光の螺旋階段
アデルの箒が、すぐ横で止まる。
穂先が大きく跳ねて、細い穂が風にばらばらと散る。あの箒は、制御するのがそれだけ難しい。それでも、ちゃんと私の真横に並んでみせた。
アデルの肩が、大きく上下していた。前髪が呼びに来た時と変わらず額に貼りついている。
「よく、来れたね」
「……先生の指示に従っただけ」
「先生が?」
アデルの後ろで、連れてきた張本人である先生は、私を見ていない。
海峡中を走る光を、ずっと目で追っている。探し物でもしているみたい。
光が一本、先生の目の前を斜めに横切っていく。先生の手が、ほんの少しだけ持ち上がった。掴もうとしたのか、触れようとしたのか。指先が光に届く前に、光はほどけて消えた。それでも、手はそのまま宙で止まっている。
……こんな先生、見たことが無い。
養成学校の壇上で、新入生に向かって話していた時。私に小言を言う時。頼みごとをされた時。知らない表情に、少し、戸惑う。
「えっと~、先生……?」
呼ぶと、先生はようやく、こちらを向いた。
それから、私の胸元に目を落とした。吊り具に留めた、観測針の筒。さっきから、その継ぎ目のところだけが、ぼんやりと光っている。
先生の唇が、動いた。
「……そちら、でしたか」
それきり、続かなかった。
何が何やら、訳が分からない。今は、こんなことを話している場合じゃないっていうのに!
ヘルダ号のほうで、木が軋む大きな音がした。ほら、言わんこっちゃない。
「リン! この光が何か、わかるわね?」
何も言わずに、小さく頷く。
「信じて、飛んで!」
光の筋に乗って、ヘルダ号の傾いた腹の下まで光の道を辿っていく。私が出てすぐ、後ろから誰かが着いてくる音が聞こえる。真っ先に飛び出したのはたぶんペトラさんだろうなと思う。
近くで見ると、船は思っていたより大きかった。
ずんぐりした船体の、こちら側の舷が、ほとんど海面に触れそうなところまで下がっている。反対側は、空のほうへ突き上げられて、船底の板がむき出しになっていた。板の継ぎ目に、海藻がこびりついている。帆柱は斜めに傾いたまま、索が何本も、風に煽られて鞭みたいにしなっていた。
帆柱に胴を縛りつけている人。手すりに腕を絡めている人。転がり出した樽を、身体ごと押さえ込んでいる人。若いのもいれば、髭の白いのもいる。みんな、顔が真っ白で。
一人が、私たちに気づいて、手すりから身を乗り出した。
「助けてくれ! 助けて! 頼むから!」
髭の白い男。冷静さなど、とうに失っている。こんな状況じゃ当たり前だ。
「救護班、現着! 即刻対応に当たれ!」
年かさの魔女が、私より先に叫んだ。
「何人乗ってる!」
「十一! 全員いる! まだ、全員!」
十一人。
こっちは、四本。アデルの箒には、もう先生が乗っている。
年かさの魔女が、一瞬だけ、舌打ちしたのが聞こえた。
「時間も人手も……」
ペトラが、もう牽引帯の金具を外しかけていた。手すりの男のほうへ、箒を寄せようとしている。
「でも、一人でも――!」
「……体力が落ちているものから! 直ぐに行け!」
私は、船の腹の下へ、右手を伸ばした。
冷たい。
さっき、ここまで辿ってきた細い光の流れが、船の下で、ふいに幅を広げていた。手を左へずらしても、右へずらしても、まだ冷たい。押し返してくる。箒一本どころじゃない。もっと、ずっと広い。
少しだけ、船尾のほうにずれている。船は今、その流れの縁に、片側の腹だけを引っかけていた。引っかかった側が持ち上げられて、反対側が落ちる。だから、こんなに傾いているんだ。
「博打は、打つべき時に打つ」
口から出ていた。
年かさの魔女が、こちらを見た。
「博打?」
