間違うわけが、ありません
霧の中に、光が走った。
最初は、私の左側、少し低いところ。俯いていたから。
すっごく細い。指でなぞったような、青白い線。霧の中を、斜めに、すうっと横切っていく。横切った端から、ほどけて消える。
目の錯覚だと思った。疲れて、霧の白さに目がおかしくなったのだと。ぶるぶると顔を振って、自分を奮い立たせる。
でも、すぐにもう一本、来た。
今度は、右の、ずっと上だった。さっきのより太くて、少し黄色みがかっている。弧を描いて、西のほうへ流れていく。流れながら、尾を引いていた。
それから、次々に来た。呆気にとられる中、似た光が、自分の吊り具から輝いている。貰った、観測針……!?
辺りを見回す。低いところにも、高いところにも、船の向こうにも、私の真下にも。何本も、何十本も。光の筋が霧の中を走って、ほどけて、消えて、またどこか別のところに現れる。交差するものがある。並んで走るものがある。途中で二つに分かれて、片方だけが消えるものもあった。
夜の空を、流れ星が一度にいくつも落ちていくように。海の上を、横に、斜めに、弧を描いて流れていく。
「なに、これ」
若い魔女が、柄を掴まれたまま、顔を上げていた。
年かさの魔女も、掴んだ手を緩めないまま、空を見ていた。三人目の魔女は、救援網の端を握ったまま、口が開いていた。
見えている。私だけではなかった。
右手を、すぐ横を流れていった光の筋に、伸ばした。
手袋の縫い目に、冷たさが触れた。
光が走っている、ちょうどその場所だった。私がさっきから、手で探って、重なって、分からなくなっていた流れ。それが、今、目の前で光っていた。
何が何だか、わからない。けれど、これが何かは、本能が理解した。
考えている暇は、ない。
船のほうを見た。
光は、ヘルダ号の周りにも走っていた。舷の上を掠めていくもの。帆柱の先へ引っかかって、すぐ切れるもの。船底の下を、ずっと低く通り過ぎていくもの。
その中に、一本だけ、船の傾いた舷の下へ、まっすぐ潜り込んでいく光があった。
私の位置から、少し右へ回り込んだところから始まって、霧の中を緩い弧で下りていき、船の腹のあたりで、消えずに留まっている。他の光が次々にほどけていく中で、その一本だけが、何度瞬いても、同じところに戻ってくる。
あれだ。
さっき、船の手前で、太いと思った流れに穂先を寄せて、三つ数えないうちに痩せたのを、まだ手が覚えている。それでも、今、自分たちがここに居るのは。
見えているからといって、通れるとは限らない。それでも、太くて、まぶしい。船のほうへ向かっている。
箒を少しだけ寄せて、明るいほうの光の下に、手を差し入れた。
途切れていない。冷たさが、手のひらの真ん中まで来る。少しずつ、少しずつ、下へ傾きながら、船のほうへ続いている。私が東岸からずっと辿ってきた、あの古い流れと、同じ手触り。これなら、あの船も支えられる。
年かさの魔女のほうを、振り返った。
「あそこ」
細くも、力強く輝く光を、指さした。
「あれなら、行けます」
年かさの魔女は、私の指の先を見た。それから、私の顔を見た。
「……OK」
「えっと、その」
「うるさい、それで十分よ」
年かさの魔女は、若い魔女の箒の柄から、手を離した。
「ペトラ。あの人の後ろ」
若い魔女が、袖で顔を拭って、頷いた。その瞳の奥にある、熱。この人たちは、どうして。
東岸海峡郵便局の指揮室の窓から、海峡を走る光が見えたのは、ミラが、
「何か光ってます」
と言ってから、ほんの数呼吸のあとのことでした。
霧の向こうに、細い光の筋が一本。
すぐに、もう一本。
ハンネスが眼鏡を額から下ろし、トマが風圧紙を取り落としました。グレイグ局長は、窓枠を掴んだまま、何も、言いません。
思わず、椅子から立ち上がって。
光は、次々に増えていきます。霧の中を、斜めに、弧を描いて、何本も、何本も。ほどけては、また別のところに現れる。
知っていました。知っていたんです。ええ、見間違えることなど、ありえません。
あの時も、隣に立っているだけで。飛べない私は、いつも、隣に立っているだけ。あの人が見ているものを、あの人の横で、一緒に見せてもらうことしかできなかった。
とってもきれいで。そして、とっても怖かった。
あの人は、いつも、その光の向こうへ飛んでいってしまうから。あの人の背中が見えなくなるまでの間が。帰ってくるまでの時間が。光が綺麗であればあるほど、怖かった。
「……昔も」
口から、こぼれていました。
窓の外で、光が流れています。あれは、ただの風路ではない。鐘で古い道が目を覚ましたからといって、霧の中で、こんなに光ることなんて、有り得ない。少なくともこんな芸当ができるのは、私の知る限り、一人だけ。
……ぶっ飛ばしたいくらい大好きな、あの人だけ。胸倉掴んで、ぶん殴ってやらないと。
「アデル」
壁にもたれていたアデルが身体を起こす。さっき東部から戻ってきたばかりで、まだ髪が乾いていません。今日は、東部との往復を一度も止まらずに飛んでいるのは、承知の上。
「はい」
「私を、あの子の元まで」
アデルは、一度だけ、私の顔を見ました。
何を見たのかは、分かりません。私がどんな顔をしているのか、自分では見えませんので。
アデルは、何も訊かずに。
「承知しました」
とだけ。本当に、素直ないい子です。壁に立てかけてあった箒を、もう掴んでいる。
グレイグ局長が、こちらを向いて。何か言いかけて、口を閉じます。言っても無駄だと思ったのか、言うべきことがなかったのか。たいへん、よろしい。
階段を下りる時、手すりを掴んだ私の指は、少し震えていたのを、覚えている。
だって、そうでしょう?たいへん、腹立たしいのだから。
細い光の、始まるところまで回り込んだ。
穂先を、光の上に乗せる。箒の腹に、薄い支えが来た。光と同じ場所に、同じ太さで。
ゆっくり、下りはじめた。
弧の内側を、外れないように。光がほどけかけるたびに、手を伸ばして確かめる。ほどけているのは光のほうで、流れは手の中に残っている。光が戻ってくる。手の中の流れと、また重なる。
後ろで、救援班の箒が、一本ずつ、同じ筋に乗ってくる気配がした。ペトラが一番近い。年かさの魔女が、その後ろ。三人目が網を広げる準備をしながら、最後尾につく。
ヘルダ号の腹が、少しずつ近づいてくる。
甲板の上で、誰かが叫んでいた。今度は、聞こえた。
「なんなんだ、もう! 助けてくれ!」
その時、東のほうで、何かが光った。
海峡を走る光とは、違う光り方。一点が、まっすぐこちらへ向かってくる。霧を、まるで紙みたいに裂いて。
速い。あんな速さで飛ぶ箒を、私は一人しか知らない。
アデル。絶対来てくれるんだよね、こういう時には。
穂の細い、速く飛ぶためだけの箒。その後ろに、校長先生が乗っている。外套の裾が、風に煽られて真横になびいていた。
先生は、アデルの腰に片腕を回したまま、こちらを見ず、周囲をただ、ずっと見まわしていた。海峡中を流れていく光を、見ているんだろうか。




