「来るな!」


 喉が裂けるかと思ったよ。


「進め!」


 ペトラさんの箒が、空中で、びくっと止まる。


 本当にわかるんだ。ペトラさんの気持ち。


 だから、ごめん。でも、あなたがそこにいてくれないと、万が一に後手を踏んじゃうんだ。


 ペトラさんの唇が、何か言おうとして、震えた。


 それから。


 ぎゅっと結んだ。


 帯を握り直して、右舷へ戻っていく。こっちを見ないように、顔を船のほうへ向けたまま。肩が、小さく揺れていた。


「……堪えろよ!」


 年かさの魔女の声が、霧の中で割れた。その声も、震えてる。


 ルッツさんの箒も、艫の後ろへ戻った。


 三人とも、船と一緒に、進んでいく。


 ありがとう。


 声は、もう出なかった。視界の縁が、暗くなってきて。霧の白さが、端のほうから、黒く塗りつぶされていく。


 光の流星は、もうほとんど見えない。消えたのか、私の目がもうまともに開いてないのか。どっちなのかも、分からない。


 でも、重さで分かるの。肩に来ていた重さが、少しずつ、前のほうへ抜けていく。船腹が、渡っていく。


 腕にかかっていた重さが、ふっと楽になった。向こうの流れが、船の真ん中を受け止めてくれたんだとわかる。


 あとは、艫だけ。


 指の先に、最後の重さ。


 ぎりぎりまで、引き伸ばされた糸。


 渡れ。


 渡れ! 渡れ!! 渡れ!!!



  わ

         た

                れ

                     !

                          


 ふっ、と。


 何もかもが、消えた。


 肩からも、腕からも、指先からも。さっきまで背骨を押しつぶしていた巨大な重さが、いきなり、全部。


 よかった、と思うより、先に。


 足の下からの跳ね返りが、消えていることに気付く。箒の柄を踏んでいた足に、何も返ってこない。魔力を流そうとしても、胸の奥から、何も出てこない。からっぽ。底をさらっても、何も残ってない。


 ああ、またか。本当に自分が情けない。落ちていく。霧の中を、背中から。


 風の音が、耳元で、ケタケタ笑っている。まるで、私のこと、馬鹿にしてるみたい。前にも、こうやって落ちたのに、そりゃ笑われもするよね。


 あの時は、ずっと、アデルの背中を見てたな。


 戻ってきてほしいのに。戻ってきちゃ駄目だって。何を偉そうに言ってんだか。


 今は。


 霧の切れ間に、ずんぐりした影が見えた。


 ぼやけてる。輪郭が、二重にも三重にも滲んでる。でも、分かる。ヘルダ号だ。帆柱がまっすぐ立ってる。その両脇と後ろに、小さな影が三つ。


 東のほうへ、進んでいく。


 よかった。戻ってこなくて、いい。そのまま、行って。


 指に、力が入らない。


 箒の柄から、手が離れかけている。目を開けているだけで、瞼が重くて仕方ない。身体中が、泥の中に沈んだみたいにだるい。


 下には、海。あの時は森だったっけ。だから何とか衝撃をやわらげられたけど。


 落ちたら、今回はもう駄目だろうな。箒は、もう浮かない。私には、もう何も残ってない。自分では、どうにもできない。


 怖い。


 怖いよ、そりゃ。


 でも。


 前みたいに、私がどうにかしなきゃ、とは、思わなかったんだ。


 ――これは、博打。


 分の悪い賭けじゃないの。絶対、大丈夫。信じてるから。


 霧の白さも、もうほとんど分からない。それでも。聞こえた。


 風を切る音。


 ものすごい速さで。たぶん、霧を紙みたいに裂いて。まっすぐこっちへ、近づいてくる。姿なんてもう、見えないよ。でも、分かるんだ。


 あの音を、私は何度も聞いてきたから。養成学校で。別のクラスのくせにいつも比べられて。支局の発着場で。私より先に飛び出していって。ラドナの段丘で。帆柱すれすれを抜けていった。


 穂の細い、速く飛ぶためだけの箒の音。


 先生を東岸へ置いて、救護班に合流するって言ってたのにさぁ。


 ……ほら。


 こういう時、絶対に来てくれるんだよね。


「リン――ッ!!」


 声が、上から降ってくる。近い。どんどん近くなる。


 聞こえてるってば。


 風切り音と、私の名前。それだけで、十分。


 ――だから。


 腕を、持ち上げた。


 重い。鉛みたい。肘から先が、自分のものじゃないみたいに言うことを聞かない。


 それでも、上へ。音のするほうへ。手を、伸ばした。


 ――言わなきゃ。だって、約束したから。


「……助けて」 


 手袋越しに、熱い手。


 掴まれた。


 ぎゅっと。骨が軋むくらい、強く。


 私も掴んで、繋がった。がくん、と身体が引っぱられて、すっごく痛い。


 腕が抜けるかと思った。肩に、さっきの船とは違う、でも、ずっしりした重さが来る。


 アデルの箒が、私の重さで、一気に沈んだ。


「っ、ぐ……!」


 アデルの喉から、変な声が漏れた。


 穂先が、海のほうへ向いてる気がする。二人ぶんの重さで、細い箒が軋む。


 それに、アデルだって、今日はもう何回飛んだんだろう。東部まで呼びに来て、東岸まで戻って、先生を乗せて海峡まで来て。先生を東岸へ届けて、それから、また。


 余力なんて、残ってるわけがない、よね。


 それでも。繋いだ手は、離れなかった。


 アデルは、私の手首を掴み直した。もう片方の手で、私の外套の襟首を掴む。力任せに、引き寄せる。私の身体が、アデルの箒の柄の上へ、半分乗り上げる。


「――っ、の……!」


 アデルが、柄に全身で覆いかぶさるようにして、私ごと箒を抱え込んだ。


 沈むのが、止まった。


 ゆっくりと。本当に、ゆっくりと。


 アデルの肩が、私の頬に押しつけられていた。荒い息が、耳元で聞こえる。心臓の音まで、伝わってくる。速い。ものすごく、速い。


「……最ッ低!」


 息の合間に、アデルが言った。


「ほんっと、最低。何回目よ、これ」


「えへへ、でも」


「喋んなくていい」


 アデルが、私の手首をもう一度、強く握った。


「ぶん殴るのは、あとにしてあげる」


 うん。でも、信じてたんだ。絶対間に合うって。だから、賭けは私の勝ち。


 声の代わりに、繋いだままの指を、少しだけ動かした。


 アデルの指が、それに応えるみたいに、ぎゅっと締まった。

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