「この下に、丈夫な流れが。船が丸ごと乗るくらいの。ただ、今は端っこに引っかかってるだけで……。うまくいけば、持ち直せます」
「うまくいけば」
「……うまくいけば」
年かさの魔女は、私の顔を、値踏みするように見る。
それから、腰の牽引帯を、思い切り引き出した。
「ペトラ! ルッツ! 行くよ! 体力のなさそうな奴から柵へ縛り付けろ!」
「わっかりました!」
「は、はーい!」
年かさの魔女の号令で、全員がはじけるように飛び出した。
「頼んだよ!」
そう言い残して、彼女も二人の後へ続いていく。
「引くよ! ゆっくり! ペトラ、勝手に強く引かない!」
「分かってます!」
ペトラの声は、さっきより落ち着いていた。頬が、まだ少し赤い。
甲板の上でも、男たちが動きはじめていた。
「荷を上に! 高いほうに寄せろ! 樽からだ!」
髭の白い男が、帆柱にしがみついたまま怒鳴っている。あの人が、頼みの綱か。とても、冷静でいられる状況じゃないだろうに。若い船員が二人がかりで、転がっていた樽を、傾いた甲板の上へ押し上げていく。足が滑る。一人が膝をついて、もう一人がその襟首を掴んで引き戻した。
船の周りを飛んだ。
まず、船を起こさなきゃいけない。向かうは、操舵室。船の舳先に回ると下に窓がある。中をのぞくと、船長らしき人と、若い男が一人。コンコンとノックをする。
このまま流れの真ん中へ引き込んでも、傾いたまま入れば、高いほうだけが先に浮いて、低いほうがもっと落ちる。そうなったら、船はひっくり返る。
若い乗組員がバランスを崩しながら、窓を開けてくれた。
「救援です! 着いて来てください!」
「着いて来いったって、おいおい、こんな訳が分からん中を飛……」
……気持ちは、わかるけどね。たしかに、まともじゃない。でも、それでも。
「死にたくないなら! 着いて来て!!!」
こんなに大声を張り上げたことなんて、生まれてこの方初めてだった。そしてたぶん、これからも。
「切れるだけ、右に!!! 思いっきり切れ!!!」
汚い言葉使いだ。緊急時と言うことで。
「カカカ」
船長さんが小気味よく笑って、思い切り、舵を切った。
「浮揚、最大!!!」
ヘルダ号が、ゆっくりと、動いた。喉が、痛くて、仕方がない。それでも船は先ほど見た光へ向かって動き出している。この光の螺旋階段を、私と船が一緒に登っていく。
軋む。船体じゅうの板が、一斉に悲鳴を上げる。甲板の上で、男たちが何か叫んでいる。
低いほうの舷が、少しずつ、持ち上がっていく。
少しずつ。
「うぎゃあああああ」
「キッツイことやるねえ」
甲板の上で、縛り付けられた男たちが、悲鳴を上げている。それを見て、年かさの魔女は愉快そうに笑う。まぁ、それでも、振り落とされるよりはマシだと思うから。
艫が、流れの真ん中へ入った。
それから、船体の腹が、艫のほうから順番に、流れの中へ沈み込んでいく。沈み込んで、受け止められる。受け止められたところから、ゆっくり持ち上がる。
最後に、舳先が入った。
ヘルダ号が、大きく、持ち上がった。
足の下から、いっぺんに押し上げられたみたいに。傾いていた甲板が、軋みながら、平らに戻っていく。帆柱が、空を斜めに切るのをやめて、まっすぐに近いところまで起き上がった。
完全に、じゃない。まだ、少し揺れている。少し傾いている。
でも、浮いている。
甲板の上で、誰かが叫んだ。帆柱に縛りつけていた綱を、若い船員が、震える指でほどいている。ほどききれずに、そのまま座り込んでいた。
ペトラが、連結策の帯を握ったまま、息を吐いていた。
「……浮いた」
「まだ」
年かさの魔女が、すぐに言った。
「浮いただけ。こっからだよ……!」




