閉ざされた航路
霧の中で、船の人たちには、どの流れが道なのか分からないから。光はほどけては、また別のところに急に現れて。実際に見てみると、酷く不安定で、頼りない。それでも、今は。これに縋るしかない。流れの縁を外れれば、また。
自分が、前で道を選ばなきゃ。必ず、東岸まで連れて行くんだ。
「ここをお願いします!」
年かさの魔女は、少し値踏みするようにこっちを見て。それから呆れたようにため息をついて、頷いた。
「私たちは横と後ろ」
「はい」
「ペトラ、右。ルッツ、後ろ。私は左」
ペトラさんが、一瞬だけ、私のほうを見た。
さっき、船へ飛び出そうとして止められた時に打たれた頬の赤みが、まだ残っている。頬も、目も、まだ赤い。
でも、ペトラさんは何も言わずに、こちらに向けて拳を突き出して、そのまま船の右舷へ回った。帯を張り直して、自分の持ち場で、じっと船体の傾きを見ている。少し、落ち着いたかな。
「アデル」
「分かってる。先生置いたら救護班に合流する」
「……は~。 こういう時、飛べないというのは本当に不便ですね」
少し、気落ちしてるのかな。なんか、今日の校長先生は少し様子がおかしい。
アデルが、もう箒を回していた。先生を後ろに乗せたまま。
「絶対に無茶だけはしないでよね」
「……うん。約束、覚えてるよ、大丈夫」
フッ、と短く笑って。
「なら、いい」
飛んでいった。速い。霧の中を、細い穂が一本の線になって走っていく。先生は、アデルの背中に掴まったまま、私のほうを見ていた。
光じゃなくて、私を。何も、言わなかったけれど。こちらに伸ばされた手が、とても、小さく見えた。
二人を見送って、船の前へ出た。
ヘルダ号は、古い流れに乗って、ゆっくり東へ動きはじめた。私が前で、流れをたどって、見つけたらハンドサイン。それからそっちへ穂先を向ける。横と後ろで、年かさの魔女とペトラさんが、不安定な飛行で船員が振り落とされないか、船体が安定しているかを見てくれてる。
「こっち、ちょっと右に振れてます!」
「こっちは問題、ありませ~ん!」
「あーもう! 同時にしゃべるな! 順番に!」
救護班の声が、霧の中であちこちから聞こえる。船体が、まっすぐになる。また少し揺れる。またまっすぐになる。
甲板の上で、誰かが笑った。さっき手すりの外に足を出していた若い船員だった。泣きながら笑ってる。
「ほんとに、帰れるのか! これ」
「帰れるよ」
年かさの魔女が、帯を握ったまま答えた。
「帰るんです! 帰すために、来たんですから! そうでしょう!?」
ペトラさんが、叫ぶ。なんとなくだけど、たぶん私に、だよね。
うん、絶対に。届けてやるんだから。
右手の、手のひらの真ん中が、軽くなった。
気のせいかと思った。手を、少し下げる。押し返してくる。でも、さっきより、薄い。
もう少し、先へ伸ばした。
薄い。
光を見た。
さっきまで、霧の中を何十本も走っていた光の筋が、減っていた。一本がほどけて消える。次にどこかで光るまでの間が、さっきより長い。消えたまま、戻ってこないところもある。
鐘は、まだ鳴り続けてる。
霧の向こうから、西と東の鐘が、交互に聞こえてくる。ニルスさんは、まだ縄を引いてくれてる。東の鐘守も。
それでも、薄くなっていく。
ずっと眠っていた流れが、鐘に揺すられて、無理やり起き上がっていただけなんだ。いつまでも、活動してはいられない。
私一人なら、大丈夫。箒一本なら、これくらいの薄さでも乗れる。
でも、後ろには、船がいる。私よりずっと、ずっと重い。
前のほうへ、手を伸ばした。
薄くなった先に、まっすぐ東。東岸の方角へ流れが続いていた。途切れずに、まっすぐ伸びている。たぶん、一番近い。あそこまで、渡らせることができれば。
「止まってください!」
停止のハンドサイン。皆が一斉に動きを止める。
「私が、道を作ります!」
博打は、打つべき時に打て。そしてこれは、きっと分の悪い賭けじゃない。絶対に。間に合うから。
「救護班の皆さん! 何があっても、飛び出さないでください!」
「ねえ。あれ」
後ろに乗った校長先生が、頼りない声でつぶやいた。風を切る音でつい、聞き逃してしまうところだった。振り返ると、先生は船のほうを指さしている。
「はい?」
順調そうに見えますが、と言いかけて。その言葉を慌てて飲み込んだ。ちょっと待て。道が途切れてるじゃないか。胸騒ぎがする。箒を握る手に力が入って、少しきしむような音がする。先生も、きっと同じことを思ったのだろう。私に捕まる力がぐっと強くなった。
「……少し、飛ばしますから。」
「そのほうが、良さそうね」
返事は、聞こえなかった。陸地はもう目の前。それでも、力を振り絞る。でも、余力は残しておかないと。アイツをぶん殴る分だけは。
年かさの魔女が、大きく息を吐くのが聞こえた。
風路なんて、元を辿れば、魔力の集まり、吹き溜まりのようなもの。だから、切れた道を繋ぐように足りない分を補えばいい。
進めの合図を送る。ぽっかりと空いた穴に向かって。わかってる。私も、怖い。何か一つでも間違えれば全員助からない。それでも、今は。これしか残っていない。
「信じて!」
動き出さない船、救護班に向かって叫んでいた。説明している時間なんてない。それでも、必ず。向こう岸へ届けたいんです。
後ろで、ヘルダ号の船体が、重く軋みながら、ついてきた。




